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降誕前第9主日礼拝説教
    「ふさわしい助け手と共に」

日本基督教団藤沢教会 2009年10月25日

4 主なる神が地と天を造られたとき、5 地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。6 しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。8 主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。9 主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。
15 主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。16 主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。17 ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」18 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」19 主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。20 人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。21 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。22 そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、23 人は言った。「ついに、これこそ わたしの骨の骨 わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」24 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。25 人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。  (創世記 2章4節b〜9, 15〜25)


1 その後、わたしが見ていると、見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパが響くようにわたしに語りかけるのが聞こえた、あの最初の声が言った。「ここへ上って来い。この後必ず起こることをあなたに示そう。」2 わたしは、たちまち"霊"に満たされた。すると、見よ、天に玉座が設けられていて、その玉座の上に座っている方がおられた。3 その方は、碧玉や赤めのうのようであり、玉座の周りにはエメラルドのような虹が輝いていた。4 また、玉座の周りに二十四の座があって、それらの座の上には白い衣を着て、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老が座っていた。5 玉座からは、稲妻、さまざまな音、雷が起こった。また、玉座の前には、七つのともし火が燃えていた。これは神の七つの霊である。6 また、玉座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。この玉座の中央とその周りに四つの生き物がいたが、前にも後ろにも一面に目があった。7 第一の生き物は獅子のようであり、第二の生き物は若い雄牛のようで、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空を飛ぶ鷲のようであった。8 この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りにも内側にも、一面に目があった。彼らは、昼も夜も絶え間なく言い続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方。」9 玉座に座っておられ、世々限りなく生きておられる方に、これらの生き物が、栄光と誉れをたたえて感謝をささげると、10 二十四人の長老は、玉座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝し、自分たちの冠を玉座の前に投げ出して言った。11 「主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです。」          (ヨハネの黙示録 4章1〜11節)


 教会の暦が替わり、新しい主日を迎えました。伝統的に「降誕前主日」と呼ばれる期節に入りました。主イエス・キリストのご降誕前の9主日は、前半の5主日に、創造、堕落、ノア(保存の契約)、アブラハム(神の民の選び)、モーセ(贖いの契約)といった旧約聖書の物語が聖書日課として朗読されます。創造からキリストのご降誕まで、神の約束の歴史を顧みるのです。そして後半の4主日は、新しい暦としてアドヴェント(待降節)に入って行きます。この「降誕前主日」の前半と後半との間には、明確な境目があります。前半は「終末」として一年の終わりと収穫をおぼえ、後半には、新しい一年の始まりとして「アドヴェント」を迎えます。アドヴェントがあるのに、今から「降誕前主日」を数えるのは、少し気が早いようにも思われます。もっとも世の中は、ハロウィンが終われば、すぐにクリスマスの色に変化して行くことでしょう。私たちにとっては、クリスマスの装飾はまだ早いと思います。これから永眠者記念礼拝もありますし、教会・幼稚園の合同バザーもあります。けれども、様々な実りを味わい確かめて行くこの期節に、「終末」に向かう歩みの中で、私たちは、まだ表に現れ出ない小さな芽の兆しを深いところに感じて行きたいと思います。母マリアは、きっとこの季節にはお腹が大きくなって、新しい命の前兆を感じながら過ごしていたと思います。母マリアのお腹が大きくなりはじめると、父ヨセフもまた、赤ん坊の誕生が近いことを徐々に感じて、色々と気遣いをしたでしょう。この小さな家族が迎えようとしている赤ん坊は、すべての人の救い主となられる方でした。ルカによる福音書3章23節以下には、主イエス・キリストの系図が記されています。主イエスの父ヨセフから遡り、ダビデ、エッサイ、…ヤコブ、イサク、アブラハムを辿り、…ノア、原初の人アダムにまで及びます。主イエス・キリストの誕生は、最初の人の創造の出来事と深い結び付きの中にあるのです。


 本日の聖書箇所、創世記は、人の創造を意味深く語っています。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(2:7)神の創造のみ業は、ここで完結しません。物語は、神が人を造られたという事実ばかりでない、神の創造の目的をも語り始めます。「御心によって万物は存在し、また創造された」(黙4:11)とあるように、神の御心があるのです。それは、私たちの人生に意味を与えるものと言ってもよいでしょう。人は多くの場合、神の創造という前提なしに、自分の人生の目的を考えて生きています。アメリカのある牧師(リック・ウォレン牧師)は、こう言っています。「人はだれでも、何かに動かされて生きている。」ある人々は「罪悪感」に、ある人々は「怒り」と「憤り」に駆り立てられて生きている。ある人々は「恐れ」に、ある人々は「物質主義」に、また、ある人々は「受け入れられたいという必要」に駆り立てられながら生きている、と。すると、私たちの今を生きている原動力は、いったい何でしょうか? 私たちは今日、神の創造の御心に耳を傾け、私たちの人生の目的に思いを巡らせたいと思います。


 神の創造の目的は、「人」という作品を完成させることではありませんでした。神は、エデンの園を設けて、早速、人(アダム)をそこに住まわせます。「エデン」という言葉は、ヘブライ語で「無上のよろこび」という意味合いがあります。神が、その土地で人(アダム)に与えた祝福は、「耕す」ことでした。「耕す」と訳されるこの言葉(アーバド)は、「仕える」という意味を持ちます。この「仕える」という動詞から、「奴隷、僕」(エベド)という語が派生しています。非常に興味深いことに、神が、よろこびの土地に連れてきた人に得させた第一のことは、仕えること、労働であったのです。「創造の冠」(詩8:6)として造られ、「地を従わせ」(創1:28)るよう委ねられた人間は、同時に、土に仕える者としての使命を与えられました。この心を込めた労働が、それまで全くの受身であった人の生を、神のみ業に参加する主体的な生へと変えて行きます。そこで人は、神の呼びかけを聞きます。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。」(創2:16〜17)神は、いったいなぜ、エデンの園に「善悪の知識の木」を植えられたのか。この木を植えられたことが、そもそもの元凶ではないか。このような質問をいただいたことがあります。たしかに、この木が無ければ誘惑は起こらず、堕罪の出来事も起こりませんでした。しかし誘惑がなければ、私たちは、悪を選ぶことはおろか、悪を退けて善を選び取ることはできません。誘惑の中でこそ、私たちは自由意志を用いることができます。神は、人が自らの意志を持って、誘惑と闘いながら生きることをお望みになられました。けれども、強い意志を持ち、自立して歩むことが、人の完全な姿であるのかと言えば、そうではないと言います。その生はまだ、不足しているのです。神はおっしゃいます。「これはよくない!」人(アダム)の人生の、欠けているところは、彼が孤独であるということでした。


 人(アダム)が孤独であったことは、私たちとどのような関わりがあるでしょうか。原初の時から長い時を経て、現在、私たちのこの地上には68億3千万人以上もの「人」がひしめき合っています。日本の人口は、約1億3千万人ほどだそうですが、藤沢市内だけでも、約17万1千人です。私たちは、すでに建てられた共同体社会の中に生まれ、この中で、多くの人と出会を経験しながら生きています。経済も産業も法も進歩しており、原初の時とは全く違う暮らしを営んでいるかのようです。けれども、この「わたし」という個人は、進歩した人間であるでしょうか。私たちは、最初の人とは比べものにならないほど、複雑で賑やかな社会に置かれています。しかし、独りで生きているような生き方は、なくなってはいません。懸命に働き、自立しても、人は孤独であれば、それは自分自身のためでしかありません。神はそのような生き方を否定されるのです。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」(創2:18) ここで言われている「彼に合う助ける者」とは、人(アダム)の召使を意味しません。一対一で向き合うにふさわしい者です。向き合い、助け合う関係がなければ、人生は半分だ、と神はおっしゃるのです。そしてその出会いは、自分の努力によらず、神自らの意志によって与えられます。自然界のどの生き物をとっても、どの獣をとっても、人(アダム)は、向き合うのにふさわしい者を見つけることができませんでした。神は、人(アダム)を深い眠りに落とされ、あばら骨の一部を抜き取って、女をお造りになりました。そして女に出会った人(アダム)は、思わず叫びました。「ついに、これこそ わたしの骨の骨 わたしの肉の肉。」(創2:23)


 しばしば、この物語について、人(アダム)のあばらから女が造られたということが、女性が男性に従属するように言っている悪い記事だと言われることがあります。しかし、もしそのように言うならば、土から造られた人(アダム)は、土に従属しなければならないことになります。人(アダム)が土(アダマ)の塵から造られたということの意味は、従属ではなく、土との調和にあります。同様に、人(アダム)と彼の一部から造られた女は、調和する夫婦として描かれていると言ってよいのではないでしょうか。


 先主日(18日)の週報に、結婚を記念して献花をさしてくださったご夫妻のお名前を載せさせていただきました。週報をご覧になったある方が指摘してくださいました。「夫よりも妻の名前が先になっているのは、何かこだわりがあるのですか?先生はフェミニスト(女権主張者)ですか?」ご夫妻の連名で記載する場合、私たちの教会は習慣的に、夫、次いで妻、という順序で記すことが多いと思います。私は、意図的にそうしたのではないのですが、出来上がった週報には妻、夫の順で名前が記されました。男性か女性かという性別は、無意識のうちに私たちの生活の中で影響を与えているのかもしれません。


 本日の箇所の直後には、有名な堕罪の出来事が描かれています(創3章)。この箇所から、女(エバ)は、騙されやすく価値のない助け手、誘惑する者としての女性像を象徴しているという解釈もなされてきました。一方、フェミニスト神学者の解釈によれば、女(エバ)は、好奇心を持つ者、知識の探求者、限界を越えることを試みる者。三歩下がるどころか、男性よりもずっと前を行っているような印象を受けます。何としてでも男性優位の解釈を遣り込めねばならない、そういった意気込みを感じる言葉ですが、何も、禁断の果実を差し出すエバを、そんなにスーパーウーマンのように描き出す必要はないという気もいたします。あるいは、このエバの果実を差し出す行為は、料理の支度をする役割の前身だと言う人もあります。すなわち、男性はいつも、女性に出された者を食べる、ということです。このことは、家庭内の役割分担が変化してきた今では、あまり説得力のない言葉かもしれません。しかし、子を産みミルクを与える母親と台所との結び付きは、社会の様子が変わった今でも健在と言えるかもしれません。エバは、日常的な役割の中で誘惑に陥り、罪を犯します。アダムもまた、日常の家の風景の中で誘惑に遭い、罪を犯してしまうのです。人は、同じく土の塵から造られた存在であり、男も女も誘惑の前にはこのように無力な者です。しかし、アダムとエバが、やがてやって来る誘惑の出来事を、この夫婦関係の中で迎えるということは、意味深いことでした。誘惑を受けた時、2人は、悪い道を選び取ってしまいます。その結果2人は、エデンの園を追われ、労苦をも共にする者とされて行きます。「ついに、これこそ わたしの骨の骨 わたしの肉の肉。」この言葉は、エバとの心が震えるような出会いを経験したアダムの歓声であり、この後の人の生きる道を指し示すものとなりました。このとき、人は夫婦の深い関係の中に生きて行くことを始めました。


 新約聖書では、この夫婦の深い結びつきについて語るとき、しばしば、夫(花婿)はキリストを表します。そして妻(花嫁)は、教会を表します。教会がキリストと一つ体であるように、私たちは教会の一部、キリストの体の肢々です。「わたしの骨の骨」、「わたしの肉の肉」という深い共鳴を持って一つとされた体は、今、ここに目に見える教会として実現しているのです。神学者のC.S.ルイスは、罪とは、「出て行ってくれ、一人にしてくれ」と言い続ける生き方だ、と言いました。そうであるならば、罪から向き直った人の新しい生き方とは、端的に、共にあることです。一つの体として、神と共に、人と共に生きることです。互いにふさわしい助け手として、人のために歩むことです。一つ体なる私たちのこの群れに、一人また一人と加えられ、造り主なる神の目的を見つめながら共に歩み行くことが導かれるよう、祈り願いましょう。