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終末主日礼拝説教
    「あなたに神の油が注がれるとき」

日本基督教団藤沢教会 2009年11月22日

1主はサムエルに言われた。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」2サムエルは言った。「どうしてわたしが行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう。」主は言われた。「若い雌牛を引いて行き、『主にいけにえをささげるために来ました』と言い、3いけにえをささげるときになったら、エッサイを招きなさい。なすべきことは、そのときわたしが告げる。あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい。」4サムエルは主が命じられたとおりにした。彼がベツレヘムに着くと、町の長老は不安げに出迎えて、尋ねた。「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか。」5「平和なことです。主にいけにえをささげに来ました。身を清めて、いけにえの会食に一緒に来てください。」
サムエルはエッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招いた。6彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。7しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」8エッサイはアビナダブを呼び、サムエルの前を通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」9エッサイは次に、シャンマを通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」10エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。「主はこれらの者をお選びにならない。」11サムエルはエッサイに尋ねた。「あなたの息子はこれだけですか。」「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」とエッサイが答えると、サムエルは言った。「人をやって、彼を連れて来させてください。その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」12エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」13サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。
               (サムエル記上 16章1〜13節)



12わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。13以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。14そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。15「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。16しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。17永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。    (テモテへの手紙一 1章12〜17節)


新しい始まりに備える
 教会暦の一巡りの終わり、「終末主日」を迎えました。来週には、新しい始まり、「待降節(アドヴェント)」を迎えます。主の日ごとに御言葉を通して覚えて歩む神の御業の物語、主キリストと教会の物語を、一通り聴き終えて、そして再び、その物語の初めに戻って聴き始めます。けれども、それは、ただ繰り返しの年中行事としてそうする、ということではありません。使徒パウロは、コロサイ書の中で、「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです」(コロ3:9〜10)と教えています。わたしたちの信仰の歩みは、日々、それまでの古い自分を終わりにして、脱ぎ捨て、キリストをこの身にまとわせていただいて、新しい歩みを始める、という積み重ねをしていくことです。それが日々のわたしたちの信仰の取り組みです。
 わたしたちは、「終末主日」という教会暦の季節を迎えたときに、何よりも、このことを考えます。聖書は、「終末」「終わりの日」に人間の営みの一切が終わりを迎え、神の完全な御業が遍く始められる、と告げます。それは、歴史学で語れるような事柄ではないかもしれませんが、わたしたちの信仰者としての日々の歩みのあり方を、究極的なイメージによって明確に告げてくれているのでしょう。
 これは、一人の人の死に思いを向けることと同じことだと、わたしは思います。愛する者の死にしろ、自分の死にしろ、どんな者の死にしろ、それは、人の人間としての一切の営み、為しうることが、すべて終わる、ということです。その人の存在は、その死によって全て虚しく消え去ってしまうのでしょうか。そうではないでしょう。そのときには、神の御業こそがその人の存在を意味あるものとしてくださるのだ、ということに、わたしたちは気づかされるのだと思います。
 今日の聖書日課、サムエル記上16章には、イスラエルを初めて統一王国として支配したダビデ王が、預言者サムエルによって初めて見出され、王となる約束の油を注がれた出来事が描かれていました。ダビデが王になるのは、このときよりも、まだ何年も先です。ダビデは、30歳でユダ族の王となり、37歳で全イスラエルの王となったと言われていますが(サム下5:4~5)、今日の場面では、まだ一人前の大人と見なしてもらえない年齢の少年でした。ですから、ダビデには7人の兄たちがいたようですが、預言者サムエルがダビデの父エッサイの家を訪ねてきたとき、7人の兄たちは皆、食事を共にするように招かれましたが、ダビデだけは招かれず、一人、羊の群れの番をさせられていた、というのです。しかし、その少年ダビデに油が注がれて、ダビデが王として立てられていくという神の新しいご計画による御業が始められたというのが、ここに描かれていることです。
 この出来事の場面は、しかし、また、一つの「終わり」を語ることから始まっていることにも、目を向けるべきでありましょう。ときの王サウルの時代の終わりです。預言者サムエルが、神の御言葉としてまず聴いたのは、そのことでした。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた」(1節)。サウル王は、もともと、イスラエルの人々の求めに神がお応えくださって立てられた王でした。神の御心に従う王として歩み出していました。ところが、ある時を境にして、神の御言葉に従うことから離れて、自分自身を頼る生き方に傾いていったのです。サウル王は、王とされた初めのときにそうであったように、神の御言葉に聴くことによって、自分自身の為すことを中断し、古い自分を捨てて、神の始めてくださる御業のうちに入っていく生き方にとどまるべきでした。けれども、そのような生き方から離れていってしまったとき、神は、サウルの王としての「終わり」を宣言なさったのです。それは、事実としては、まだ先のことでした。そうではあっても、このとき早くも、サウル王の終わり、つまり、一つの人間の営為の終わりが告げられた。それは、神が、新しいこと、新しいご計画による御業を、すでに始めていられたからです。
 「終末」の教えによって、あるいは人の「死」の現実によって、わたしたちは、全ての者の人間としての営為がいずれは終わりを迎えることを教えられます。わたしたちは、「まだ終わりではない」、「まだ自分の力で何とかなる」と考えがちですが、しかし、聖書はむしろ、「すでに神は新しいことをお始めになられている」という真実に目を向けるようにと、わたしたちに告げるのです。神が、新しいことをお始めくださっているのであれば、それが大きなことであれ、小さなことであれ、わたしたちは、そのことにこそ目を向けて、生きていくべきでありましょう。それこそは、幸いなことなのです。神は、新しいことをお始めくださる。そして、その新しい御業のうちに、わたしたち一人ひとりを、招き入れ、用いてくださるからです。ダビデだけではない。「ダビデの子」としてお生まれになられた方、主イエス・キリストが、わたしたち皆をだれでも、そこに目を向けさえすれば、神の新しい御業の現実へと導き入れてくださるのです。
 そうであれば、終末主日を迎えたわたしたちは、このときが、すでに神がお始めくださっている新しい御業の現実、新しいアドヴェント・クリスマスの現実の始められていることを悟るべき日として与えられていることを、憶えたいのです。


神の見られるところ
 クリスマスの祝いのときに向けて洗礼の備えを重ねてくださっている方々があります。洗礼の恵みにあずかり、キリストと共に生きる命へと新しく生まれる。キリスト者の誕生を、祈りのうちに待ち望み始めています。その方々のための洗礼試問会を次主日に設けました。古いものの終わりを知り、神の始めてくださる新しいものに目を向けていくこの季節に、試問会のときを設けて、新しいキリスト者としての命に招かれている方々の信仰の言葉を聴くことができるのは、教会全体にとっても幸いなことだと思います。本当は、教会全体で行いたい試問会ですが、役員方が代表して、その恵みにあずからせていただくのです。
 その試問会で、洗礼志願者は、ご自分の信仰を言葉に言い表してくださる。役員の皆さんは、その言葉を、祈りをもって受けとめてくださる。誤解を恐れずに申し上げれば、その時の言葉は、どなたの場合も、決して立派な信仰の表明などではないのです。もちろん、堂々とお語りくださる方もあります。しかし、ご自分の信仰が確かなものであると誇るような言葉を語られる方はいません。そのような言葉は、ありえない。なぜならば、そこでお語りくださる洗礼志願者の一人ひとりは、だれか人間の評価によって、そこに導かれたのではないのです。どの一人も、神の見られるところに従って、神の見出してくださることのゆえに、志願者として導かれてこられた。ちょうどダビデが父や兄たちの食事の席に招かれなかったように、わたしたち人間の見るところによるならば、「どうして、その人がここに同席しているのか、わからない」と思われるような一人であるかもしれません。わたしも、その一人です。クリスチャン家庭で育ったとか、熱心に聖書を学んだとか、仮にそういう良い条件があったとしても、しかし、神は、そのようなところに目を向けられたのではない。「主は心によって見る」(7節)、ただその御心によって見出してくださった一人、なのです。


「油を注ぎなさい」
 家の外で羊の群れの番をしていて、今迎え入れられたばかりの少年ダビデを前にして、預言者サムエルは、主の言葉を聴きました。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ」(12節)。油を注がれた者、メシア=キリストの誕生です。キリストの誕生を指し示す出来事が、ここに行われたのです。
 教会は、古い時代から、洗礼式に際して、受洗者に油を塗る儀式を加えてきました。わたしたちの教会では失われてしまった儀式ですが、そこで憶えられてきたことは、わたしたちもまた、憶え続けてよいことです。受洗者に油が塗られる。それは、油注がれた者=キリストと一つのものにされる、ということです。新しい人、キリストを身にまとうものとされるという、しるしです。
 神の御心のうちに招き入れられた一人の少年に「油を注ぎなさい」と命じられて、預言者サムエルは、ダビデに油を注ぎました。神の新しいご計画の御業が、そのときから激しくダビデのもとで働き始めたといいます。
 わたしたちは、主イエスから、一つの使命を与えられています。「すべての民をキリストの弟子とし、洗礼を授ける」ことです。それは、預言者サムエルが神に命じられた使命と、深いところで通じるものでありましょう。わたしたちは、わたしたち人間の目にふさわしいと思う者を集めて、キリスト者として誕生させるのではありません。ただ、神が御心のうちに目を向けられ、主の教会の営みへと招き入れられた人に、洗礼を授け、主の油注がれた者=キリスト者として新しく生まれる信仰の出来事に、伴わせていただくのです。
 神が今、すでに、新しい御業の現実をお始めくださっていることに、目を向けたいと願います。この世界で、キリストの御名による教会の営みの中で、教会に招かれた一人ひとりの中で、今ここにいるあなたの中で、神が、新しい御業の現実をお始めてくださっている。そのことを確かめる祈りのときを迎えます。


祈り  
主よ。人の営みの終わりを知る者とならせてください。御業の新しく始められていることに目を向けます。あなたの御業のうちに刈り入れてください。アーメン