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聖霊降臨節第21主日礼拝説教
    「“油”の用意はお済みですか?」

日本基督教団藤沢教会 2009年10月18日

17あなたの目は麗しく装った王を仰ぎ、遠く隔たった地を見る。
18あなたの心はかつての恐怖を思って言う。
 あのとき、数を調べた者はどこにいるのか、量った者はどこ
 にいるのか
 やぐらを数えた者はどこにいるのか、と。
19あの傲慢な民をあなたはもはや見ない。
 その民の唇は重くて聞き分けることができず、
 舌はどもるので理解しえなかった。
20シオンを仰ぎ見よ、我らの祝祭の都を。
 あなたの目はエルサレムを見る。
 それは安らかな住まい、移されることのない天幕。
 その杭は永遠に抜かれることなく、一本の綱も断たれることは
 ない。
21まことに、そこにこそ、主の威光は我らのために現れる。
 そこには多くの川、幅広い流れがある。
 櫓をこぐ舟はそこを通らず、威容を誇る船もそこを過ぎること
 はない。
22まことに、主は我らを正しく裁かれる方。主は我らに法を与え
 られる方。
 主は我らの王となって、我らを救われる。 
               (イザヤ書 33章17〜22節)


1「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。2そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。3愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。4賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。5ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。6真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。7そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。8愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』9賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』10愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。11その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。12しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。13だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」
            (マタイによる福音書25章1〜13節)


「その日、その時を知らない」
 すでに多くの皆さんはご承知くださっていると思いますが、今晩と明日、この礼拝堂で、一人の教会員の方のご葬儀を執り行います。
 この一年を振り返ると、この礼拝堂でご葬儀を執り行うのは4人目ですが、そのほかにも他所でご葬儀を執り行った教会員方、また藤沢教会員以外の関係の方を合わせると、私が牧師として執り行わせていただいた葬儀は、この1年で10件にもなりました。その中には、多くの教会の皆さんとご一緒に、ご葬儀を執り行わせていただいた方もありました。一方では、ごく少数のご身内だけで、ごく簡単なご葬儀を執り行うことになった方もありました。それぞれのご事情がありました。ご本人も、ご家族も、その日、その時を祈り備えて迎えられた方。何の十分な備えもすることができないまま、その日、その時を迎えることになられた方。皆、違う歩みの中でその日、その時を迎えられて、そして、その中でご葬儀を整えさせていただいたことを、私は、今、あらためて想い起こすのです。
 今日与えられた福音書の御言葉、マタイ福音書25章の最初の部分は、「十人のおとめのたとえ」と呼び慣わされてきた箇所です。伝統的には、教会暦の一巡りの終わりを迎える終末三主日、つまり11月の礼拝で読まれてきました。それが、私たちの教団の主日聖書日課の一巡りの区切り目は、伝統的な教会暦の区切り目と比べて一ヶ月ほどずれて設定されているために、今日の聖書日課として読まれました。いずれにしても、この「十人のおとめのたとえ」は、この後に続いて記されている主イエスのたとえや教えと合わせて、「終末についての教え」として、特に大切に読まれてきた御言葉です。
 しかし、それと同時に、このたとえは、ただ大きな歴史の中の「終末」についての教えとしてだけでなく、一人の人の人生の「終末」について教えている御言葉でもあると言ってもよいかもしれません。この「十人のおとめのたとえ」をもとにして作られた有名な讃美歌に、「目覚めよと呼ぶ声あり」という讃美歌があります。私たちの今の讃美歌では、230番「起きよと呼ぶ声」です。この讃美歌は、フィリップ・ニコライというルター派の牧師が、16世紀末のペストが大流行している最中に作詞作曲したと伝えられています。時代は世紀末でありました。世の終わりの日の近いことを予感させるような風潮も多々あったのでしょう。しかし、それ以上に、ニコライ牧師は、ペストで倒れていく町の人たちのために毎日十数件も葬儀を執り行わなければならない状況の中で、この「十人のおとめのたとえ」をもとにした讃美歌を作った、といいます。
 「目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」という主イエスの御言葉を心に刻みながら、死が身近なところにまで迫ってきていた人たちは、こう思い描いたのではないでしょうか。「その日、その時には、備えて信仰に生き、そして死んだ者を、花婿である主イエスが天の婚宴の席に連れて行ってくださる」。そのような望みを確かめながら、次々に死んでいく家族や周囲の人々を葬り、また自分自身の死のときをも迎えたのではないでしょうか。

みんな眠り込んでいる!
 そのような慰めを与えてくれる御言葉として大切に味わいたい「十人のおとめのたとえ」です。11月第1日曜日に、教会は、「永眠者記念礼拝」をいたします。私たちの教会に関わる死者を記念し、死を越えた永遠の命の望みを確かめます。このたとえを、その営みのための一つの備えにもしたいと願います。
 しかしながら、今日、私が、皆さんとともに、この「十人のおとめのたとえ」から聴き取りたいことの中心は、そのことではありません。死後のこと、終末の日のことではなく、今のこと、今生きている人生のことについてなのです。
 「十人のおとめのたとえ」。このたとえで描かれているおとめたちは、何をしているのでしょうか。一つの大切なことに備えて待っているのです。花婿が花嫁を迎えに来る、そのときに花嫁に付き添って婚宴会場に行くために、備えて待っています。目的は、花嫁に付き添って、花婿の導き入れてくれる婚宴会場に入ることです。十人のおとめたちは、この目的のために、ともし火を持って待っていました。さて、この目的を、十人のおとめたちは、達成することができたかどうか、というのが、このたとえで描かれているところです。たとえでは、五人のおとめたちは、無事、目的を達成することができました。この目的を達成するために、ともし火の油を手元の壺に用意しておく必要があると知っていたからです。一方で、ほかの五人のおとめたちは、ともし火の油を用意しておくことが必要だと気づかずにいて、いざというとき、目的を達成し損ねてしまうのです。
 私たちは、このたとえを聴きながら、自分のことを考えてみるべきでしょう。自分の人生の目的は何だろうか。自分が今生かされているのは、神のどのような目的があってのことなのだろうか。その目的のために、自分は今、本当に必要なことをしているだろうか。本当に必要なことが、分かっているだろうか。
 もったいぶって言う必要はないと思います。わたしたちの人生の目的は、真の神のより近くにいる者とされることです。主イエス・キリストに導いていただいて、真の神の近くにいる者としていただくことです。そのために本当に必要なことは、主イエス・キリストに導いていただくための備えをすることです。
 「十人のおとめのたとえ」は、このことを単刀直入に示していると言っても良いかもしれません。ここに描かれる花婿は、明らかにキリストです。花嫁は登場しませんが、パウロがエフェソの信徒への手紙などで言っているように、教会のことだと言って良いかもしれません。その花嫁に付き添うおとめたちは、私たち教会に来ている者のことです。花嫁である教会が、私たち一人ひとりを、花婿=主イエスに導いていただけるように、備えてくれるのです。そして、花婿に導かれて入っていく婚宴会場は、天の神のもとの祝宴、神の国、真の神の近くです。
 そう考えると、このおとめたちが皆眠気がさして眠り込んでしまったと描かれているのは、私たちが、教会に連なっていても、必ずしも目覚めた状態でいつもいるわけではない、ということでありましょうか。しかし、そうであっても、このたとえによれば、許されるわけです。皆さん、安心してくださって良い。いや、それどころか、このたとえでは「皆…眠り込んでしまった」というのですから、もしかすると、主イエスは、私たちが、教会で、自分の口や手足を活発に働かせることばかりでなく、むしろ、時には全く眠り込んでしまったように自分の働きを休ませるときが必要なのだとおっしゃられているのかもしれません。そのように説明する説教者もいるのです。眠り込んで、自分の働きを完全に休ませた状態になったときにこそ、主イエスが私たちを神のお近くに導いてくださるためにおいでくださるとき。そういうことなのかもしれません。

油の壺はご自分で…
 ただ、そのことが起こるために、私たちは、眠り込んでしまう前に、しておかなければならないことがある。それが、「油の用意」ということでありましょう。
 この「油」とは何を指しているのかと、昔から、様々に語られてきました。この「油」は、洗礼を受けることを指しているのかもしれません。この「油」は、「愛の行いのこと」を指していると言う人たちもいます。あるいは、この「油」は、聖霊のことを指していると言う人たちもいます。
 いずれにしても、この「油」を分け合うことはできない、というたとえの示していることは、重たいことです。私たちは、自分の人生の目的を達成するためには、もちろん、主イエスの神がそれを実現してくださるわけですが、そのための備えを、だれか自分以外の人に肩代わりしてもらうわけにはいかないのです。
 そうであっても、その「油」もまた、自分の手で作り出せるものではないでしょう。これもまた、どこかから与えられるものなのです。その意味で、たとえの中で、賢いおとめたちが壺に油を入れて持っていたと描かれているのは、心に留めても良いことかもしれません。私たちに必要なことは、油そのものを作り出したりかき集めたりすることではなくて、油を受けとめる「壺」を自分の手に持っていることなのです。その壺に、神が「油」を入れてくださるのかもしれません。キリストが、教会を通して「油」を入れてくださるのかもしれません。あるいは、だれか他の人を通して「油」を入れてもらうことになるのかもしれません。そのような「油」をしっかりと受けとめ、蓄える「壺」を、私たちは自分の手に携え持つ。そのとき、私たちは、たとえ眠り込んでしまうときにも、その「壺」に「油」を用意し続けることになるのです。
 私たちは、一人の人間として、また一人のキリスト者として、自分で立ち、自分で行い、自分で作り、自分で満たすことに、一所懸命になりすぎているかもしれません。今、その営みを休ませて、ただ脇に「壺」を抱えて静かに座っている自分を想像してみてはいかがでしょうか。神が豊かに与えてくださっていること、キリストがお働きくださっていること、周囲の人が神の恵みを届けてくれていることが、私たちの目に、もっとはっきり見えてくるのではないでしょうか。

祈り  
主よ。あなたに近づくための油を用意させてください。ただ、主が与えてくださる油を備え持ち、共に主に導かれ行く者とならせてください。アーメン