神学校日・伝道献身者奨励日礼拝説教
「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」
日本基督教団藤沢教会 2009年10月11日
21このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。
22すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」 23イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」 24それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 25自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。 26人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 27人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。 28はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」
(マタイによる福音書16章21〜28節)
日本聖書神学校の最終学年には、フィールドワークゼミという時間があります。
毎週、実社会でいろいろな働きをされている方々に、来ていただいて、その体験談などを聞く授業です。
とても重い内容のお話もあります。朝鮮半島から強制的に徴用され日本軍兵士として出兵、目の前で爆弾が炸裂し、片腕・片足・両目失明・・・傷痍軍人になった人たち。日本政府は、「あなたたちは現在は日本人ではないから、自分の国の政府に申し立てよ」、一方、韓国政府は「韓国政府が成立する前のことである、面倒は見られない」と。どこからも、なんの補償も得られないのです。このことは、あるいは、「棄てられた皇軍兵士」という映画でご存知かもしれません。片腕・片足・両目失明した、その人たちに、教会がどのように関わっていけるのか。というお話や・・・。
また、あるときは、クリスチャンホームに育った弁護士がこられて、“子どもの人権を守る”というお話を聞きました。覚醒剤・売春で捕まった16歳の少女の話です。刑事裁判では弁護人というのですが、子どもの場合は“付添人”といいます。16歳の少女は、まだ、自分の言葉で心のうちを説明する、という力がありません、時間・日をかけて何故、覚醒剤、売春をするようになったのか、を聞き出し、少年審判において子どもが負うべき責任ではない、ということを明らかにしていく、弁護士としての仕事はそこまでですが、さらに手弁当でその子と、あとあとまで話し合いを続けていき、更正をさせる、というお話です。
このお話は、本日の説教と関係がありますので、少し、お話をつづけます。
16歳の少女の生い立ちは、父親は定職がない人で、母親は働いているのですが、夫婦喧嘩が絶えません。母親は家を飛び出していくこともあります。すると父親は、小学生の子どもたちに当り散らす。小学校5年になったとき、恐ろしくて家を飛び出したのですが、お金もなく、フラフラしていると、街で出会った若者が、ビニールの袋を差し出して、「吸ってみな、気持ちよくなるよ」。これがシンナーのはじまりでした。やがて、シンナーは、覚醒剤へ、そして、覚醒剤欲しさに、体を売ることになっていくのです。ところが、少年審判では、覚醒剤・売春は罪が重いとして少年院に送る審判が下されます。このとき、少女は16歳。
理屈は違うのでしょうが、彼女らの意識の中では、少年院=刑務所なのです。
その“刑務所”に入ることになったのです。
彼女は、大人はだれも信用できない、自分は生きている意味なんてない、わたしはどうなったっていいんだ、と暴れます。付添人の弁護士がなだめても、「どうせ、あんたは、ここだけの仕事でしょ。あとはわたしからは逃げて行くんだよね」と。
少年院を出所後、中卒での就職口はなく、やっとパチンコ店で住み込んだのですが、うまくいかず3ヶ月で解雇。パチンコ店の寮を追い出されます。そのあとは風俗で働くしかありませんでした。
彼女は一度も人から大事にされたことがなく、愛されたこともなく、親と楽しいひと時を過ごしたこともなかったのです。彼女の家族は少年院に一度たりとも面会に来なかった、ということです。まさに、彼女は生まれてきたことを恨んでいました。そして、覚醒剤、売春で、よごれた身体、と、いうことを悩んでいました。
前段のお話をおいておきまして、少し聖書をみていきます。
本日の聖書箇所(マタイ16章21-28)は、冒頭の21節で、「このときから」とありますが、これは、少しまえに書かれています16節のこと、シモン・ペトロが、イエスに「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰告白をした、そのときから、ということを指しています。福音書は、「このときから」イエスの生涯の重大な転機であることを示しています。
ガリラヤ伝道も終わりに近づき、イエスは自らが神の子として、いよいよ来るべき事態を弟子たちに、あかされ、メシアとしての道のりを歩むのです。
長老、祭司長、律法学者とありますが、それは、ユダヤの議会の構成メンバーを指していて、イエスの敵対者は、ユダヤの議会なのだ、ということをここで表しています。長老、祭司長、律法学者たちから“必ず” 苦しみを受ける、つまり、かれらの意思によってというのではなく、人間の力をこえた神の導きによって、苦しみを受ける、というのです。
しかし、弟子たちは、イエスが十字架に磔にされる、ということまで見通せていませんでした。メシアが苦難を受ける、などということは、当時の人たちには全く考えられないことであったのです。十字架の刑は、生身を釘で十字架に打ち付け、命が落ちるのを待つのです。メシアの身にそのようなことがあろうか、とペトロは言っているのです。
しかし、このとき、イエスには、ご自身の明確な「十字架」が見えていたのです。そして、弟子たちに「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と言ったのです。自分の十字架と弟子たち自身の十字架を言っているのです。
「十字架」とは何でしょうか。いうまでもなく、“十字架”は、キリスト教のシンボルであって、それ以外に十字架が使われる、ということは殆どありません。そして、十字架は、イエスの苦難と死、そして、3日目の復活が一体となって、キリスト教の救いの、教えとなるのです(復活は、イエスを苦しめたこの世の勢力との闘いに勝利したことを意味しています)。
ところが、その“十字架”が女性の胸元をキラリと飾るものとしても使われています。ペンダントだけではありません、 調べてみますと“十字架”ということばが冠してある小説が思いの他、多いのです。その中で、ざっとみても、キリスト教とは関係ないものが半分以上あるようです。“十字架”がどのように使われているのでしょうか。ホラー映画では、十字架クロスを、悪魔にかざすと、悪魔の魔力が消失する、これは、西洋の民間のおまじないからきているのだと思います。そのようなところから、ペンダントとして愛用されるのでしょうか。
世間で使われる“十字架”を見ると、聖書に書かれている十字架とはかなりイメージが違っているようです。
また、言葉としても十字架が、使われます。わたくしが、学生時代に、青年会、当時は、洗礼を受けた青年は30人くらいいて、まじめに聖書研究をしていました。具体的な生活、社会の中の問題と照らして話し合いをしていました。
マタイ16章では、「あなたの十字架」ということが話し合われたことを記憶しています。そして、「あなたにとっての十字架とはなにか」という話をしました。40年も前のことなので細かい話は忘れましたが、“重荷”を負って生きていく、というような話合いをしていたと思います。
再び、さきほどの、16歳の少女の話ですが、覚醒剤、売春で、よごれた身体、と、いうことを悩み、自分は生きている意味なんてない、わたしはどうなったっていいんだ、と、自暴自棄になっていました。しかし、覚醒剤、売春の罪をきれいにしてくれる人がいるのですよ、ということばに、「えェッ、そんな人がいるの?」と、すがるように、話を聞いてきました。「それはね、イエスという人なんです」。それから、彼女は、話をきいてくれるようになったのです。
「あなたをこの世に生まれさせたのは、神さまなのです、神さまは、生きていてよかったね、と言っています。イエスが、あなたの行った罪を、十字架に背負って赦してくださっている。あなたは神さまから赦されている、ひとりぼっちじゃないんですよ」その言葉に、彼女は慰められます。覚醒剤、売春という過去をどれだけ重荷に感じていたかと、いうことが良く分かります。
過去を捨てるとか、無理やり消すということは誰にもできません。わたくしたちは、自分の行ってきた失敗が、写真のフラッシュをたくように、脳裏に焼きついている記憶が蘇るのです。その時、罪悪感・挫折感・焦燥感いろいろななんともやるせない思いが心のなかを走ります。おそらく、この少女の脳裏にも、沢山、焼きついていたのでしょう。
共に重荷を担ってくださる方がいる、その方、“イエス”の名によって、罪が赦される、そのことにすがる思いで、求め、そして慰めを得るのです。 16歳のこの少女が生きるすべは、この“イエス”以外にどこにいるのでしょうか。
やがて、この少女は時を経て、信仰告白をするようになりました。そして、今30歳をすぎて再婚を重ね、それぞれの男の人との間に生まれた3人の子どもを育てています。
彼女の重荷・・・覚醒剤、売春、たしかにそれは、彼女にとって重荷となっているでしょう。しかし、それが、彼女の十字架ではないのです。
赦された喜びの中で、自分の人生を精一杯支えて行く。自分の人生を駄目にする力と闘って行く、そのことが、彼女の“十字架”と言えるのではないでしょうか。
一方、彼女と向き合った弁護士は、少年院での面談、話し合いから、その後も彼女としっかり手を取り合うのです。
当初、自暴自棄になっている人と向き合うとき、どうしたらよいかわからず、本当に祈った、というのです(弁護士はこのときはまだクリスチャンではありませんでした、クリスチャンホームに育ち教会へ出席しながらも、キリスト教に疑問を抱き、一時は教会を離れていたのです)。
しかし、「だれをも信じないと言っていたのに、こころの扉を開き、信じてくれるようになった」彼女の変わっていく姿、 祈ったあとに、与えられた、その不思議な力の働きに、弁護士は、自らもキリストと出会ったのです。そして信仰告白をしました。
あらためて、「あなたの十字架」とは何か、ということを思います。キリストの愛を宣べ伝えるために、己の立場にこだわるのではなく、人と真剣に向き合う。その思いを受けとめる。それが自己中心をやめて神中心に生きる、ということに結びつくのです。「自分を捨てる」という、“人の想い”を拭い去ったところに、その人に神は、“神の力”を与えてくださるのです。その人のうちに、そして相手のうちに、“神の力”が働き始めるのです。
自分の力ではどうして良いか分からず、途方に暮れるしかない事柄の中に、“神の力”が働き、私たちの思いを越えた新しい道が開けて行くのです。その道のりの全てが、まさに、真のいのちを生きる道であり、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」ということなのです。
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