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終末前々主日礼拝説教
    「あなたを導き出した方が」

日本基督教団藤沢教会 2009年11月8日

1これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」2アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」3アブラムは言葉をついだ。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」4見よ、主の言葉があった。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」
5主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」6アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
7主は言われた。「わたしはあなたをカルデアのウルから導き出した主である。わたしはあなたにこの土地を与え、それを継がせる。」8アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。この土地をわたしが継ぐことを、何によって知ることができましょうか。」9主は言われた。「三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩の雛とをわたしのもとに持って来なさい。」10アブラムはそれらのものをみな持って来て、真っ二つに切り裂き、それぞれを互いに向かい合わせて置いた。ただ、鳥は切り裂かなかった。11禿鷹がこれらの死体をねらって降りて来ると、アブラムは追い払った。
12日が沈みかけたころ、アブラムは深い眠りに襲われた。すると、恐ろしい大いなる暗黒が彼に臨んだ。13主はアブラムに言われた。「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。14しかしわたしは、彼らが奴隷として仕えるその国民を裁く。その後、彼らは多くの財産を携えて脱出するであろう。15あなた自身は、長寿を全うして葬られ、安らかに先祖のもとに行く。16ここに戻って来るのは、四代目の者たちである。それまでは、アモリ人の罪が極みに達しないからである。」
17日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。18その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで、19カイン人、ケナズ人、カドモニ人、20ヘト人、ペリジ人、レファイム人、21アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の土地を与える。」 
                 (創世記 15章1〜21節)


14わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。15もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、16あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。17信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。
18しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。19あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。20ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。21神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。22アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。23「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。24これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。25同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。26魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。(ヤコブの手紙 2章14〜26節)


信仰の原点に立って…
 この主日から数えて三週で、教会暦の一巡りが終わりを迎えます。今日の週報の教会暦の表示は「終末前々主日」。来週は「終末前主日」、再来週は「終末主日」、となります。そして、「終末主日」の週で教会暦の一巡りが終わり、翌週からは、教会暦の新しい一巡りの初め、クリスマスを待つ「アドヴェント(待降節)」が始まります。もっとも、世間では、アドヴェントを待つことなく、もうすでに「クリスマス」の装いが始まっているようです。いや、教会の中でも、すでに、アドヴェント・クリスマスに向けての様々な備えが始まっています。気持ちはもう、アドヴェント、そしてクリスマスに向かっている。けれども、そうであっても、いや、そうであるからこそ、わたしたちは、その前の季節である、この「終末三主日」と呼ばれる三週間を、大切に過ごしたいと思うのです。すでに洗礼を受けて信仰に生きている者も、間もなく洗礼を受けようと備えている人も、まだ信仰の確信を得られていない方も、共に、このときを、じっくり落ち着いて、アドヴェント・クリスマスに向けてのよい備えのときとして過ごしたいのです。
 この「終末三主日」には、わたしたちの聖書日課に従って、旧約聖書に伝えられる信仰の先達、アブラハム、モーセ、そしてダビデの物語を聴きます。聖書に依って立つ信仰に生きる者の、いわば原風景に目を向けるのです。
 アブラハムは、「信仰の父」と呼ばれる人物です。その信仰の歩みは、すでに75歳という年齢を重ねてから、ようやく始められました。もっとも、聖書の物語では、アブラハムはそれから100年生きて、175歳で亡くなったということですから、75歳のアブラハムというのは、必ずしも晩年のアブラハムというわけではないかもしれません。まだ、人生の半ばに差しかかったばかり、といっても良いかもしれない。しかし、いずれにしても、アブラハムは、幼いときから信仰の家庭に育ったわけではない。きちんと、信仰の教育を受けて育ったわけではない。成人して、すでに人生の酸いも甘いもある程度知るようになってから初めて、アブラハムは、神と出会い、信仰をもって生きるということを始めたのです。
 そのようにして信仰の歩みを始めたアブラハムが、おそらく10年ほどの歩みの後に経験した出来事が、今日の御言葉に物語られている出来事です。
アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。(6節)
 ここでは、アブラハムは、まだもとの名前、「アブラム」と呼ばれています。この後、さらに十数年経って99歳のときに、彼は、神から「アブラハム」という名を与えられるのですが、今日の御言葉の物語では、まだ「アブラム」です。神から呼び名を与えられるということは、特別親しい関係に入ったということをあらわしているのでしょうから、その意味では、今日の物語の場面では、まだ、「アブラム」と呼ばれる彼は、本当に神と親しく相まみえる、神との交わりを楽しむ、というような信仰を得ていたわけではない、ということかもしれません。けれども、そうであっても、ここで、彼アブラムは主を信じた、主なる神もその彼の信仰を義と認められた、つまり良しとされた、と聖書は物語っているのです。
 信仰というものは、ときと共に成長し、成熟していくものでしょう。初めは、神との距離を感じていた者が、信仰が成長し、成熟するにつれて、神との近さを憶えるようになる、ということがあるものです。それでも、信仰者にとっては、その信仰のごく初めのときに得たこと、つまり、単純素朴に「主を信じる」ということこそが、信仰の原点となりましょう。
 「主を信じる」のです。単純に、「主を信じる」。神のご計画が確かに良く分かったから、納得できたから、それを「信じる」、というのではない。神のお考えには良く分からないところがある、納得できないところがある、それでも、神を信頼し、「わが神、わが主よ」と呼ぶことのできるお方として信じる。我が身を委ねる。そういう単純素朴な「主を信じる」という一歩を踏み出すことこそが、わたしたちの信仰の原点なのです。

導かれて、今、ここにいる!
 このことを、もうすでに洗礼を受けて信仰に生きていらっしゃる皆さんには、あまりこれ以上説明を加えなくても、それこそ単純に分かっていただけると思います。けれども、まだ洗礼を受ける決意が与えられてない方や、信仰の確信を得られていない皆さんは、「どうして、単純素朴に信じるという一歩を踏み出すことができるのか」と問われるかもしれません。
 わたしは、そういう皆さんには、逆に一つのことを問いたいと思います。いや、すでに洗礼を受けて信仰に生きていらっしゃる皆さんにも、もう一度確かめるために、問いたいと思うのです。それは、こういう問いです。
 「わたしたちは、なぜ、今、ここにいるのでしょうか。皆さんは、今、どういうわけで、この教会においでになり、礼拝に加わっているのでしょうか。」
 大抵の方は、「自分の意志で、ここにいる」とか、「家族や知人に誘われたから、ここに来て、礼拝に出ている」とおっしゃるでしょう。それは、そのとおりです。けれども、ここは、仮にも神を礼拝する場所です。今、ここで行われていることは、神を礼拝することであり、神を前にして、その御言葉を聴こうとしているのです。仮に、皆さんがそう思っていらっしゃらなくても、教会は、牧師や礼拝奉仕者は、ここで、そういうことを大まじめにおこなっているのです。小さな振る舞い方や言葉遣いも、あるいは祈りの言葉や礼拝式の執り行い方も、すべては、神を共に礼拝することとして、神の前に立つ者としてできうる限りふさわしいものになるようにと考えて、これをおこなっているのです。そして、皆さんは、そういうところに、どういうわけか、導かれて来られて、加わっていらっしゃる。
 それは、単に、皆さん自身の意志によって、というだけでは説明のつかないことです。家族に誘われたからというだけでは、理由にならないことです。もちろん、皆さんの周囲のどなたかが、牧師をはじめとする教会全体と共に、皆さんを教会にお招きしよう、お導きしようと、一所懸命に思慮し、祈りにおぼえてこられたことと思います。けれども、そういうことがあったからといって、だれもが、簡単に教会に来られるようになるわけではありません。なかなか、皆さん、教会にはいらっしゃらない。「敷居が高い」とおっしゃって、なかなか、足が向かない。教会は、確かにそういうところなのです。それでも、そういうところであるにもかかわらず、そういう教会に、現に今、皆さんはいらっしゃっている。礼拝に加わっていらっしゃる。
 このことをこそ、神の導きと言わずに、何を神の導きと言うべきでしょうか。神が、皆さんお一人おひとりに働きかけられて、それぞれに最もふさわしい方法で道筋を整えてくださり、神と出会う場、礼拝の場へと導いてくださったのです。ちょうど、まだ神と親しく相まみえることを知らなかった「アブラム」が、それでも、神と出会う場へと導かれて、そこに、自分をここに至るまで今まで導いてくれていた方、「わが神、わが主」と呼ぶべき方の存在を認めないわけにはいかなくなった。「あなたを信じます」と心のうちに憶えないわけにはいかなかった。それと同じような経験を、皆さんは、ここに導かれてこられるたびに、経験なさっているのではないでしょうか。

約束のしるしをいただいて…
 「アブラム」は、単純素朴に、自分を、今、ここまで導きだしてくださった方、主なる神を信じることへと、一歩踏み出しました。自分をここまで導いてくださった方が、これからも、きっと、人生を導いてくださる。日々の生き方も、行動の仕方も、この方が導いてくださる。そのように信じて一歩ずつ前に進んでいく、成長、成熟させられていく。アブラムがこのときに経験した契約の儀式は、そのような神のさらなる導き、将来にわたっての導きを、神が約束してくださっていることのしるしでした。
 そのようなしるしを、わたしたちは、キリストによって与えられていることを、今、想い起こしたいと思います。キリストが、わたしたちを導きだしてくださった方として、今、ここにおいでくださっている。またこれからも導き続けてくださる方として、今、手を伸べてくださっている。そのことを将来にわたって約束してくださるしるしとして、キリストは、洗礼のしるしを、また聖餐のしるしを、わたしたちにお与えくださっているのです。
 いまだ洗礼のしるしの手前で立ち止まっていらっしゃる方に、ぜひ、知っていただきたい。今ここに至るまでを導いてきてくださった方が、ここで、出会ってくださっています。ぜひ、あなたを導いてきてくださった方、主イエス・キリストの導きの約束のうちに、一歩踏み出していただきたい。キリストが刻んでくださる洗礼のしるしを、あなたの人生の一日に、確かに刻んでいただきたい。
 わたしたちは、共に主キリストの導きのうちに生き、成長、成熟させていただく人生を重ねていくようにと、一つの群れ場、教会へと導き入れられたのです。

祈り  
主よ。御旨を悟ることの遅い私どもを。この群れ場へと導き入れてくださいました。終わりの日まで、導きの御手から離れさせないでください。アーメン