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敬老の日 合同礼拝説教 「赦し合う心を受け継ごう」
               日本基督教団藤沢教会 2009年9月20日

21そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」22イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。23そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。24決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。25しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。26家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。27その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。28ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。29仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。30しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。31仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。32そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。33わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』34そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。35あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」   (マタイによる福音書 18章21〜35節)



赤ちゃんからお年寄りまで一緒に
 わたしたちは、今日、《敬老の日》の合同礼拝に招かれてきました。日本の暦では、今年は明日21日が《敬老の日》ですが、わたしたちの教会では、今日の日曜日に《敬老の日》をおぼえることにしました。ある人に、「教会でも《敬老の日》をお祝いするのですか」と尋ねられたことがあります。お年寄りのことを大切に敬うことや、ご高齢の方の上に神さまからの祝福があるようにと祈ることは、二千年の歴史のあるキリスト教会も、ずっと昔から大切にしてきたことです。 大人の人たちとは、先週の日曜日の礼拝で、主イエスさまの「迷い出た羊のたとえ」を心に留めなおしました。大人の皆さんにとっては、ちょうど、今日の合同礼拝に子どもたちを迎えるための心の準備になりました。神さまは、九十九匹の羊を残しておいても迷い出た一匹の羊を捜し出そうとしてくださるような、小さな一人をも大切にしてくださる方。イエスさまが、「小さな者が一人でも滅びないように」(マタ18:14)、「小さなものを一人でも軽んじないように」(マタ18:10)とおっしゃられたことを心に留めて、大人の皆さんは、子どもの皆さん一人ひとりをこの礼拝にお迎えするための心の準備をしてくださったと思います。


七の七十倍まで
 イエスさまは、お弟子さんたちが集まっていたときに、小さな子どもの一人を真ん中に立たせて、おっしゃいました。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国にはいることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」(マタ18:3〜4)
 子どもの皆さん。皆さんは、神さまを信じる人たちが見習うお手本ですよと、イエスさまは、おっしゃいました。だから、大人の人たちは、いつも、教会学校に来ている皆さんのことを、一所懸命にお手本にしようとして、見ているのです。 それでは、子どもの皆さんは、どうでしょうか。皆さんが、教会で、大人の人たちをお手本にすることはあるでしょうか。特に、長年教会に通い続けたお年寄りを、お手本にすることはあるでしょうか。イエスさまは、そうすることも大切なことだと、わたしたちにお教えくださっていると思います。
 イエスさまは、ご自分で弟子たちを集めてお始めくださった教会に、次々に新しい人を迎え入れて、そこで、イエスさまを信じる人の先輩から後輩へ、大人から子どもへと、イエスさまのお教えくださったことを受け継いでいくようにと、してくださっているのです。わたしたちは、教会に来て、皆が勝手なことを言ったり、教えたり、おこなったりするのではありません。わたしたちが、イエスさまによって教会に招かれて、ここに一緒に集まって、祈ったり、賛美をしたり、聖書の御言葉を聴いたりするのは、イエスさまがお話しくださったこと、お教えくださったこと、なさってくださったことを、そのまま受け継いでいくためです。そういうことでは、古くさいことばかりを話したり、教えたり、おこなったりすることにならないですか、と言う人もいます。でも、教会は、そうします。なぜなら、それは、イエスさまのお話であり、お教えであり、してくださったことだからです。そうすることが、わたしたち人間にとって本当に幸いなこと、わたしたちが本当に人間らしく人生を生きていくためによいこと。そのことを、だれよりも、長年教会に通い続けていらっしゃるご高齢のお年寄りの皆さんこそが、よく知っていらっしゃるのだと思います。そういう方は、子どもたちや大人の人にとっても、一つの見習うお手本になるのではないでしょうか。
 少し大げさな言い方をしますが、でも大まじめにお話しします。二千年間、教会に集まる人たち、クリスチャンが、それぞれのところで、イエスさまのお教えくださったこととして受け継いで大切に心に留め、難しいかもしれないけれども、そのようにしよう、そのように生きようと、一生涯かけて取り組んできたこと。それを、わたしたちは、先ほどの聖書の御言葉の朗読で聴きました。
 一番弟子のペトロが、イエスさまに聴いたのです。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」それに対して、イエスさまは、「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」とお教えになられた。そのように書かれていました。
 自分や自分の家族、友達、大切な人に、誰かが何かひどいことをしてきたら、皆さんなら、どうしますか。もちろん、ひどいことをされないように、立ち向かうでしょう。それでも、ひどいことをされたら、どうするでしょうか。やり返しますか。そう、大抵の人は、やられたら、やり返すでしょう。自分がやられた以上にやり返すのは、ちょっとやりすぎだと思うでしょうけれども、自分がやられたのと同じくらいはやり返してもいいと、大抵の人は考えます。もちろん、本当にやり返すかどうかは、人によって違います。多くの人は、同じようにやり返すかわりに、心の中で、相手のことを恨んだり、憎んだり、呪ったり、するかもしれません。相手のしたことを、赦さないのです。
 もちろん、相手が、自分のしたことを悪かったと思って、謝ってくれば、赦すかもしれません。でも、相手のしたことがあまりにひどいことだったりすると、たとえ謝ってきても、赦すことができない、ということもあります。そういう経験は、子どもでも大人でも、だれにでもあることではないでしょうか。
 ところが、イエスさまは、「赦しなさい」とお教えになられたのです。しかも、弟子のペトロが「七回くらいまで赦せばよいですか」と聞くと、「いいえ、七の七十倍でも赦しなさい」と言われた。「仏の顔も三度まで」という言葉がありますが、普通に考えれば、ひどいことをしてくる人を七回も赦したら、立派なことだと思います。ところが、イエスさまは、「七の七十倍でも赦しなさい」と、すごいことをおっしゃられる。もちろん、イエスさまは、7×70=490回までは赦しなさい、491回目は赦さなくてもよいから、と言われたのではありません。何回でも、どこまでも、赦しなさい。それが、イエスさまのご命令です。
 だれかを赦そうと思ったことがある人なら、人を赦すということが、とても難しいことだと、お分かりでしょう。でも、その難しいことを、イエスさまは、お弟子たちにお教えになられました。ご自分にひどいことをする人々を皆、お赦しになられながら、イエスさまは、人を赦すということを、弟子たちにお教えくださって、「あなたたちも皆、お互いに赦し合いなさい」とお命じになられたのです。そのことを、教会は、二千年間、受け継いできました。クリスチャンは皆、最初のイエスさまの弟子たちがそうしたように、自分も人を赦すことができるようにと祈り願いながら、生涯を歩みました。今も、そういう歩みを、教会に集まってこられるお一人おひとりが、続けています。


赦し合う心を学ぼう
 「教会は、互いに愛し合うことを学ぶ学校です」と言う人がいます。でも、イエスさまがお教えくださっていることを考えると、「教会は、互いに赦し合うことを学ぶ学校です」と言い直したほうがよいかもしれません。《主の祈り》で、わたしたちは、「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と、赦し合うことができるようになることをお祈りしているのですから。
 三年前の十月二日、アメリカの小さな町の学校で、突然入ってきた町の男に銃で撃たれて、生徒五人が亡くなり、五人が重傷を負うという事件がありました。犯人は、自殺をしました。この悲しい事件が起こったとき、殺されたり、怪我を負わされた子どもたちの家族の人たちは、どういうわけか、すぐに、「犯人と、犯人の家族を、赦します」と言ったのだそうです。そして、子どもたちのお葬式だけでなく、犯人のお葬式にも、子どもたちの家族の人たちは、参列したのだそうです。そのことに、アメリカ中の人たちが驚いたと言います。なぜ、子どもたちを殺されたり怪我させられた家族の人たちは、犯人やその家族を赦すことができたのでしょうか。その人たちは、アーミッシュと呼ばれるキリスト教のグループの人たちだったそうです。アーミッシュの人たちは、他のキリスト教のグループよりも、ずっと、「互いに赦し合うこと」を大切にして一緒に生きてきていたのです。「人を赦す」ということが、とても難しいことだけれども、人間として生きていく上で、どうしても必要なことなのだと、よく知っていたのです。皆で支え合って、「人を赦す」ことこそ一番最初にできるように、これが大事なことなのだと、お年寄りから大人、子どもへと、ずっと受け継いできたのです。
 わたしたちだったら、どうでしょうか。難しいかもしれません。でも、イエスさまは、アーミッシュの人たちだけでなく、すべての教会に集まる人たちが、「心から人を赦す」ことができるようになることを、願ってくださっているのです。そのためにこそ、イエスさまは、ご自分の命をかけて、人を赦すということをお教えくださったのです。
 神さまが、わたしたちの罪や過ち、悪いところをすべて、本当に赦してくださっていると、たとえ話で教えられていました。神さまが赦してくださっているわたしたちの過ちは、「一万タラントン」分。わたしたちが、赦さなければいけない他の人の過ちは、「百デナリ」分。今の日本のお金になおしたら、六千億円と百万円ぐらいです。百万円も大きなお金だけれども、わたしたちの赦されていることは六千億円分もある。だとしたら、わたしたちは、せめて、他の人の百万円分の過ちを赦せる心を持てるように、イエスさまから受け継いで、お教えいただきましょう。
 長く教会に通い続けているから、人を赦すことが簡単にできるようになる、というわけではないと思います。でも、そういう方は、きっと、イエスさまに教えていただいて、人を赦すということは、難しくても、生涯をかけて学んでいくだけの意味のあること、価値のあることだと、より深く知っていらっしゃると思います。わたしたちは、そのような生涯かけて「人を赦すこと」を学んでいく学校、《神さまの家族》という学校に、つながり続けたいと思います。ここ教会で、イエスさまからお教えいただいた「互いに赦し合う心」を受け継いで、一緒に学んでいくことができることを、共に喜んでおぼえてまいりましょう。



祈り
主よ。大きな赦しをいただいています。他の人を赦す心をお与えください。皆が互いに赦し、赦されることの幸いを知って歩むことができますように。アーメン