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主日礼拝説教「平和の挨拶とともに」 日本基督教団藤沢教会 2009年8月9日
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主の言葉が再びヨナに臨んだ。
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「さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ。」
《平和への証し》 先週の「平和聖日」に続いて、「平和を祈る」礼拝として、今日の礼拝を迎えました。今日は特に、「平和を祈る」ことと共に、「平和への証し」を、礼拝の中で共に確かめたいと願っています。すでに、S姉の「証し」をうかがいました。今年は、例年になく若い方の証しです。これまで、少なくとも私が着任してからは、いつも、戦争を体験した方の証しをいただいてきました。今年は、二世代飛び越えて若い方の証しをうかがうことになったのです。実は、どなたに証しをしていただいたらよいかとお考えくださった担当の方々が、「今年は、ぜひ若い方に」とおっしゃられていたのですが、なかなか適当な方が見あたりませんでした。そこに突然与えられたのが、S姉です。もう、立証者を決めなければいけないタイムリミットだという時期になっていたときに、S姉が留学先から夏休みで帰国されました。平日の集会でお話しくださった証しをうかがいました。ぜひ、留学先に戻られる前に、「平和への証し」として8月の礼拝で証しをしていただきたいと思い、担当の役員方とも相談して、お願いすることになったのです。S姉のお話しくださった証しも、主の恵みの御手の導きの大いなることを確かめさせていただくものでしたが、この日、S姉に証しをしていただけることになったのも、わたしには、大いなる主の御手のお働きによることと思わないではいられません。 ただひとつ、残念な思いがないわけではありません。それは、教会学校が昨日から明日までの予定で夏期学校に行っており、子どもたちはもちろん、スタッフ奉仕者の皆さんも、この礼拝でご一緒に証しをうかがい、祈りを合わせるということができないことです。例年は、教会学校礼拝でも、こどもたちのために証しを語っていただいていましたが、今年は、それも適いませんでした。 今日8月9日は長崎原爆の日。この礼拝を共に導かれている最中、11時2分に合わせて、今年も平和に向けた特別な祈りが各地で献げられていることです。その平和への祈りの式典は、広島でも長崎でも、多くの若い世代、子どもたちと共に造り上げられている。その様子を見ながら、教会の「平和を祈る礼拝」も、子どもたちと共に献げられないだろうかと密かに考えております。次の世代、子どもたちに、わたしたちの「平和への証しと祈り」を受け継ぎ、託していく。そのような教会の営みとしての「平和礼拝」です。合同礼拝の形式であれば、来年からでもできるでしょう。それ以外にも、いろいろとアイデアはあるのです。 ただ、今は、そのことを、ここにいる皆さんが願っていただきたいのです。そのような願いを共にしていただきたいと思い、先ほどの讃美歌371「このこどもたちが」を歌いました。「このこどもたち」とはどの子どもたちでしょうか。この礼拝にたまたま親と一緒に出席している幼子たちでしょうか。その幼子たちはもちろんですが、教会学校に通ってくる子どもたち、幼稚園に通ってくる子どもたち、そして、そのそれぞれの家族、そこに連なるすべてのこの地域の人々。わたしたちには、真の主の平和へと招き導くべき、たくさんの「信仰の子どもたち」が、周囲にいます。教会に託された「子どもたち」があり、また、わたしたちの一人ひとりに託された「子どもたち」がいる。 8月の「平和を祈る礼拝」、若い立証者が与えられた中で、わたしたちの平和へ向ける営みもまた、新しいところへと導かれていることを、主の恵みとして覚えたいと思うのです。 マタイ福音書の御言葉の中で、主イエスが派遣の言葉を告げています。 「わたしはあなたがたを遣わす」(10:16) ここで、主イエスは、ご自分の御業を託されるために、十二人の弟子たちをお遣わしになられたのです。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった(10:1)、と言われていますし、主イエスご自身が弟子たちに、「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、使者を生き返らせ、重い皮膚病の人を清くし、悪霊を追い払いなさい」(10:7〜8)と命じていらっしゃる。 主イエスは、町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた(9:35)というのだけれども、いくら主イエスといえども、お一人ではとても手が回りきらなかった、ということでしょうか。たとえそうだったとしても、主イエスでいらっしゃれば、天の父に願って十二軍団以上の天使(26:53)を送ってもらって、ご自分の御業を行わせることもおできになられたでしょう。ところが、主イエスは、そうはなさらなかったのです。むしろ、ご自分の御業を、人の手に託された。しかも、弟子たちに託された。 どんなに立派な弟子たちかと思えば、主イエスがご自分の御業を託された弟子たちは、決してそうではないのです。十二人の名前が紹介されています。わたしたちが知っているこの弟子たちの人物像は、どの人も、物わかりが悪く、疑い深く、移ろいやすく、いざとなったら裏切ってしまうような、平均的に言えばわたしたちと大して変わらない人たちです。主イエスが、どういう基準でこの弟子たちを選ばれたのか、よく分かりません。むしろ、選ばれた基準などなくて、主イエスがたまたま出会われた人が弟子として招かれた、と言うしかないようにも思える。ある牧師が、アメリカの教会の小学生のクラスで一番弟子のペトロについて学んだ後に、「このことからイエスさまについてわかることがありますか」と問うたところ、一人の生徒が「イエスさまには人を見る目がなかったということです」と答えたと言います(ウィリモン『洗礼』53〜54頁より)。 けれども、主イエスは、そのような弟子たちの一人ひとりに、ご自分の御業を託された。託すために、ご自分の神の子としての権能をお授けになられた。いや、むしろ、天の父を深く信頼する信仰を、お授けくださった、というべきかもしれません。「天の国は近づいた」とはっきり口にすることができる信仰、父なる神の御業の近さ、その恵みの確かさを、主イエスは、弟子たちに触れさせてくださった。それはもう、弟子たちが主イエスと一つにしていただく、ということでありましょう。たとえ、弟子たち一人ひとりは立派でなくても、物わかりが悪く、疑り深くても、その弟子たちの中で主イエスが、ご自分の御業を行ってくださる、ということでありましょう。 主イエスは、そのようにして、ご自分が出会われて招かれた弟子たちの一人ひとりと共にいてくださろうとしたのだと思います。そして、その弟子たちを通して、さらに多くの人たちとも出会ってくださり、招いてご自分の弟子の一人として、共にいてくださろうとしたのではないでしょうか。その弟子たちの中に、わたしたちも加えられている。主イエスが、わたしたち一人ひとりをご自分のもとに招いてくださって、『天の国は近づいた』と口にすることができる信仰、父なる神の御業の近さ、その恵みの確かさを、わたしたち一人ひとりに触れさせてくださっている。そして、はるかな時と空間を越えて、今、主イエスは、わたしたち一人ひとりと共にいてくださろうとしている。 わたしたちの願う平和とは、まず何よりも、このことでありましょう。「キリストの平和」とは、主イエスが共にいてくださることです。物わかりが悪く、疑り深く、いつ裏切るか分からないわたしたちを、それでもゆるしてくださって、「あなたと共にいる」とおっしゃってくださる主イエスが、いてくださる。そして、父なる神の御業に、繰り返し触れさせてくださる。その恵みを確かなものとして体験させてくださる。わたしたちは、父なる神に対しては、いつも遠くで背を向けているようなところがあったのに、主イエスが、共にいてくださることによって、その父なる神とわたしたち一人ひとりを和解させてくださったのです。 平和の挨拶とともに だからこそ、今、この御言葉を、もう一度新たな思いで心に刻みたいのです。 その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。(10:12) 口語訳聖書では「平安を祈ってあげなさい」と訳されていました。原文では、単語として「平和」も「平安」も出てきません。ただ単に「挨拶しなさい」というのが、主イエスの命じられたことです。けれども、ユダヤ人の主イエスが挨拶をなさるとすれば、それは、当然「シャローム」=「平和があるように」という言葉であったでしょう。そしてまた、ここで「挨拶しなさい」と訳される言葉は、「抱擁し合う」という意味の言葉なのだそうです。「挨拶をする」ということは、ただ社交辞令としてそうするというのではなく、「抱擁し合う」ような関係を持つということなのでしょう。挨拶として抱擁し合う習慣のないわたしたちです。しかし、主イエスが互いに抱擁し合うほど近さで共にいてくださる関係を、わたしたちと結んでくださるのです。 そのことを、わたしたちは、何よりも、家族に、隣人に、周囲の人々に、告げ伝えるために、主から遣わされるものであることを、覚えたいと思います。「平和があるように」と平和の挨拶を口にするたびに、主が共にいてくださることを、主と共に宣べ伝える務めに送りだしていただけることを喜び、感謝いたします。 祈り 主よ。共にいてくださること、御業を託してくださる不思議を、感謝します。主の平和を告げます。共に主の平和のうちに立つ者とならせてください。アーメン |