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主日礼拝説教「共に忍耐して待ち望もう」 日本基督教団藤沢教会 2009年8月30日 17いちじくの木に花は咲かず ぶどうの枝は実をつけず オリーブは収穫の期待を裏切り 田畑は食物を生ぜず 羊はおりから断たれ 牛舎には牛がいなくなる。 18しかし、わたしは主によって喜び わが救いの神のゆえに踊る。 19わたしの主なる神は、わが力。 わたしの足を雌鹿のようにし 聖なる高台を歩ませられる。 18現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。19被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。20被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。21つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。22被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。23被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。24わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。25わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。 (ローマの信徒への手紙 8章18〜25節) 24イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。25人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。26芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。27僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』28主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、29主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。30刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」 (マタイによる福音書 13章24〜30節) この世界、この国、この社会の中で… 今日の福音書の御言葉で、主イエスが、「ある人が良い種を畑に蒔いた」(24節)と語り始めています。主イエスは、この「畑」というのは世界のことだと、あとで説明なさっています。神はこの世界に「良い種」、本当に良いものを蒔いてくださっている。それが芽を出し、成長し、豊かに実るように、主が世話をしてくださっている。天の国というのは、そういう世界に蒔かれた良い種が、豊かに良い実りを実らせていくこと。主イエスのたとえは単純すぎるとさえ思えるものですけれども、このような素朴な信頼、素朴な希望に依って立って生かされていくことが、主イエスのお教えくださっていることなのだと思います。神のお造りくださったこの世界を信じ、この世界に生かされている人々を信じ、この世界も世界の人々も、神の良きものによって良き実りを実らせるようにされているのだと、そのように素朴に信じ、素朴に希望を抱くことに依ればこそ、わたしたちは、真剣に世界のために祈り、国のため、社会のために祈り、政治家のため、隣人のために祈る、そういうことに心から取り組むことができるのではないでしょうか。 「毒麦を抜き集めましょうか?」 この主イエスの天の国のたとえは「毒麦のたとえ」と呼ばれます。畑に良い種が蒔かれているはずなのに、眠っている間に、敵が来て、いつのまにか麦の中に毒麦を蒔いて行く。そして、その毒麦が芽を出して、良い麦の間に成長してくる。 「ドクムギ」には表面に糸状菌と呼ばれる種類の菌類が寄生して、それが毒性を持つのだそうです。それが、生え始めはコムギによく似ていて、しかもコムギの根に絡みつくように生えてくる。そういう、紛らわしくも厄介な植物です。 そういう毒麦でたとえられている存在を、わたしたちは、歓迎しないでしょう。いったいどうしてそんなものが紛れ込んできたのかと、このたとえに出てくる僕たち同様に、考えるでしょう。せっかく、神が良い世界をお造りくださって、良いものを与えてくださって、わたしたちのことも良い者にしてくださろうとしているというのに、その足を引っ張るような毒麦の存在は、どうしたって受け入れがたい。そういう毒麦の存在は、早く抜き取ってしまった方がよいと、そのように考えるのは、わたしたちにしてみれば当然なのではないでしょうか。 もちろん、だからといって、わたしたちは、毒麦のような存在を、そう簡単に取り去って、追い出してしまう、というわけではありません。せっかちに取り除こうとしてしまうこともありますが、たいていは、主の教えを思い出して、毒麦の存在を追い出すという行動を、思いとどまる。 「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタ5:44) 「人を裁くな」(マタ7:1) あるいは、合わせて、使徒パウロの教えも想い起こすかもしれません。 「主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。」(Tコリ4:5) そして、こう思うかもしれません、「このような毒麦の存在に直面させられるのも、神が与えられた試練なのだから、自分は信仰者として忍耐して耐えて、信仰者としての義を貫こう」、と。この毒麦の存在を、神が許してわたしたちの前に置かれたのであれば、それは、神から与えられた、忍耐して耐えるべき試練でありましょう。忍耐して、その毒麦が取り除かれることを待ち望めば、いずれは、そのこと自体をお認めいただけるかもしれません。 ただ、注意していただきたいのです。主イエスは、このたとえ話の中で、主人に、この毒麦の蒔かれたのは「敵の仕業だ」と語らせているからです。敵の仕業、悪魔の仕業です。毒麦の蒔かれたのは、神の御手のお働きによることではない、神の御心によることではないと、主はお教えになるのです。そうであるとすれば、主イエスはなぜ、敵の仕業であり、神の御心によることではない毒麦の存在を、お許しになられるのでしょうか。主イエスは、人を裁かず、敵を愛するという、究極の教えを、わたしたちに実地で訓練させるために、毒麦の蒔かれるのを、されるがままにしておかれる、というのでしょうか。そういう、本当に主イエスが体験なさったような苦難の道にわたしたちを進み行かせて、キリスト者として完成させられる日を忍耐して待ち望むように、お求めでいらっしゃるのでしょうか。 「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」 ある意味では、そのとおりなのだと思います。そのことを、わたしたちは、キリストに従う者として、常に突きつけられて、「あなたは、どうするか」と問われている。まだ洗礼を受けていない者に対しても、主イエスは、ご自分に従うとは、キリスト者になるとは、ある意味では、そういう主の味わわれた苦難に対する忍耐を共にして、人間として完成させられることを求め続けることなのだ、それでもあなたはキリスト者になるかと、厳しく突きつけられている。そのことを、ある意味では認めないわけにはいきません。 けれども、一方で、わたしは、この毒麦のたとえを聴き取っていく上で、もう一つのことを申し上げたいのです。 「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」(29〜30節) なぜ、主イエスは、これほどまでに強く、「刈り入れまで、育つままに」ということをおっしゃられたのでしょう。それは、毒麦と麦を決して分けられないからでしょう。そういう現実があるからでしょう。そういう毒麦と麦、悪いものと良いものとの両方を、渾然一体として持ち合わせている存在。それは、わたしたち一人ひとりに他ならないではないですか。わたしたちは、うっかりすると、あれは毒麦、あれは良い麦、あの人は毒麦、自分は良い麦、いや自分も毒麦、などと、白黒はっきりさせて考えがちです。けれども、主がお教えくださったのは、わたしたちが、毒麦も麦も持ち合わせているものだということです。 この世界の中のごく一部にすぎないわたしたちの心の畑に、神は良い種を蒔いてくださる。御言葉という良い種を、たくさん蒔いてくださる。わたしたちの心の畑が良い状態になっていれば、そこから三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶほど、良いもの、良い麦を、わたしたち一人ひとりは、すでに蒔いていただいている。ところが、それと同時に、わたしたちは、うっかり眠り込んでいる隙に、毒麦を蒔かれ、芽生えさせ、毒麦の実を実らせてしまう、そういう者でもあるのです。わたしたち人間の心の奥底に、毒麦を蒔くチャンスを狙っている敵、悪魔が、身を潜めている。そして、隙あらば、毒麦をわたしたちの心の畑に蒔き入れて、良い種の実り、御言葉の実りの邪魔をするのです。 だから、わたしたちが忍耐すべきは、わたしたちの外にある毒麦ではない。むしろ、わたしたちの内なる毒麦。いや、わたしたちの内で毒麦に根っこのところで絡みつかれている良い麦、その良い麦をなお成長させていくための忍耐です。慌てて毒麦を引っこ抜こうとして、良い麦までも台無しにしてしまったりすることがないように、わたしたちは、毒麦と麦との渾然一体となっている自分自身の心の畑と、忍耐して向き合っていく。忍耐して、毒麦が伸びてきても、それでもなお、もっと早く成長する良い麦の枝、御言葉の豊かな実りの実ることを待ち望む。なぜなら、忍耐して待ち望むならば、神は、本当に良いものをこそ、大きく豊かに実らせてくださると、主はお約束くださっているのです。 「種を蒔く人のたとえ」に、すでに触れてきました。毒麦のたとえは、あの「種を蒔く人のたとえ」に続いて、いわば「種を蒔く人のたとえ」に付け加えて教えるために語られたのです。その「種を蒔く人のたとえ」を説明して主がお教えになられたのは、「御言葉を聞いて悟る人」(23節)になりなさいということです。 「御言葉を聞いて悟る人」。御言葉に聴く。聴くのです。まず聴く。悟るほどに、じっくりと深く聞くのです。聞いたつもりになって慌てて行動する必要はない。主は、そのような行動を期待してはいらっしゃらない。深く悟るほどにじっくり御言葉に耳を傾けて聴く。御言葉の主、父なる神の御心に触れるほどに、静かに、深く、御言葉に耳を傾ける。そのようにして御言葉を聞き、悟る人に、主は、三十倍、六十倍、百倍の実りを、確かに実らせてくださると約束してくださっている。この約束が、決して空約束ではないということを、本当に御言葉を深く聞き続ける歩みをした者は、知っています。わたしたちは、そのことを知っています。だから、忍耐して、待ち望む。自分の中にある毒麦にも心挫けないで、なお、御言葉の良い種の大きく成長することを待ち望むことができるのです。 だから、すべての人に、共に、忍耐して待ち望んでいただきたい。少なくとも、教会の群れの中へと招かれているすべての人とは、同じ忍耐を共にし、ひとつの実りの希望を待ち望む歩みを共にしていただきたい。もうすでに、皆さん一人ひとりの心の畑の中に、神の御言葉の良い種が、蒔かれているからです。心の奥底から出てくる毒麦に絡め取られずに、御言葉の良い実りをこそ、共に分かち合いたいのです。良い実りを分かち合う。そのためにこそ、わたしたちは、ひとつの群れへと招かれ、集められ、共に歩むように導かれているのです。 祈り 主よ。心の奥底に悪が潜み毒麦を生み出す者でありますのに、良い種を蒔いてくださいます。御言葉を聞き悟り、実りを結ぶ者とならせてください。アーメン |