待降節第1主日説教
「クリスマスの冒険へ!」 日本基督教団藤沢教会 2009年11月29日
1兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。2盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。33人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。4しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。5あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。6従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。7眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います。8しかし、わたしたちは昼に属していますから信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。9神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。10主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。11ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。
(テサロニケの信徒への手紙一 5章1〜11節)
新しい朝を迎えました。私たちは、一巡りの旅路を終えて、新しい時を迎えました。この大切な新しい時の始まりを、子どもも大人も皆一緒になって、合同礼拝をささげることが導かれました。今年もまた、クリスマスを待ち望む、わくわくするような期節がやってきました。今年のクリスマスのテーマは、<クリスマスの冒険>です。冒険とは何のことだろう?と首をかしげしながら今日を迎えた方もあるかと思います。しかし今、この礼拝堂に集められました。皆さんは、もうすでにこの冒険の中にいるのです。いったい何のことかとあやしく思われる人もあるかもしれません。
教会学校では、分級の時間に、このクリスマスのテーマに触れていたクラスもあるようです。<クリスマスの冒険>このテーマについて、「聖書でイチバンの冒険家は誰だと思う?」という話の中で、「羊」と答えた子があったという話を耳にしました。クラスを担当しているスタッフも、「ヨセフさん」とか「博士たち」とか、そういった答えを予想していたのだと思うのですが、「羊」だったと言います。クリスマスの物語、ページェントには、「羊」もたしかに出てきます。しかし、鳴き声をあげるかどうかは各自の自由ですがセリフはありませんし、そもそも羊は、目も悪く、鼻でにおいをかぎ分けることもままならないような頼りない存在です。そんな羊が冒険するというのは、いったい何のことを言っているのかと考えました。おそらく羊役のことを言っているのかな、と私は解釈いたしました。ページェントの羊役です。教会学校クリスマスのページェントの中で、羊役は、たいてい小さい子どもたち、幼稚科のお友だちが羊の帽子をかぶって演じてくれます。そうすると時々、こういうことが起こります。(羊が)群れから飛び出して行って、本来いるべき場所にいない。ここにいてほしいのに、知らないうちにあちらに行っていたり、舞台から脱走していたりする。「イチバンの冒険家は羊だ」と答えた言葉の裏には、そういう元気な教会学校の羊のイメージがあるのではないかと思います。しかし、それは羊役の幼稚科の子どもたちばかりがそうなのかというと、そうでもないと思われます。本来いるべき場所にいない、知らないうちに迷子になり、飼い主の住所も言えない、知らない。そういう迷子の羊状態になってしまうのは、人間の特徴だということもまた、聖書の語るところです。しかし、羊には、必ず羊飼いがあり、羊飼いは迷い出た羊を捜して歩きます。迷い出たのが、たった一匹でも、見つかるまで捜します。「良い羊飼いは、羊のために命を捨てる」と、このように主イエスさまはお語りになりました。羊飼いと羊のたとえを通して、イエスさまと私たちの関係を教えてくださったのです。いつもイエスさまは、物語やたとえ話を通して、弟子たちに教えられました。それは単なる良いお話ではありません。私たちが、その中に生きている「物語」なのです。
私たちは、一人一人、いのちの物語の中に生きています。物語の中を、冒険しています。「冒険」という言葉は、英語では“Adventure”(アドヴェンチャー)です。“Adventure”(アドヴェンチャー)は、「到来」「出現」という意味の“Advent”(アドヴェント)という言葉から派生しています。“Adventure”(アドヴェンチャー)「冒険」には、あちらの方から何かがやって来るという意味が含まれているのです。それは、ドキドキわくわくするような出来事というだけではありません。危険を予期しながらもあえてそのことに進んでいくことが「冒険」です。子どもは冒険が得意です。けれども、子どもたちだけがこの冒険に招かれているのではありません。子どもも大人も共に、招かれているのです。ここにいる皆さん一人一人が、この物語の冒険者です。
物語には、筋があります。私たちの物語の筋は、いったい誰が作っているでしょうか。皆さんは、本やテレビで色々な物語に出会うと思います。ドラマが大好きという人もいるようです。いい場面で終わってしまうと、残念な気持ちになる人もいると思います。早く次が知りたいのに、1週間待たなければならないことがほとんどです。私たちは、一度その物語に入ってしまえば、登場する人に感情を入れ込んでしまいます。一緒になっておいおい泣いたり、腹を立てたり、なんだかこちらまで幸せな気持ちになって「よかった、よかった」と安心してみたりします。ドラマの作者は、そのような私たちの様子を見れば満足してくれると思います。しかし神の物語は、感情移入よりも、もっと深い共感を求めます。私たちが物語の只中にいることを求めます。つまり、私たちは観る側ではなく、物語の只中にあって演じる側なのです。数年前から、韓国のドラマが日本で幾つも放映されるようになりました。聞くところによれば、韓国は非常にドラマが盛んで、毎日複数のドラマをどんどん提供していくために、台本を書くことが追い付かないそうです。プロットの大枠だけが決まっていて、細かい筋書きは、監督と俳優が一緒になって、演じながら作って行くのだと、そういう話を聞いたことがあります。私たちもまた、予め物語の詳細を知らされることはありません。実に即興的で、アドリブの多い人生だなどと言うと、堅実な方は危険に感じられるかもしれませんが、しかし、堅実な方にも大雑把な方にも、まず神のたしかなご計画があります。そのご計画のすべてを知らない私たちがこれを生きるということは、やはり冒険に違いないのです。思いもかけないことが、突然起こります。約束された「主の日」もまた、ある日突然やって来るのだと言います。
今日、朗読された聖書のみ言葉に聞きますと、テサロニケの教会の人々に書き送った手紙の中で、使徒パウロはこのように言っていました。「盗人が夜やって来るように、主の日は来る」。「主の日」とは、主イエスさまが再び来ると約束してくださった日(再臨)です。それは「夜」に起こるのだと言います。弟子たちが、湖の上で逆風に遭い、波に漕ぎ悩んでいたところに、イエスさまが湖を歩いて現れたというお話がありますが、弟子たちはその時、来てくださったイエスさまを幽霊と間違えてしまいました(マタ14:22以下)。夜だったからです。そして、夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いに、突然現れた天使もまた、決定的な救いの言葉を告げるのです。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(ルカ2:8以下)。クリスマスの出来事です。このような仕方で、主は、再び来られるのです。
主が再び来られる「主の日」は、「最後の審判」と言われている日でもあります。この「最後の審判」に、神が世界を正しく裁かれる終わりの時を迎えるのです。私たちの物語は、延々と果てしなく続くものではありません。
物語には、「終わり」があります。「終わり」というのは、しかし、息絶えてしまうことではありません。「死」が物語の終わりかと言いますと、多くの物語はそうではないと思います。物語の終わりには「結末」が用意されています。そこに向かって物語が進んで行く一つの「到着点」があります。その「到着点」を目がけて始められ、進められます。物語は、行き着くべき「目的」を持っているのだということです。私たちの命は、刻一刻と「死」に向かって進んでいることも事実ですが、同時に、一つの「目的」に向かっていることを、私たちは知らされます。私たちの人生は、ただ流れるままに流れるというような、なめらかなものではありません。人生には決断があり、対立があります。そこで立ち止まるときに、私たちは向かってゆく「目的」は何なのか、知りたくなります。私たちの物語に用意された「結末」を知りたいと思います。皆さん、自分がどのように生きていくのか知りたいと思いませんか。そのようにして、一人一人の冒険は始まります。私たちは迷子の冒険者ではありません。神という磁石を持った、イエスさまの道が記された地図が与えられた冒険者です。
私たちの物語のページはめくられ、新しい時がやって来ました。今日は、礼拝後に、洗礼を受ける思いが与えられた3名の方の試問会が予定されています。クリスマス、神の救いの御業が、大きく前進する時が近づいています。日曜毎に、アドヴェントクランツのろうそくに灯をともして、クリスマスを待ちましょう。主の来られるときが近いことを知り、希望を胸に灯しながら、クリスマスを待ちましょう。私たちが待ちに待つ「待降節」は、私たちが待つ前に、待っていてくださる方があることを知るときでもあります。私たちを待っている方は、だれでしょうか。大きく手を広げて待っていてくださる神です。そのことに、私たちが気づき、神のもとに行こう!と決めて出かけるならば、どうでしょうか。私たちは、行く道の途中で神を見つけます。まだ遠く離れているうちに、私たちを見つけ、私たちのもとにやって来てくださるのです。「あなたを見つけた」そう言って、神が見出してくださる時、私たちは、人生という物語の「目的」を見出します。私たちは、「信仰と愛の胸当て」が付けられ、「希望の兜」が与えられます。限界のある人生に疲れることなく、暗闇に引きずり込まれることのない、「光の子」となるのです。
私たちは、「光の子」として、クリスマスを追い求める冒険に出かけます。このクリスマスを、共に喜び祝う人を尋ね求めましょう。肝心なことは、クリスマスの祝いそのものではありません。プレゼントを交換したり、おいしいものを飲んだり食べたりすることよりも大切なものを探し求めます。この年もまた、私たちにクリスマスを備えてさる神さまです。私たちのために、御子キリストを送ってくださる方のお心です。本日のみ言葉を、もう一度聞きましょう。「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主は死なれましたが、それは、わたしたちが目覚めていても眠っていても、主と共に生きるためです。」私たちが、この地上に生きている間も、死んで後も、主とともにいるためにです。私たちのこの救いのために、御子イエスさまを生まれさせ、十字架の死に渡された方の深いお心を尋ね求める祈りを、共に深めてまいりましょう。
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