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聖霊降臨節第13主日礼拝説教 「新しい風を受けた家族」

日本基督教団藤沢教会 2009年8月23日


62イサクはネゲブ地方に住んでいた。そのころ、ベエル・ラハイ・ロイから帰ったところであった。63 夕方暗くなるころ、野原を散策していた。目を上げて眺めると、らくだがやって来るのが見えた。64リベカも目を上げて眺め、イサクを見た。リベカはらくだから下り、65 「野原を歩いて、わたしたちを迎えに来るあの人は誰ですか」と僕に尋ねた。「あの方がわたしの主人です」と僕が答えると、リベカはベールを取り出してかぶった。66僕は、自分が成し遂げたことをすべてイサクに報告した。67イサクは、母サラの天幕に彼女を案内した。彼はリベカを迎えて妻とした。イサクは、リベカを愛して、亡くなった母に代わる慰めを得た。
                   (創世記 24章62〜67節)


18妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。19夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない。20子供たち、どんなことについても両親に従いなさい。それは主に喜ばれることです。21父親たち、子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないからです。22 奴隷たち、どんなことについても肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい。23何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。24あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。25不義を行う者は、その不義の報いを受けるでしょう。そこには分け隔てはありません。1主人たち、奴隷を正しく、公平に扱いなさい。知ってのとおり、あなたがたにも主人が天におられるのです。
        
(コロサイの信徒への手紙 3章18節〜4章1節)



 先週、火曜日(18日)から木曜日(20日)にかけて、全国教会青年同盟の夏の修養会が開催されました。今年は特に、プロテスタント日本伝道150周年を記念する大会として、普段は分かれている西日本教会青年同盟と合同で行われました。軽井沢の会場には、北海道から沖縄まで、100名を超える参加者が集められました。ついこの前まで小学生だった若い、まだ幼いと言ってもよいような年齢の参加者も、しかし、この3日間の短い修養会の中で、神の語りかけを聞き変えられて行きました。来た道と同じ顔つきで帰った者は、講師やスタッフを含め一人もありませんでした。中学1年生の子どもが、人生の意味を初めて考えた、人生の目的を探し始めた、という言葉を口にすることに、感動を覚えずにはおられませんでした。生来、私たちは、必ず使命が与えられています。私たちをお造りになった神の目的がある。私たちの命には、生物学的な生命としての命(ビオス)だけでなく、使命としての命(ゾーエー)があるのだ、というメッセージが、若い魂に触れました。「使命」というのは、「命を使うこと」です。何に、人生を使っていくのか。何のために、生きるのか。今までは、親や周りの人たちが自分のためによいことをしてくれ、支えてくれた。しかしこれからは、自分の人生の意味を自分で問うていかねばならない。終わりの「聖別会」では、このような決意の告白が参加者一人一人の口を通してなされました。中高生年代で、こういう人生の大きなテーマに出会うというということは、何にも替え難い経験だと思います。


 本日は、私たちの教会でも、壮年の集いが行われます。≪わたしたちの老後をどう過ごしますか!≫という大変興味深い題の講演会を準備してくださっていますけれども、私たちは、「どう生きるか?」いつもそういった問いに囲まれて生きていると言ってよいと思います。少年は少年、青年は青年なりに、壮年、老年。私たちは、それぞれの年代を生きながら、その年代に特有の関係を築き、特有の距離感をつくって行きます。親子や兄弟の関係も変わるでしょう。年齢に応じて呼び方を変えたりするといったことは、そのような関係の変化の表れです。友人もまた、出会ったり、疎遠になったり、再会したり…そういう変化を、私たちは、この地上の時間の中で絶えず経験していきます。


 本日朗読された創世記24章に描かれる物語は、アブラハムの子イサクが、リベカという女性と出会い、彼女を愛することで、「亡くなった母に代わる慰めを得た」(創24:67)ことを告げています。以前、母親から受けていた慰めに代わる慰めを、人生の決定的な出会いを経験して、ある女性から受けることになってゆく、私たち一人一人もまた、このようなドラマの中に生かされています。愛する人との死別を経験するとき、なぜこの人と同じ時代を生きることができないのかと、どうにもならない寂しさを深くする時があります。しかしその深い悲しみを経て、また人を愛することによって慰めを得る、このような私たちの人間関係のドラマの中に、神は、ご自身のおはたらきを明らかにされます。この人生の節々に与えられる出会いに、私たちは、神の導きを感じないではおられないのではないでしょうか。この礼拝に招かれた一人一人との交わりもまた、神の御計画の導きであることを憶えたいと思います。交わりというのは、私たちにとって、時に煩わしさを感じさせるものかもしれません。誰とも挨拶を交わすことなく礼拝から去って行きたい、信仰生活の中では、そういった心の紆余曲折もあると思います。しかし、そのような局面を経て、この共同体の交わりは成熟させられていきます。私たちは、共に神を仰ぐ交わり、という神の目的に招かれているのです。


 私たちは、この地上に生まれ出た初めの時から、意図せずにこの交わりの中のメンバーとして、生まれました。親がなくて生まれる子はありません。私たちの主イエス・キリストも、その例外ではありませんでした。主イエスもまた、母マリアから生まれ、父ヨセフのもとで幼い日々を過ごされました。唯一主イエスの少年時代を伝えるルカ福音書の2章41節以下には、神殿で教え、学者たちを驚かされた出来事が記されています。並はずれた賢さ、その知恵に、周囲の者は驚嘆しました。しかし、その後主イエスは、故郷である「ナザレに帰り、両親に仕えてお暮しになった…イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」(ルカ2:51〜52)と伝えられています。聖である神が、私たちの生きるこの俗なる世界の只中にお生まれになり、俗なる地上の交わりのうちにお育ちになりました。交わりとは、ただ一緒に話したり、どこかに出かけたりするということではありません。主イエス・キリストの全生涯を貫いて示された愛を心から学ぶことです。私たちが、意図せず最初からこの交わりの中に置かれたというのは、キリストによって示された神の愛を、知り行うようになるためです。私たちの現実は神の愛からは遠いものです。今まで、一つも交わりを壊さずに生きてきた、と言える人はいないのではないでしょうか。神との交わりが閉ざされていることから、交わりの破れが生じてきます。神を知ること、愛であられる神を知るために、私たちは愛を学ぶことへと招かれています。


 本日朗読された新約聖書の手紙は、「家庭訓」と呼ばれている箇所です。夫婦関係において、また親子関係において、この世の主人と僕の関係において、私たちがどうあるべきかを勧めている言葉です。「妻たちよ」。「夫たちよ」。まず初めには夫婦の関係について語られています。この夫婦の最初の存在は、創世記の初めに描かれたアダムとエバです。神は、人、アダムを造られた後でこのようにおっしゃいました。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」(創世記2:18)神は、最初の人、アダムを深い眠りに落とされました。そうして、アダムの一部を取り、もう一人の人をお造りになりました。エバです。アダムは言います。「ついに、これこそ わたしの骨の骨 わたしの肉の肉。」(創世記2:23)「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体になる。」(創世記2:24)とあります。父母を「離れて」という言葉は、非常に強い言葉です。「捨てる」という意味もある「アーザブ」というヘブライ語ですが、この「アーザブ」は、キリストが十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言った(マタイ27:46)、「捨てる」という言葉と同じ言葉です。父母を「捨てる」などと言うのは、具合が悪いのですが、血肉の親子関係が、非連続的な関係であることを暗に語っている箇所とも言えます。しかし、この直後では、親子関係を離れてまで強い絆で一体とされたこの夫婦は、失楽園の出来事の中で破れを共にするものとなって行きます。互いに、悪を手渡す存在、責任を転嫁する存在へと変わって行くのです。互いにパートナーでありながら、仕え合うことの難しい、愛し合うことの困難な局面を経験しなければいけない夫婦。そのような関係において、聖書は、妻である女性に対し、改めて「仕えなさい」と言います。


 妻が夫に「仕える」という言葉はしかし、今の時代にそぐわないという印象を免れません。男性が女性に仕える、だなんて、古い!たしかに、聖書が書かれた時代背景を無視することはできないと思います。女性と男性の役割が明確に分けられていた社会において、使徒パウロは、キリスト・イエスにおいては男も女もない、と別の手紙に綴っています。しかし、パウロはまた、この新しい福音を反社会的な仕方で推し進めようとはしません。キリストにおける平等に生きる信仰者の女性に対して、なお、夫に仕えることを強く勧めるのです。それは、今置かれている秩序の中で、神の御旨を尋ね求める生活です。しかしまた、男性に対する勧告も忘れません。「妻を愛しなさい」。この愛は、相手の魅力や優れたところを愛する愛ではなく、意志する愛、アガペー(ギリシャ語)です。愛するに値しないところを、愛してゆく意志です。私たちは、このパートナーシップを、信仰の家族において実現させているものとして、その前提の上に語られている言葉であることを忘れてはなりません。


 アガペーの愛(意志する愛)は、神の愛です。無償の愛、犠牲を伴う愛というふうにも表現されますが、しばしばそれは親の愛にたとえられます。親が子に対して注ぐ愛というのは、しかし、今日、非常に混迷を来していると言わざるをえません。子が親を、親が子を重んじない状況があり、多くの家庭内暴力のニュースが舞い込んできます。子どもを「いらだたせてはいけない。いじけるといけないから」という言葉は、以前私たちの間では滑稽にも聞こえたはずですが、決してないがしろにできない響きとなって聞こえてきます。私たちは、子どもたちに対する責任を誇示するばかりでなく、配慮についても、心を砕いて学ばねばなりません。「いじける」というのは、元気を失わせることです。無気力にしてしまうことです。いじけないように子どもの顔色を窺うというのではなく、親である私たちが信仰の確信に立たせていくことによって希望を与えていくことが求められています。私たちは、この教会に与えられた、子どもたち一人一人に対して、このように勧められているのです。


 さて、最後に呼びかけられている人々は、「奴隷」と「主人」です。主人と僕の関係について語ることは、聖書では珍しくないことですが、そのことに違和感を覚える方も少なくないと思います。このところもまた、時代的な背景があり、その状況抜きにしては、正しく聞くことはできませんが、キリスト教は、奴隷制度を持つ社会を容認しているという批判もあります。パウロはここで妥協しているのではないか、と思われるかもしれません。初代の教会の人々は、まったく新しいキリストの福音に生きていました。今日の箇所の直前にはこのような言葉が記されています。「もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです」(コロサイ3:11) パウロには、このような確信がありました。しかし、デモを起こして、徹底的に人権問題をやった、というのとは違います。


 パウロの時代も、私たちの生きている世界もまた、神の御心を痛める政治の構造や制度がたくさん存在します。人権保護を目的とした戦争が多くの生命を奪います。人間がつくり上げる平等は、いつも不確かなものです。私たちは、この不平等な人間の社会において、「神の平等」を知っているからこそ、進んで、欠けているところを補おうとし、弱い部分を助けようとするのです。あるいは逆に、補われ、助けられてもおり、教会は、そういった関係を貸し借りには思いません。それどころか、そこでこそ共同体の結びつきが強められると信じているのです。私たちの教会では、自分の足で礼拝堂に来ることが困難な方のために、有志で送迎の奉仕をしてくださっている方があります。私が以前に属していた教会でも、その問題を深刻に受け止めていました。信仰の家族が、礼拝から遠のいてしまっていることに、非常に心を痛めました。それまで個人的に送迎奉仕をしてくださっていた方もまた、年をめされ、人を乗せるのには少しずつ不安を覚えられる時期にありました。そして、介護タクシーを利用した送迎を、教会の業として始めたのでした。これからどんどん、高齢者が増えていく中で、教会がすべての教会員に対して平等にその問題を賄っていけるのか、という議論もありました。しかし教会は、今できることから始めよう、という決断をして前に進みました。


 すべて、私たちのものさしで「平等」を考えると、必ず歪みが生じます。そうであるからこそ、私たちは、私たちの平等を行うことではなく、「真心をこめて」、互いに仕え合うことを目指すのです。キリストご自身が目指すように示してくださったのも、平等ではなく、互いに仕え合うための模範でありました。この短い箇所には、「主を畏れ」、「主に対してするように」、「主キリストに仕え」るようにするのだ、という言葉が繰り返し語られています。主に倣い、主の御前に生きる信仰こそが、私たちの家族の交わりを確かなものとするのです。私たちは、交わりの内にあって、時に孤独を感じます。キリストもまた、弟子たちに囲まれながら孤独を生きられました。唯お一人、孤独に十字架への道を進まれました。それは、私たちのうち、誰一人として疎外されず、唯お一人の主であるキリストにあって交わりの中に生きるためにです。キリストにより、私たちには新しい家族が与えられました。私たちは、キリストへの信仰において、与えられたこの交わりを新しく生き始めるのです。交わりには葛藤があります。しかし、私たちは、その葛藤を乗り越えて、キリストの御前に、互いにゆるし合い仕え合う群れとして、この交わりが導かれるよう、共に祈り願いましょう。