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主日礼拝説教「聞き分け、見分ける心を!」

日本基督教団藤沢教会 200996

4王はいけにえをささげるためにギブオンへ行った。そこに重要な聖なる高台があったからである。ソロモンはその祭壇に一千頭もの焼き尽くす献げ物をささげた。5その夜、主はギブオンでソロモンの夢枕に立ち、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われた。6ソロモンは答えた。「あなたの僕、わたしの父ダビデは忠実に、憐れみ深く正しい心をもって御前を歩んだので、あなたは父に豊かな慈しみをお示しになりました。またあなたはその豊かな慈しみを絶やすことなくお示しになって、今日、その王座につく子を父に与えられました。7わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。8僕はあなたのお選びになった民の中にいますが、その民は多く、数えることも調べることもできないほどです。9どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。」

10主はソロモンのこの願いをお喜びになった。11神はこう言われた。「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。12見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない。13わたしはまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。生涯にわたってあなたと肩を並べうる王は一人もいない。14もしあなたが父ダビデの歩んだように、わたしの掟と戒めを守って、わたしの道を歩むなら、あなたに長寿をも恵もう。」

15ソロモンは目を覚まして、それが夢だと知った。ソロモンはエルサレムに帰り、主の契約の箱の前に立って、焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげ、家臣のすべてを招いて宴を張った。
                 
(列王記上 3415節)

 

44天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
45また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。46高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
47また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。48網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。49世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、50燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
51「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。52そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」
                 (マタイによる福音書 134452節)

聞き分ける心を!

9月を迎えました。「行事の秋」から「クリスマス」へと、教会が一年の内で最も忙しくなる季節の始まりです。9月第一日曜日を「振起日Rally Day」として守ることをご存じの方もあると思いますが、わたしたち、「振起日」の習慣をすでに守らなくなっても、やはり、この季節を迎えるときに、信仰の立て直し、祈りの再結集とでも言うべきことに取り組むことが大切であるように思います。さまざまな行事に取り組み、教会の歩みについて議論し合う中で、わたしたちが、本当に大切にすべきこと、優先すべきことを、見失わないようにするためです。

今日の旧約の御言葉は、有名なソロモン王の物語の中の一節が朗読されました。ソロモンが、父ダビデ王の跡を継いで王位に着いたときに、礼拝を献げて、そこで神に願ったこと、それが「聞き分ける心」(王上3:9であって、それに対して、神がソロモンに「知恵に満ちた賢明な心」(同3:12を与えてくださった。その結果、ソロモンは、その知恵の深さで知られるようになった、という逸話です。一国の王位に着くということは、わたしたち庶民の想像を超えたことですけれども、ソロモン王の時代、恐らく現代国家のような官僚制度が整っているわけでもなく、王自らが取り組まなければならない課題や事業は、大変な量であったでしょう。王として、そのような国家的な課題や事業に取り組み始めるときに、ソロモンは、神を礼拝し、神に祈り求めることを通して、自分の王としての心構えを見定めようとしたのだ、と言っても良いと思います。

「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。」(王上3:9)

でも栄光でも長寿でもなく、「人々の訴えを聞き分ける心」を願い求めて、自分のものにすることが、何よりも大切なこと。ソロモン自身が、そのことをよくわきまえていたということであれば、立派なお話しですが、必ずしもそういうわけではないかもしれません。ソロモンは、「わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません」(王上3:7と言うのです。王位には着いたけれども、ちょっと自信がないところがある。それを、神に打ち明けて、祈り願った。そうしたところが、その願いどおり知恵に満ちた賢明な心を与えていただいた。それが、ここの御言葉で描かれている様子です。

わたしたちは、王になるわけではありませんし、政治家になる者もほとんどいません。ですから、このソロモンの話を遠い出来事のように思う方もあるかもしれません。けれども、「この僕に聞き分ける心をお与えください」という言葉は、すべての者の祈りの言葉として覚えるに値するものではないでしょうか。

人の訴えをきちんと聞き分ける。わたしたちが様々な営みに関わる中で、大切な、無視できないことです。それでいて、得意な人はあまりいない。むしろ、人の訴えを見誤ります。聞き損ないます。でも、だからこそ、この「聞き分ける心」を神に祈り求める必要があるのではないでしょうか。謙虚になって、何よりも神にいただかなければならないものとして、祈り求めることではないでしょうか。

 

「天の国」を求めよう!

そういう意味で、この「聞き分ける心をお与えください」というのは、直接には、「人の訴えを聞き分ける」ことを願っている祈りなのだけれども、同時に、これは、「神の御心を聞き分ける」ことを願っている祈りでもあると思います。人の訴えることを聞き分けられるように願うならば、究極的には、神の御心を聞き分けることを願うしかない。神の御心を聞き分けたいと願う祈りの中でこそ、人の訴えることを聞き分けられるようにという願いは、真実のものになる。そういうことが、実は聖書の告げている大切なことなのではないかと思うのです。

この旧約聖書の御言葉と合わせて、マタイ福音書の御言葉を聴きましたが、そこに「天の国のたとえ」が三つ語られています。この「天の国」のたとえも、わたしたちは、何よりも、ここに神の御心が示されているものとして聴き取っていきたいのです。神の御心を深く聞き分けていくための手だてとして、主イエスは、「天の国のたとえ」をお語りくださった。そして、このたとえを通して、神の御心を聞き分け、さらに、人の訴えを正しく聞き分けていく知恵を、わたしたちにお与えくださろうとしている。そのように申し上げても許されると思うのです。

そういうところから、今日の「天の国のたとえ」を聴き直してみたいのです。

畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。

たとえ話ですから、聴く人が自由に理解してよいのでしょう。それでも、あえて説明を加えるならば、まず、このたとえで、何を見つけて、何を買ったかに注意していただきたいのです。このたとえ話では、ある人が畑に隠されている宝を見つけ、そして、その宝が隠されている畑を買った、と語られています。宝だけを掘り出したのではない。宝はそのまま隠しておいて、その畑を買ったのです。

このたとえにもう一行加えて、「そして隠したままにしていた宝を畑から掘り出した」となっていたほうが、何となくすっきりするように思いますが、たとえは、この「畑を買う」というところで終わりです。どうしてでしょう。宝を手に入れることも大切だけれども、宝の隠れている場所を見出して、その場所を自分の場所、自分の生きていく場所として自分のものにしていくことのほうが、実際には大切なことだ、ということではないでしょうか。

こういうことを考えても良いかもしれません。わたしたちは、神の言葉を何よりも大切にしています。ただ、わたしたちは、神の言葉を、普通に人間同士の会話の中で聴くような言葉として聴いているわけではありません。「聖書」を通して、神の言葉を聴くのです。丁寧に言えば、「聖書」という人間の手によって編纂されてきた書物の中に、いわば隠されているものとして、神の言葉を知るのです。ですから、わたしたちは、「聖書の中には神の言葉が隠されている」ということに気がつかされたら、聖書の中から無理矢理、神の言葉を引っ張り出して、「これこそが神の言葉だ」というようなものを自分なりに組み立てたくなるかもしれませんが、そのような企ては、うまくいかないのです。「聖書」は、もしかすると人間の営みのほうが目立つようなものかもしれませんが、それでも、「聖書」ごと、わたしたちは受け取るのです。神の言葉が隠された「聖書」をそのまま受け取って、「聖書」の文脈の中でこそ、神の言葉の真実を聴き取るのです。

このたとえの「畑」は、「教会」と置き換えることもできるかもしれません。教会という現実の中に神の真実が隠されていることに気づく。教会自体は、ほとんど人間の営みにしか見えないものかもしれないけれども、この営みの中に、神の真実、神の恵みの事実が、隠されていることに、初代のキリスト者たちは気がついたのです。教会という営みの中に、主イエス・キリストの御業の働きが隠されていることを、認めないわけにはいかなかったのです。だからこそ、わたしたちの信仰の先達は、教会を「キリストの御体」と呼びました。「公同の教会を信じる」と告白しました。わたしたちも、そのように呼び、信じて告白するのです。

 

キリストに似た者に!

第二、第三のたとえを、丁寧に聴き直す余裕はありません。ただ、今、最後に触れたことに関連して、第三のたとえに目を向けておきたいのです。

網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。

「宝」が隠されていることに気づかされながら、なお「畑」という場の中で生きていくことを教えられているわたしたちですが、その「畑」にこそ、わたしたちは、他の共に生きていくべき人々を与えられているわけです。宗教的、社会的、政治的に、違う「畑」を選んで生きていこうとする人もあるかもしれませんが、わたしたちは、たとえば教会のように純粋に宗教的な「畑」と考える場所を選んでも、そこに共に集められる人は、本当に多様であることを、知らされます。このたとえで「いろいろな魚」とありますが、原語を直訳すれば「あらゆる種類のもの」です。そのいろいろな魚、あらゆる種類の人たちが、わたしたちの宝の隠された畑を共有する人たちです。一人ひとりの隣に、今現に座っていらっしゃる人たちです。主イエスは、その一人ひとりの裁きの問題を、終わりの日のこととしてお示しになられながら、なお今は、そのあらゆる者が、一つの網の中に招かれた者として、一つの畑を共有する者として、共に歩むようにとお教えなのです。

「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」

主イエスは、ご自分の倉にある新しいものも古いものも、自由に取り出して用いられる方です。自由に取り出して、最善の方法で用いられる方です。わたしたち一人ひとりをも、自由に取り出して、最善の方法で用いてくださるでしょう。わたしたちは、今、共に歩む場に招き入れられたものとして、そのようにしてくださる主イエスに似た者として、そのふるまいに倣うことを祈り求めたいのです。

 

祈り  

主よ。御心を聞き分けさせてください。人の訴えを聞き分けさせてください。主イエスに倣い、ここで与えられた仲間と共に歩み抜かせてください。アーメン