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主日礼拝説教 「神の恵みを受け継いでほしい」

日本基督教団藤沢教会 2009年8月16日


7 主よ、あなたがわたしを惑わし、わたしは惑わされて、あなたに捕らえられました。
あなたの勝ちです。わたしは一日中、笑い者にされ、人が皆、わたしを嘲ります。
8 わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり、「不法だ、暴力だ」と叫ばずにはいられません。
主の言葉のゆえに、わたしは一日中、恥とそしりを受けねばなりません。
9 主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい、と思っても
主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がります。
押さえつけておこうとして、わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。
10わたしには聞こえています、多くの人の非難が。
「恐怖が四方から迫る」と彼らは言う。「共に彼を弾劾しよう」と。
わたしの味方だった者も皆、わたしがつまずくのを待ち構えている。
「彼は惑わされて、我々は勝つことができる。彼に復讐してやろう」と。
11しかし主は、恐るべき勇士として、わたしと共にいます。
それゆえ、わたしを迫害する者はつまずき、
勝つことを得ず、成功することなく、甚だしく辱めを受ける。
それは忘れられることのない、とこしえの恥辱である。
12万軍の主よ、正義をもって人のはらわたと心を究め、見抜かれる方よ。
わたしに見させてください、あなたが彼らに復讐されるのを。
わたしの訴えをあなたに打ち明け、お任せします。
13主に向かって歌い、主を賛美せよ。
主は貧しい人の魂を、悪事を謀る者の手から助け出される。
                          (エレミヤ書20章7〜13節)

17パウロはミレトスからエフェソに人をやって、教会の長老たちを呼び寄せた。 18長老たちが集まって来たとき、パウロはこう話した。「アジア州に来た最初の日以来、わたしがあなたがたと共にどのように過ごしてきたかは、よくご存じです。 19すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。 20役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。 21神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです。 22そして今、わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。 23ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。 24しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。
25そして今、あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています。わたしは、あなたがたの間を巡回して御国を宣べ伝えたのです。 26だから、特に今日はっきり言います。だれの血についても、わたしには責任がありません。 27わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです。 28どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。 29わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。 30また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。 31だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。 32そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。 33わたしは、他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。 34ご存じのとおり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。 35あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」   (使徒言行録 20章17〜35節)




主イエスからいただいた任務を果たそう

すでに先々週、使徒パウロの書簡を通して、主から「和解のために奉仕する任務」を授けられた者として「キリストの使者の務め」へと遣わされていることを確かめました。また先週も、主イエスが、わたしたちをお招きくださり、ご自分の御業を託す弟子としてくださり、平和の挨拶とともに主が共にいてくださることを周囲の人々に証ししていく営みへと進み行かせてくださっていることを確かめました。わたしたちは、何よりも「キリストの平和の使者」としての任を与えられている者として、この世へと遣わされていく。そのことを、三週続けての「平和を祈る」礼拝を通して、あらためて心の内に刻み直しているのです。

今日の御言葉を、使徒言行録から与えられて聴きました。使徒パウロの伝道旅行が描かれている中の一つの出来事、彼が仲間の伝道者たちと共にエルサレムに向かう決意をして、それまで世話をしてきたエフェソの教会の長老たちを呼び寄せて、別れの言葉、訣別説教を述べている、という場面です。聴いていただいて、すぐに、とても深刻な雰囲気の中で語られていることがお分かりだったと思いますが、朗読された直後のところには、お互いに涙ながらに別れを悲しむ様子が描かれてもいます(使20:3638)。それは、パウロがエルサレムに行くということが、十中八九、そこで敵対する同胞のユダヤ人たちに捕らえられ、ローマの官憲に引き渡されて裁かれる、つまり死をも覚悟しなければならないことを意味していたからでした。そのような中で、パウロは、こう語り始めています。

「…自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。」

このパウロの語り口調に、あるいは違和感を憶える方もいらっしゃるかもしれません。パウロが、ほとんど一人の兵士として主イエス・キリストに仕えている、と公言しているからです。しかも、パウロは、この先でこう続けています。

「しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。」

自分の命をかえりみずに、与えられた任務に仕える、という考え方は、今の時代にはそぐわないようにも思えます。けれども、自分の命の危険を知り、死を覚悟して生きるならば、人は、このように語らないではいられないのかもしれません。別言すれば、自分の命の意味、人生の意味を本当に納得したならば、人は、自分の命の危険を知り、死を覚悟しながら、なお前に進むことができる、ということではないでしょうか。「この任務を果たすことさえできれば、自分の命を惜しいとは思わない」とは、そういうことでありましょう。

問題は、わたしたちが、命がけで果たそうと思える任務、つまり自分の人生に与えられた使命というものを、本当に知っているか、ということです。間違った任務に献身したのでは、必ず後悔し心の葛藤を抱える日々を迎えるでしょう。ですから、わたしたちは、献身に対して臆病になりがちです。間違った任務に献身して、自分の人生を台無しにしたくありませんし、命を無駄にしたくありません。

しかし、そうであれば、わたしたちは、間違った任務に献身してしまうということがないように、外から与えられる任務や使命を受けとめることをやめてしまったほうがよいのでしょうか。自分の心の中から沸き上がってくる「思い」や「使命感」を頼りにして、人生を切り拓いていったほうが、よいのでしょうか。そのほうが、安全で、確実なのでしょうか。

そう考える人は、そのような人生の歩み方しかできないでしょう。

けれども、わたしたちは、そうは考えません。キリスト者は、そうは考えません。主イエスが与えてくださる任務こそ、わたしたちが献身するに値する任務、命をかけて果たす意味のある任務であると、わたしたちは考えるのです。たとえ、主イエスに直接お会いしたことがなくても、わたしたちは、主イエスが、わたしたち一人ひとりに出会ってくださって、招いてくださって、ご自分の御業の一部を任務としてわたしたちにお与えくださる。その任務を果たすことこそ、わたしたち一人ひとりの、「命」を与えられている意味。人生を与えられている意味。わたしたちは、そう考えるのです。パウロが語るように、そう考えるのです。

 

それは神の恵みの福音を証しする人生

「主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。」

パウロは、自分が主イエスから与えられたという任務について、このように語ることができました。わたしたちも、それぞれに与えられた任務について、語ることができるはずです。パウロのように明確な言葉で語ることはできないかもしれません。けれども、皆さんには、それぞれ自分に与えられた任務、主からいただいた人生の使命を、もう一度見つめ直していただきたいのです。一度といわず何度でも、繰り返し、自分の人生のために主からいただいている任務は何なのだろうかと、問うていただきたいのです。若い方たちであれば、自分の進路を考え、職業を考える中でも、そのことをしっかりと問うていっていただきたいのです。

なぜ、そのことを問うべきなのでしょうか。それは、わたしたちが、自分で自分の命を生みだした者ではないからです。自分の命を、親に造ってもらったのでもない。わたしたちは皆、自分の命を、自分でも自分の親でもない者、命の源である神、創造主なる神から与えられて、今を生きているのです。そうであれば、わたしたちの人生は、その一部分でさえ、自分自身の所有物であるとは言えません。わたしたちは、自分の人生を、ただ、与えられた命の中で、神から託されているのです。だからこそ、わたしたちは、自分の命の源である神のご計画を知らなければならない。神のご計画の内に、自分の人生の意味を、知らなければならない。そうでなければ、わたしたちは、自分の人生を、とんだ勘違いをしたまま、無駄に過ごしてしまうかもしれないのです。

ただ、わたしたちは、本当に感性が鈍った存在なのでしょう、神のご計画がどこにあるのか、本当に理解することが遅い者でもあるのです。神のご計画を理解し難いばかりに、神から離れ、神に背を向けて、勝手な考えで自分の人生を計画してしまうのです。それでもなお、わたしたち人間が神のご計画の内に自分の人生を歩めるようにと助けてくださるのが、主イエス・キリストに他なりません。主イエスが、命の源なる神の恵み豊かなご計画を、その御業を、わたしたちに分かるようにお示しくださったのです。主イエスが、わたしたちの心に、神の恵みの事実を受けとめることのできる信仰を植え付けてくださったのです。主イエスが、神から恵みとして与えられた命を本当に人生の中で生ききる道を、切り拓いてくださり、わたしたちをそこに招き導き入れてくださったのです。

 

神の御言葉にゆだねます!

このことを確かめ、問い直していく上で、この使徒言行録20章に伝えられているパウロの説教は、わたしたちすべてのキリスト者にとって繰り返し聴くに値するメッセージです。ただ、今は、この説教を丁寧に聴き直すわけにはいきません。それでも、最後に一つのことだけは、心に刻み直したいと思います。

「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。」

「神と、神の恵みの御言葉とに、あなたがたをゆだねます」。パウロは二つのことを教えるのです。第一に、わたしたちは、神と、神の恵みの御言葉とに土台を持たなければ、人生の一日をさえあるべき形に造り上げることはできないということです。第二に、わたしたちは、家族や隣人を、自分の力や自分の言葉でどうにかしようとしてもどうにもならないのであって、ただ命の源である神と、神の御言葉にゆだねるようにしていくときにこそ、その一人ひとりの人生の日々が真実に造り上げられていく奇跡を見させていただくようになる、ということです。

わたしたちの、主イエスからいただいた任務に仕える歩み、神からの使命に生きる人生の歩みの立ち帰るべき原点が、ここにあります。「神と、神の恵みの御言葉に、ゆだねる」。自分を、信仰の兄弟姉妹を、家族や隣人、周囲の人々を。主イエスとの出会いも、神の恵みへの気付きも、ここから始まり、ここで確かなものにされるのです。だから、わたしたちは、何度でもこの営みに立ち帰る。そして、この営みへと招き、ゆだねる。

自分だけでなく、信仰の兄弟姉妹にも、家族や隣人にも、周囲のすべての人にも、神の恵みを受け継いでほしいのです。本当に主イエスからいただいた任務に仕え、神からの使命に生きる人生を生きる幸いを知ってもらいたいのです。そのために為すべきことを、わたしたちは、本当に、主ご自身から、神ご自身からお示しいただくことを求めて、絶えず御言葉に立ち帰ろうではありませんか。

 

祈り  

主よ。主にゆだね、御言葉に全身をゆだねます。恵みの御業に触れさせてください。主からいただく任務に仕える幸いを知る者とならせてください。アーメン