終末前主日礼拝説教
「神の御業を知っていたならば」 日本基督教団藤沢教会 2009年11月15日
2神はモーセに仰せになった。「わたしは主である。3わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主というわたしの名を知らせなかった。4わたしはまた、彼らと契約を立て、彼らが寄留していた寄留地であるカナンの土地を与えると約束した。5わたしはまた、エジプト人の奴隷となっているイスラエルの人々のうめき声を聞き、わたしの契約を思い起こした。6それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい。わたしは主である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う。7そして、わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であり、あなたたちをエジプトの重労働の下から導き出すことを知る。8わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると手を上げて誓った土地にあなたたちを導き入れ、その地をあなたたちの所有として与える。わたしは主である。」9モーセは、そのとおりイスラエルの人々に語ったが、彼らは厳しい重労働のため意欲を失って、モーセの言うことを聞こうとはしなかった。
10主はモーセに仰せになった。11「エジプトの王ファラオのもとに行って、イスラエルの人々を国から去らせるように説得しなさい。」12モーセは主に訴えた。「御覧のとおり、イスラエルの人々でさえわたしに聞こうとしないのに、どうしてファラオが唇に割礼のないわたしの言うことを聞くでしょうか。」13主はモーセとアロンに語って、イスラエルの人々とエジプトの王ファラオにかかわる命令を与えられた。それは、イスラエルの人々をエジプトの国から導き出せというものであった。 (出エジプト記 6章2〜13節)
1イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」2イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」
3イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。4「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」5イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。6わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。7戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。8民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。9あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。10しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。11引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。12兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。13また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」
(マルコによる福音書 13章1〜13節)
彼らを導き出せ!
教会暦の一巡りの終わりを迎える「終末三主日」の二週目の今日、旧約聖書の御言葉からは、出エジプト記のモーセの物語の一節を聴きました。
モーセは、旧約聖書を代表する人物で、その物語は出エジプト記から申命記までに描かれています。時代は、イスラエルの人々がエジプトで奴隷の生活をしていた頃のことです。先主日の聖書日課で、創世記に描かれているアブラハムの物語に触れましたが、そのアブラハムに続くイサク、ヤコブという家系から始まるのが「イスラエル」の人々です。この人々は、ヤコブとその息子たちの時代に、カナン地方からエジプトに移住しました。ヤコブの息子の一人であるヨセフが、エジプトの王ファラオの側近にまで出世し、飢饉の時期に一族をエジプトに呼び寄せたからです。それから四百年ほど経ったときには、エジプトに住むイスラエルの人々の数は非常に多くなっていましたが、ときのエジプトの王朝からは虐げられ、奴隷労働を課せられるようになっていました。そのような時代、イスラエル人の家に生まれながら、不思議な経緯でファラオの王女のもとで育てられることになったのが、モーセという人です。彼は、エジプトの王家の一人のように扱われましたが、四十歳の頃にエジプト人を殺したことがきっかけとなってファラオに追われる身となり、四十年ほどをミディアン人の間で羊飼いをしながら過ごしました。ところが、およそ八十歳で神と出会う経験をし、神から一つの使命を与えられるのです。それは、イスラエルの人々をエジプトの奴隷状態から解放し、導き出して、神の約束くださる土地に移住させる、という使命でした。
今日ご一緒に聴いた御言葉の物語るところは、その使命を最初に与えられてからまだ間もない頃のことです。神は、ここで、モーセに繰り返して使命を告げられ、使命に献身するようにと促されているのです。
ここでわたしたちがその断片を耳にしているモーセの物語というのは、決して、三千年以上前の異国の地で繰り広げられた一人の信仰の偉人の物語、というだけのものではないと思います。創世記を第1章から丹念に一章ずつ学び続けて、すでに5年かけて学びを終えた組会があります。創世記を学ぶ中で、組会の皆さんと確かめ合ったのは、そこに描かれていたアブラハム、イサク、ヤコブらの物語が、決して大昔の信仰の偉人たちの物語なのではなくて、わたしたち現代に生きる信仰者の物語でもあるということです。それと同じことが、出エジプト記から申命記までに描かれるモーセの物語にも言えると思うのです。モーセという大昔の偉大な信仰者の物語が、同時に、わたしたち現代に生きる者、信仰をもって生きる者の、その生き方を教える物語でもあるのです。
モーセに与えられた神からの使命とは、わたしたち一人ひとりの人生に与えられた神からの使命のことでありましょう。「使命」などと言うと畏れ多いように思われる方もあるかもしれませが、モーセに与えられた使命を具体的に考えてみれば、それは、決して、わたしたちから遠く離れたものではないと思うのです。
モーセは、イスラエルの人々をエジプトの奴隷生活から解放して自由にし、神の約束くださった土地に導いていくという使命を与えられました。それは、一つの伝道の使命だと言えないでしょうか。伝道というのは、一人の人を、今までの生活から新しい生活に導き出すことです。この世のさまざまな価値観に縛られて不自由に、頑なに生きている一人の人を、そこから解放し、自由にして、神の約束してくださるところ、キリストと共に生きる新しい生活へと導き入れること。それが、わたしたちの伝道の営みです。そうとすれば、モーセの物語とは、まさに、わたしたちが一人の信仰者として多少なりとも伝道ということを考えて生きるならば、まず学ぶべき最良の教科書だと言っても良いかもしれません。
皆さんが、日々、祈りをもって家族伝道、隣人伝道に取り組んでくださっています。そのことを祈りにおぼえない日はない、という毎日を過ごしていらっしゃる皆さんが少なくないことを、私も知っております。その伝道の取り組みの中で、さまざまな困難、障害に直面されていることでしょう。伝えたい相手に信仰のことを語っても、ちっとも聴いてくれない、反論ばかりされてしまう。そればかりか、かえって自分の信仰者としての生き方を批判されてしまう。そういう葛藤を抱えて、伝道する勇気が失せてしまった、気持ちが萎えてしまった、そういう経験をされた方、今、そういう思いになっている方は、少なくないと思います。
けれども、そういう困難や障害は、まさに、モーセが経験したことであったわけです。モーセは、神から使命を告げられて、イスラエルの人々に語るべき言葉も与えられました。ところが、聖書が物語ることによれば、モーセは、そのとおりイスラエルの人々に語ったが、彼らは厳しい重労働のため意欲を失って、モーセの言うことを聞こうとはしなかった(9節)のです。モーセが困難に直面したのは、このときばかりではありません。彼は、この後、40年にわたってイスラエルの人々を導き続けるわけですが、人々は、繰り返しモーセに不平を言い、不満をぶつけ、反抗し、そうこうしているうちに40年、つまり一世代が経過してしまったというのです。ある人は、そのようなモーセの生涯を評して、「もし、腹を立てる権利のある人がいるとすれば、モーセこそその人ではないでしょうか」(リック・ウォレン)と言っていますが、そのとおりだと思います。それでも、そのような人々を神の約束くださったところまで導き続けるという使命を、モーセは放棄することはなかったのです。そのモーセの物語を学ぶならば、わたしたちは、毎日の伝道への取り組みの中で直面する困難や障害を、どのように乗り越えていったらよいのか、たくさんの示唆を与えられるのではないでしょうか。
最後まで与えられた持ち場に立ち続けよう!
モーセは、40年にわたってイスラエルの人々を、神の約束くださったところに導き入れるために、祈り続けました。最初の頃は、モーセ自身、神に不平不満を訴えるようなところがありましたが、それでも、この使命を完全に放棄してしまうことはなかったのです。そして、その使命をもう少しでまっとうできるというとき、つまり、もう間もなくイスラエルの人々が神の約束くださったところに導き入れられるというとき、その直前に、モーセはその生涯を閉じたといいます。
私は、家族をキリストのもとへと導きたいと願って、祈り続けている皆さんが少なくないことを想い起こしながら、今、一つのことだけを申し上げたいのです。信仰を伝えたい大切な人が、なかなか気持ちを向けてくれなくても、キリストのもとに導きたい愛する人が、信仰のことになるとどうしても心を開いてくれないということがあっても、どうか、生涯の最後まで、そのお一人のために、大切な愛する方お一人おひとりのために、あきらめずに祈り続けていただきたいのです。
もしかすると、モーセがその最後の実りを見ることなく生涯を終えたように、皆さんは、愛する人の信仰に導かれることを見ることなく生涯を終えることになられるかもしれません。大切な人がキリストと出会い、主と共に生きるようになられることを見ることがないかもしれません。しかし、それでも、希望を失う必要はないのです。モーセに託されていた使命は、後継者ヨシュアに引き継がれました。モーセは、自分が託された使命をまっとうできなくても、その使命を受け継ぐ者が与えられていることを知って、平安の内に生涯を終えることができたのです。いや、むしろ、こう言うべきかも知れません。モーセは、自分に託された使命は、本当には、神ご自身がなさってくださる御業の一部に加わらせていただいていることなのだということ、そのことを知るようになったからこそ、困難に直面しながらも、使命を担い続け、平安の内に生涯を終えることができたのです。
皆さんご承知のとおり、昨日、一人の姉妹の葬送告別式を執り行いました。ご本人の生前の希望で、ご家族ご親族と、限られた教会の皆さんとだけで、式を執り行いました。生涯のちょうど半分、40年余の信仰者としての歩みを送られた姉妹でしたが、とても仲睦まじいそのご家族のお一人も、今まで信仰に導かれることを見ることはありませんでした。けれども、わたしは、姉妹が生前に残されていたご自分の葬儀のための覚え書きに記されていたことを拝見して、姉妹がどれほどご家族のために祈り続けていらしたかということを、思わないではいられませんでした。ご家族を信仰に導き、キリストのもとにお連れすることを、どんなにか祈り願っていらしたか。そのことを、姉妹は、ご自分の葬儀のための覚え書きの中に、密やかに託していらしたと思います。最後の三年間はご病気を得られて思うに任せない生活でいらっしゃった姉妹でしたが、モーセのように、最後まで、託された使命を放棄せずに生涯を歩み抜かれた方でした。姉妹が自分に託された使命として憶え、祈り続けられたことは、残されたわたしたちの誰かが引き継ぐことになるでありましょう。いや、それ以上に、神が御自らのご計画のうちに、御手をもって御業として完成させてくださるのでありましょう。
わたしたちの人生に与えられた使命は、神の御業の内にある。そのことを知るならば、わたしたちは、ただ与えられた持ち場にとどまり、立ち続け、そこに献身する者とされるのです。主イエス・キリストから託された伝道の使命に、わたしたち一人ひとりの者が仕えさせていただきたいと願います。
祈り
主よ。私どもを選び召して、あなたの御業に仕える者にしてくださるとは、畏れ多いことです。どうか、その神秘を信じる者とならせてください。アーメン
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