主日礼拝説教
「一人も滅びないために!」
日本基督教団藤沢教会 2009年9月13日
15主の言葉がわたしに臨んだ。16「人の子よ、あなたは一本の木を取り、その上に『ユダおよびそれと結ばれたイスラエルの子らのために』と書き記しなさい。また、別の木をとり、その上には『エフライムの木であるヨセフおよびそれと結ばれたイスラエルの全家のために』と書き記しなさい。17それらを互いに近づけて一本の木としなさい。それらはあなたの手の中で一つとなる。18あなたの民の子らがあなたに向かって、『これらはあなたにとって何を意味するのか告げてくれないか』と言うとき、19彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはエフライムの手の中にあるヨセフの木、およびそれと結ばれたイスラエルの諸部族を取り、それをユダの木につないで一本の木とする。それらはわたしの手の中で一つとなる。20あなたがその上に書き記した木は、彼らの目の前であなたの手にある。21そこで、彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはイスラエルの子らを、彼らが行っていた国々の中から取り、周囲から集め、彼らの土地に連れて行く。22わたしはわたしの地、イスラエルの山々で彼らを一つの国とする。一人の王が彼らすべての王となる。彼らは二度と二つの国となることなく、二度と二つの王国に分かれることはない。23彼らは二度と彼らの偶像や憎むべきもの、もろもろの背きによって汚されることはない。わたしは、彼らが過ちを犯したすべての背信から彼らを救い清める。そして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。24わたしの僕ダビデは彼らの王となり、一人の牧者が彼らすべての牧者となる。彼らはわたしの裁きに従って歩み、わたしの掟を守り行う。25彼らはわたしがわが僕ヤコブに与えた土地に住む。そこはお前たちの先祖が住んだ土地である。彼らも、その子らも、孫たちも、皆、永遠に至るまでそこに住む。そして、わが僕ダビデが永遠に彼らの支配者となる。26わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。それは彼らとの永遠の契約となる。わたしは彼らの住居を定め、彼らを増し加える。わたしはまた、永遠に彼らの真ん中にわたしの聖所を置く。27わたしの住まいは彼らと共にあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。28わたしの聖所が永遠に彼らの真ん中に置かれるとき、諸国民は、わたしがイスラエルを聖別する主であることを知るようになる。」 (エゼキエル書 37章15〜28節)
10「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。†〔11人の子は、失われたものを救うために来た。〕12あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。13はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。14そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」
15「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。16聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。17それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。18はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。19また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。20二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
(マタイによる福音書 18章10〜20節)
小さな者を一人でも軽んじない
今日の福音書の御言葉、マタイ福音書18章の真ん中の部分に当たる御言葉は、長く教会生活を送ってこられた皆さんには、大変親しみのあるところでありましょう。たとえば、はじめの部分に語られている「迷い出た羊のたとえ」は、幼い日々からこどもさんびか「小さいひつじが」(『讃美歌21』200番)を通して親しんできた方も少なくないでしょう。最後の部分に語られている「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(20節)という御言葉が、小さな祈りの交わりにしか加われない日々の信仰の支えになったという方も、いらっしゃるのではないでしょうか。ここには、わたしたちが信仰をもって歩んでいく上で大きな励ましになる御言葉が含まれています。
けれども、それと同時に、わたしたち礼拝に集い、教会という群れに連なって共に歩もうとしている者にとっては、ここに語られている主イエスの御言葉は、どこか厳しい響きを伴って聞こえてくるものでもあるかもしれません。今日、共に朗読を聴いた箇所の前後を合わせて 18章全体が、主イエスが弟子たちに一つの教えをなさったところですが、主イエスは、ここで、いわば、「弟子たちの交わりのあり方」、「教会のあり方」を、お教えになっているのです。
わたしたちは、来週の日曜日は、「敬老の日・合同礼拝」を迎えます。特に教会学校の小学生以上の子どもたちを招いて、共に礼拝をささげます。もちろん、わたしたちは、赤ん坊からお年寄りまで、すべての世代が共に礼拝にあずかれるようにとの願いを持っています。合同礼拝だけでなく、普段のどの礼拝も、赤ん坊だろうが子どもだろうが、大人だろうがお年寄りだろうが、だれもが当たり前にそこにいて良い礼拝であることを願っています。まだ、十分に良い準備と配慮ができているとは言えないかもしれません。けれども、それは、何も牧師や伝道師、役員方や礼拝のための奉仕者ばかりが、一所懸命に準備したり配慮したりすることでもないでしょう。礼拝に招かれておいでになられる皆さん一人ひとりが、そのような礼拝として整えられるようお祈りくださって、心の準備をして日曜日の朝おいでくださり、そして、ちょっとした配慮をもって礼拝にあずかってくだされば、きっと、いつのまにか、そういう礼拝になっていくのだろうと思います。
「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。」(10節)
主イエスが、弟子たちの前に一人の子どもを立たせて、「この子どものようになりなさい」とお教えになられたときの御言葉です。主イエスに従っていた弟子たちの群れの中に、女性や子どもたちが幾人もいたのでしょう。まだ、どこかに定住して教会堂のようなものを所有していたわけではありませんが、それは、すでに「キリスト教会」の原型であったに違いありません。その「教会」の中に実際にいた子どもたちの一人ひとりを指して、主イエスは、「これらの小さな者を一人でも軽んじないように」とお教えになられました。そして、同時に、主イエスは、「この子どものようになりなさい」とお教えになられた弟子たちの一人ひとりをさして、「これらの小さな者を一人でも軽んじないように」とお教えになられたのでもありましょう。子どものように小さな者が一人でも軽んじられないところ。そのようなところこそ、わたしたち皆が、互いに一人でも軽んじられないところです。
主の御心は、「一人でも」です。「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(14節)という主の御心をこそ、わたしたちは、何よりも胸に刻みましょう。この御心を胸に刻み直すためにこそ、わたしたちは、このように礼拝に招かれているのです。繰り返し、主の御心が示された御言葉を聴かせていただいているのです。
《兄弟》が罪を犯したなら…
そこで、つづく主の御言葉を、あらためて聴き直したいのです。
「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」(15節)
ときどき申し上げることですが、教会の皆さんの中に、そっと牧師のところにおいでになられて、いろいろと忠告をしていってくださる方があります。あるいは、役員会でも、牧師に対して忠告をしてくださる役員方があります。牧師自身のことだけでなく、教会のさまざまなことに心を砕いて、敢えて苦言を呈してくださる。そういう方がいてくださるということを、私はとてもありがたく思っています。もっとも、私は、忠告をいただいているときに、あまり良い顔をしていないかもしれません。苦々しい顔をして、せっかく忠告に来てくださっている方に嫌な思いをさせているかもしれません。そうだとすれば、申し訳ないのですが、それでも、私は、いろいろな問題を忠告してくださる方があることでこそ、私の牧師としての働きが、どうにか成り立っているのだと思っています。
そういう忠告は、もちろん、牧師に対してだけ必要なものということはないでしょう。信仰の仲間同士、神の家族の兄弟姉妹同士、わたしたちは互いに、自分の犯した罪を指摘してもらい、忠告してもらう必要がある。なぜなら、わたしたちの犯す罪は、自分か、あるいは他のだれかを、軽んじたり、滅ぼしたりすることに至るものだからです。
「言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」と、主はおっしゃられていますが、言うことを聞き入れてくれなかったら、どうなってしまうのか。その兄弟、信仰の仲間を、失うことになるのです。
私は、牧師として説教壇に立つたびに、いつも思うのです。ここに、共に集うべき兄弟姉妹、信仰の仲間の、幾人もが、今、失われかけているのではないか。そのような思いを持たずに説教を語ることなど、できないのです。実際、今日、この教会の礼拝に来ることがなかった藤沢教会員の方が、幾人いらっしゃることでしょうか。ご病気やご高齢のためにお出でになれない方もあります。そういう方が、信仰を失ったわけではないかもしれません。礼拝にお出でになれないからといって、「罪を犯している」などと言うべきでもないでしょう。それでも、私は、そういう方々も含めて、教会に集うことができない方、礼拝にあずかっていらっしゃらない方が、わたしたちの教会の交わりから失われかけている、という危機感を抱かないではいられないのです。いや、単に「教会の交わりから失われかけている」だけではない。「神の恵みの事実の中から失われかけている」という危機感をさえ、抱かないではいられないのです。
ですから、私は、こう思うのです。主イエスが、ここで、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい」とお命じになられたことは、皆さんが、礼拝においでになれない教会の仲間のところをお訪ねくださって、そこで小さな祈りを共にしてくださっていることではないか。そこで、家から外出できない方や、ベッドの上にある方に向かって、「あなたは罪を犯した」などと告げる言葉を言うことはなくても、行って、二人だけで、二人の罪人として、主の御名によって祈りを共にする仲間、信仰の兄弟姉妹を、決して失うまいという思いで、主のご命令に従ってくださっているのではないか。
組会の交わりを通して、また問安チームとして、皆さんが、信仰の兄弟姉妹の一人も失うまいという主の御心に動かされて、一人で、また他の仲間と一緒に、失われる恐れのある仲間の一人を訪ねてくださっている。可能ならば、そのお一人を、教会に、礼拝に、お連れくださっている。そのような取り組みを、多くの皆さんがしてくださっているからこそ、わたしたちは、日曜日の礼拝が多くの信仰の仲間を欠いたままであっても、なお、ここに集い続けることができます。「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」という主の御心を、なお、自分の心に刻み直すことが、できるのです。
キリストの名によって集まるところに
二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。
たった二人の、あるいは三人の交わりでも、キリストの御名によって集まるところ、祈りが一つにされるところ、その中心にキリストがいてくださる。それは、神秘的なことであるかもしれませんが、確かにわたしたちが経験することでもあります。たった二人の祈りの交わりでも、百人以上の集う礼拝でも、主の御名によって集まり、祈りをひとつにするところで、わたしたちは、キリストが中心にいてくださることを、経験しないではいられません。わたしたちの集まりの中心で、キリストが「これらの小さな者が一人も滅んではいけない」との御心をお示しくださっている。「あなたがたは互いに、一人でも軽んじてはいけない」と忠告してくださっている。そして何よりも、「あなたの罪は赦された。もう罪を犯さないように」と、一人ひとりに告げてくださっている。そのような方、主イエス・キリストが中心にいてくださっているからこそ、わたしたちは、互いに信仰の仲間として、神の家族の兄弟姉妹として、受け入れ合うことができるのです。
祈り
主よ。罪ある私どもの交わりの中心に主がおいでください。御心を胸に刻み、御名によって集い、罪赦されて主の御業に仕える者とならせてください。アーメン
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