聖霊降臨節第18主日礼拝説教
「愛する子への掟」
日本基督教団藤沢教会 2009年9月27日
1神はこれらすべての言葉を告げられた。2「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。3あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。4あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。5あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、6わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。7あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。 8安息日を心に留め、これを聖別せよ。9六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、10七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。11六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。12あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。13殺してはならない。14姦淫してはならない。15盗んではならない。16隣人に関して偽証してはならない。17隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」 (出エジプト記20章1〜17節)
1あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。2キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。3あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。4卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい。5すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。
(エフェソの信徒への手紙5章1〜5節)
先主日(20日)私たちの教会は、敬老の日の合同礼拝をおささげしました。礼拝の中で、今年度は、教会学校の子どもたちから教会の80歳以上の方々に、しおりの制作をプレゼントしました。大きな色画用紙に、クレヨンで手形をなぞった模様のしおりです。8月に、教会員の方々の大きな手形をいただいて、その上に、子どもたちの手形を、色とりどりにして重ねて行きました。教会の大人の手と子どもの手が重なった模様は、信仰を手渡していく「信仰継承」のイメージです。というふうに前置きをして、しおりの制作を初めたのですが、小さい子どもはクレヨンを握ると夢中です。クレヨンを折るほどの力で、ガーっと描いて、すごい勢いで色を塗ったりします。小学校高学年、中学生のお姉さんたちは、それを見て唖然という感じでしたが、それぞれに個性的なすてきな模様になりました。改めて子どもの描き方というのはおもしろい、と思いました。子どもたちが作ったしおりを並べて、見ていると、ある方が「ピカソみたいですてきよね」とおっしゃいました。「ピカソみたい」この言葉で、しおりを直接ご覧になっていない方にも、何となくしおりの色合いを想像していただけるのではないでしょうか。「ピカソみたい」、という形容は、きっと、斬新で、斬新過ぎて私たちの理解を超えている絵、という意味ではないでしょうか。理解しがたいけれども、強烈な魅力を持っている絵。そういうことではないでしょうか。子どもにとっては、明らかにピカソの絵の方が、理解できない、変な絵であると思います。もっともパブロ・ピカソという画家は、子どもの頃は非常に優れた写生をしたと言います。本物そっくりに描くことができました。しかし、ピカソが、20世紀を代表する画家といわれ、広く知られることになる作品の多くは、写実的に描かれたものではなく抽象画です。その作品の仕掛けは、ある物体を色々な側面から見て描いているということです。平面のキャンバスに、一人の人物を描くという時に、正面から見た顔と横顔とを同時に描きます。つまり、物体を一面的にではなく、多面的に見ていく。そしてその特徴を抽出して、キャンバス上に再構成していく、そのようにしてピカソは写真には写らない事物や人物の深みを表現することに成功しました。その作風は後に、キュビズムと言われる運動を生み出して行きます。一見子どもの絵のような理解しがたい絵は、複雑な大人の心情を物語っています。複雑な面持ちの、成熟した大人の絵なのです。
この9月に、私は休暇をいただいて、福島の実家に帰省してまいりました。ちょうどこの時に台風が重なり、最初に計画していた予定を変更して、会津地方にある近代美術館へ足をのばしてまいりました。美術館には、ちょうどピカソの初公開の絵が来ているというので、楽しみにして出かけたのですが、その中の一枚に<画家>というピカソの自画像がありました。この<画家>は、数万点と言われているピカソの絵の中でも、最晩年に描かれた絵です。子どもが描いたとしか思えないような顔で、写真ではすっかり髪の毛が生えていないピカソの頭には、真っ黒な髪の毛がしっかりと描かれています。この絵を描いたとき、ピカソは80歳を過ぎていました。「子どものころ私はラファエロのように描くことができた。しかし、子どものように描くには一生かかった。」ピカソは、このようなコメントを残しています。成熟した大人の目で、複雑な心を持ちながら絵を描き続けてきたピカソが目指したものは、「子どものように描くこと」でした。子どものようになることの困難さ、意味深さ、貴さをピカソは、80歳を過ぎるまで、生涯にわたって求め続けました。私たちもまた、そのような存在であるとは言えないでしょうか。
主イエスは、ご自分のもとに子どもたちを連れてきた人々を、弟子たちが叱っているのをご覧になってこのようにおっしゃいました。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」(マタイ19:14)。そう言って、子どもたちに手を置き、祝福をされた、という出来事が伝えられています。私たちは、このお話をどのように聞くでしょうか。私たちは、子ども時代を過ぎると、あの主イエスの言葉が、あまり自分自身とは関係のない言葉に聞こえてします。せいぜい自分の子や孫、教会学校のあの元気な子どもたちについて語られているのであって、私たちは、それを子どもたちにただ伝えるだけの役目。私たちはもう、いい大人なのだから。そう思ってしまいます。
しかし、本当にそうでしょうか。私たちは、本当に子どものようになることを求め、そうなるなら、主イエスは、あの言葉で私たちを招いてくださることでしょう。「子どもたちを来させない。わたしのところに来るのを妨げてはならない。」しかし、年を重ねた私たちが、どうして子どものようになることができるでしょうか。これは真剣な問いです。ある夜、主イエスのもとを訪れた議員のニコデモもまた、このような問いをぶつけました(ヨハネ3:1〜21)。「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」という主イエスのお言葉に対して、ニコデモは問います。「もう一度、母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」、とてもできません。そのニコデモの問いに対して、主イエスはお答えになります。「新しく生まれる」とは、水と霊とによって生まれることなのだ。あなたがたは、霊によって新しく生まれなければならない、主イエスはこのようにおっしゃいます。
私たちが「子どものようになる」ということは、ただ若返るということではなく、霊において新しく生まれる信仰の歩みの中で起こってくるのです。新しく生まれ、子どものようになることを憧れて生きることは、ピカソやある特別な人たちにだけ用意されたものではありません。私たち一人ひとりに与えられるもの、今も与えられ続けている憧れであるのです。重い疲労の日々、倦怠の日々を重ねる大人に対して、子どもは生き生きとしています。それは、自分が守られているという絶対的な安心感を持っているからです。赤ん坊はミルクを飲むときに、このミルクは汚染されているのではないか、などといった疑いを持ったりはしません。絶対的な信頼が、最初にあるのです。しかし、それは年齢を重ねるにつれて変わって行きます。残念なことに、私たちの社会には、非常に幼いうちに、この信頼感を失ってしまう子どももあります。しかし、この不安定な人間同士の関係に優る関係があります。神と私たちとの関係です。私たちの教会で、最近色々な会で読まれている信仰問答『みんなのカテキズム』の第一問目は、このように始まっています。問一、「あなたは誰ですか?」、答え、「わたしはかみさまの子どもです」。私たちは神の子ども。これは、キリスト教会の大切な信仰理解の一つです。「あなたがたは神に愛されている子ども」なのだと、本日朗読された手紙は語っています。「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。」(エフェソ5:1)
「倣う」というのは、手本にする、ということですが、「神に倣う」という言い方は、新約聖書では、ただ一か所、このところでのみ語られている言葉です。キリストに倣う、使徒たちに倣う、という方が馴染みのある言葉かもしれません。「神に倣う」というと、わかったような、わからないような気に、なりはしないでしょうか。聖書の時代のユダヤ人にとっても、「倣う」という言葉は、神に対しては用いられませんでした。むしろ、人間同士の、ラビ(先生)と弟子たちの関係に用いられた言葉です。ユダヤ教にとってならうべき手本となるのは、神ご自身ではなく、神から与えられた「律法」でした。神は聖なるお方で高くいらっしゃる、到底近づくことはできない、という敬虔な信仰がありました。神の律法を遵守することを重んじました。しかし律法に倣う生活が、律法主義へと姿を変えていきます。律法に現された神の愛が背後に押しやられていってしまうのです。
本日の、旧約聖書の朗読は、律法の中でも要と言われる「十戒」の箇所です。「十戒」は、長い間エジプトで奴隷状態だった神の民イスラエルが、神によって救い出された時、民の指導者として立てられたモーセを通して与えられた戒めです。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(出エジプト20:3)という言葉に始まる十の戒めですが、そのほとんどが<〜してはならない>という形で語られています。<〜してはならない>、これは日本語では禁止の命令ですが、ヘブライ語の原文では、命令形ではなく、<(当然)〜しないだろう>という言葉です。あなたがたは〜するわけがないと言っているのです。あなたがたは当然、わたし以外のものを神とすることはない、そのように断言するのはなぜでしょうか。この十戒の直前では、このように語られています。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」(20:2)私たち日本の憲法において「前文」が大事なように、この十戒においても、「前文」が非常に大切です。つまり、「わたしは主、あなたの神である」、「わたしはあなたを奴隷の家から導き出した」、だから(!)、あなたはわたし以外のものを神とするはずがない、と言うのです。<〜してはならない>という禁止命令が先にあるのではありません。私たちの行いに先立つ、神の御業があるのです。神は、私たちを罪の奴隷状態から救い出し、ご自分の子として宣言してくださるのです。「あなたはわたしの子」、「わたしの愛する子ども。」「わたしの光の中を歩きなさい。」そういって神がわたしたちにお与えになったのが、十戒であり、掟としての御言葉です。
神の子として勧められている今日の言葉は、どちらかと言うと、否定的な響きを持っているように聞こえます。この手紙の朗読を聞いて、もう何度も聞いている言葉だと思われた方もあるかと思います。あるいは、初めてこの箇所に出会ったという方でも、誰でも知っているような常識的な教えだと思われるかもしれません。誰だって「みだらなこと」や「汚れたこと」、「貪欲なこと」を口にしてはいけないと思っていますし、
「卑わいな言葉や愚かな話」、「下品な冗談」もふさわしくない、と思っています。ごく当たり前の言葉であるかもしれません。しかし、この手紙の受け手であるエフェソの町に住む古代ギリシャの人々にとっては、必ずしも当然のことではありませんでした。性倫理がひどく混乱していたからです。ある英語訳聖書では、3節からを一つの区切りとして「異教徒の習慣を棄てる」という小見出しがつけられています。しかし、その不道徳な習慣に染まらず、「そういうことはみな守っています」、分かっています、分かりきっています、と言って突っ撥ねてしまう時、私たちは、この戒めの背後にある神の憐れみに気づくことができません。
神は、このような戒めを通して、こうでなくては子として失格なのだとおっしゃっているのではありません。私たち一人ひとりが、神に愛されていることを受け入れることを願っていらっしゃるのです。神の愛される子として、新しく生まれることを願っていらっしゃいます。私たちの間では、大人社会に生きることに大きなストレスを感じて疲れが取れず、悩みながら過ごしている人がたくさんあります。平安を見出せずに、助けを必要としている人々があります。ロンドン郊外のある女子修道院の修道院長は、テレビの取材でこのような質問を受けました。「社会に対して、あなたたちの祈りは何の貢献をなすのですか?」修道院長は応えました。「祈りの生活の中でリラックスしなければ、本当に人を助けることはできない。」私たちもまた、そのような者です。どんなに人を助けようと力を振り絞っても、道徳的に修練しようとしても、霊的な充電が尽きていれば、人の支えになることはできません。私たち自身が、まず助けを必要としている存在であるからです。私たちは、大人であるがためにそのことを忘れがちです。「あなたがたは神に愛されている子どもです」このことを忘れがちです。私たちは、この言葉を心の深いところに刻みたいと思います。私たちは神に愛された子として、天の父がくださる多くの恵みを共に分かち合いつつ歩んでまいりましょう。
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