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待降節第2主日礼拝説教
    「この言葉があなたを動かす」

日本基督教団藤沢教会 2009年12月6日

1ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの第四年に、次の言葉が主からエレミヤに臨んだ。2「巻物を取り、わたしがヨシヤの時代から今日に至るまで、イスラエルとユダ、および諸国について、あなたに語ってきた言葉を残らず書き記しなさい。3ユダの家は、わたしがくだそうと考えているすべての災いを聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの罪と咎を赦す。」4エレミヤはネリヤの子バルクを呼び寄せた。バルクはエレミヤの口述に従って、主が語られた言葉をすべて巻物に書き記した。5エレミヤはバルクに命じた。「わたしは主の神殿に入ることを禁じられている。6お前は断食の日に行って、わたしが口述したとおりに書き記したこの巻物から主の言葉を読み、神殿に集まった人々に聞かせなさい。また、ユダの町々から上って来るすべての人々にも読み聞かせなさい。7この民に向かって告げられた主の怒りと憤りが大きいことを知って、人々が主に憐れみを乞い、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。」8そこで、ネリヤの子バルクは、預言者エレミヤが命じたとおり、巻物に記された主の言葉を主の神殿で読んだ。
9ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの治世の第五年九月に、エルサレムの全市民およびユダの町々からエルサレムに上って来るすべての人々に、主の前で断食をする布告が出された。10そのとき、バルクは主の神殿で巻物に記されたエレミヤの言葉を読んだ。彼は書記官、シャファンの子ゲマルヤの部屋からすべての人々に読み聞かせたのであるが、それは主の神殿の上の前庭にあり、新しい門の入り口の傍らにあった。       (エレミヤ書 36章1〜10節)



3:12キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。13悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます。14だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、15また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。16聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。17こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。
4:1神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。2御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。3だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、4真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。5しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。
6わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。7わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。8今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。
           (テモテへの手紙二 3章12節〜4章8節)


アドヴェントの中の「愛」
 アドヴェントのロウソクの二本目が灯りました。この二本目のロウソクの呼び名をご存じでしょうか。「ベツレヘムのロウソク」と呼ばれます。もちろん、他のロウソクにも呼び名があります。一本目は「預言者のロウソク」、三本目は「羊飼いのロウソク」、四本目は「天使のロウソク」。二本目と四本目の呼び名は、逆になることもあるようです。
 今日、灯った二本目のロウソクは、「ベツレヘムのロウソク」。ベツレヘムは、御子イエスのお生まれになられた町です。子どもたちが演ずる聖誕劇で、嬰児イエスはベツレヘムの馬小屋でお生まれになられたと、描かれます。あの、幼子イエスのお生まれになられたベツレヘム。馬小屋でお生まれになられた御子キリスト。ベツレヘムのロウソクは、そこに光を照らすのでしょうか。あるいは、あの小さな町ベツレヘム、貧しい馬小屋でお生まれになられた御子イエスの、そこから輝き出す光を、このロウソクは指し示している、ということかもしれません。
 そういうことからでしょう、このベツレヘムのロウソクは、「愛」を意味するロウソクだとも言われます。御子をこの世にお与えくださった神の「愛」、ベツレヘムのような小さな町、馬小屋のような貧しい場所を、御心に覚え、用いてくださる、真の父なる神の「愛」です。ベツレヘムの馬小屋に、真の神の「愛」が注がれて、御子がお生まれになられた。聖誕劇の、もっとも心満たされる馬小屋の場面を、皆さんも、思い起こしていただけることでしょう。
 あるいは、まさに、そういう場面を再現した「クリッペ」などと呼ばれる「馬小屋セット」を、ご自宅に飾られている方もあるかもしれません。会堂1階の玄関ホールにも、幼稚園で飾っている「馬小屋セット」があります。飼い葉桶に寝かせられた幼子イエスを中心に、マリアとヨセフ、牛や馬、羊と羊飼いたち、三人の博士と、クリスマスに登場する役者が勢揃いで、ベツレヘムの馬小屋に集まってきています。子どもたちも大好きな飾りです。ただ、この「馬小屋セット」を飾る教会の習慣から申し上げると、ちょっと飾り方が違っています。アドヴェントの期間は、まだ、飼い葉桶の中に寝かせられている幼子は飾りません。他の人形も、最初からは飾りません。アドヴェントを迎えると、まず馬小屋を飾り、少しずつ順に加え、また近づけていくのです。そして、クリスマスイブに初めて、飼い葉桶の中に幼子を飾ります。アドヴェントからクリスマスまでの期間をかけて、少しずつ、聖誕劇の物語を演じていくようにして、飾っていくわけです。
 もちろん、飾り方の作法が大事なのではありません。最初から全部を飾ったって、問題があるわけではありません。けれども、飼い葉桶がまだ空っぽの馬小屋セットを見つめるというのも、とても大切なことだと思います。アドヴェントは、祈りの期節、悔い改めのときです。空っぽの飼い葉桶を想像するとき、私は、自分の心の中の飼い葉桶が、もしかすると空っぽなのではないかと、自問します。飼い葉桶の中にお出でくださる方よりも、その周りのあのこと、このことに気を取られてしまっている自分に気づかされます。飼い葉桶の中に御子をお送りくださる方、天の父がいてくださるということよりも、馬小屋を準備し、集まる人々をもてなすのに忙しい、というような毎日を送ってしまっている自分がいます。「愛」をいっぱい振りまいているつもりで、実は、肝心の中心の「愛」は空っぽ。御子イエスを通して注いでいただく「神の愛」は、どこかに放ったまま。
 だから、私は、アドヴェントの今は、心の内で空っぽの飼い葉桶を想像しながら、祈るのです。洗礼を受けたときに、確かに私の内にもお生まれくださった御子キリストが、今も、これからも、私の内にお出でくださるように。真の父なる神の「愛」を満たしてくださるように。静かに祈り、そのことを待ち望みながら、このときを過ごしたい。皆さんにも、そのように過ごしていただきたいのです。


すでにいただいているものを確かめて…
 そして、そうであればこそ、何よりも、聖書の御言葉に、いつも以上にたくさん、触れていただきたい。聴いていただきたい。そう思うのです。
 今日の聖書日課の御言葉は、どちらも「御言葉」について語られていました。
預言者エレミヤは、神から御言葉を託されて、それをバルクという協力者に口述筆記してもらって、イスラエルの人々に、神の御言葉を伝えました。ここに記されているのは、その御言葉の一部でしょうけれども、とても厳しい御言葉が、エレミヤによって伝えられたということが分かります。悪の道に歩む人間に対して、神が怒っていらっしゃる、憤っていらっしゃる、災いを与えようとさえお考えになられている。厳しく罰をお与えになられるような神のイメージに、私たちは、少し当惑いたします。主イエスを通して示される「愛の神」とは、随分違うイメージの神だと、そのように思われる方もあるかも知れません。
 けれども、主イエスは、一度たりとも、「父なる神は、愛の神だから、優しくてどこまでも寛容で、怒ったり、憤ったり、罰を与えたりなど、なさらない」とは、おっしゃられませんでした。むしろ、主イエスは、「父なる神は、本気で人間を愛してくださる方だから、勝手気ままにしている人間を、いつまでも放っては置かれない」とお教えくださったのです。
 伝道者テモテに宛てた手紙を記したパウロは、旧約聖書の御言葉のことを指して、聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です、と記しました。パウロは、若いときからユダヤ教徒として聖書(旧約聖書)をよく学んでいた人です。聖書の御言葉に教えられている律法、掟、戒めを、きちんと守れる人でした。ただ、彼は、主イエスと出会うまでは、「神の本気の愛」ということを知らなかったのです。ただ、裁判官か、生徒に点数を付けるだけの採点者のようなイメージで神を信じていた。ですから、自分は合格点かどうか、あの人は合格点かどうか、この人はどうか、と、そういう見方しかできなかったのです。それが、幻の中で主イエスと出会ってから、パウロは、変わりました。神が「本気の愛」の方であることを知ったからです。本気で、人間一人ひとりを愛してくださり、教え、戒め、誤りを正し、本来あるべき姿に成長するまで、導き、働きかけ、訓練を与えてくださる。すぐに合格点を得られる者だけでなく、いつまで経っても合格点を取れない者も、あるいは、逃げ出してどこかに隠れてしまっているような者も、神はお忘れにならないで、本気で、一人ひとりをどうにかしようとお考えくださっている。そういう「本気の愛の神」をキリストとの出会いで知るようになったパウロは、聖書の御言葉の聴き方も、随分変わったのかも知れません。御言葉の一つひとつに、神の本気、天の父の本気の愛を、感じないではいられなくなったのではないでしょうか。
 もちろん、神が、あるときまでは好い加減であったということではありません。神は、初めから、わたしたち人間の一人ひとりが生まれる前から、ずっと前から、本気で愛を注いでくださるために、備えていてくださったわけです。そんなことがどうして分かるのかと言われる方があるかも知れませんが、それは、今、神の御言葉を聴いて、そこに神の本気、本気の愛を知るようになれば、おのずと分かるようになることではないでしょうか。わたしたちは、自分の親が、誕生の前から自分のために備えてくれていたということを、直接見ていなくても、生まれた後に聴く親の言葉を通して、信じるようになるのです。そのことを本当に分かるようになるのは、自分が大人になってからかも知れません。親の言葉を聴いていても、子供のうちは気づかないままで過ごしてしまうことがある。それが、反抗期も過ぎて、ある程度成熟してくると、自分に対する親の本気というものが、想像以上に大きなものであったことに気づくのです。
 神が、わたしたち人間一人ひとりのために本気でしてきてくださってこと、本気の愛を注いでくださっていることの、その広がり、大きさ、豊かさを、わたしたちは、なかなか分かりきれません。けれども、御言葉を繰り返し聞くことによって、だんだんと悟るようになります。御言葉の告げる出来事、中でもクリスマスやイースターの出来事の中に、わたしたちは、神の本気の愛の注がれていることを、少しずつ、しかし確実に深く、知るようになるのです。


あなたが新しく歩み出すために…
 わたしたちに本気の愛が注がれるのは、わたしたちがいつまでも幼児でいるためではありません。いつまでも失敗を繰り返す子供のままでいるためではありません。失敗しても、間違っても、それでも、新しく一歩、また一歩と踏み出していって、成長し、成熟した一人の人間、「神の子に似た者」になるためです。その新しい一歩を踏み出すことができるように、神は、御言葉をもって臨んでくださる。本気の一言を、一人のために語ってくださる。そのような御言葉を、すでに聖書の中に託してくださり、また御子キリストに託してくださったのです。
 あの馬小屋の中の飼い葉桶は「聖書」のことだと、ある人は教えます。アドヴェントです。聖書の中の神の本気の御言葉を心深くに刻む備え、真の父の本気の愛である御子を一人ひとりの飼い葉桶の中に見出す備えをいたしましょう。


祈り  
主よ。御子を待ち望みつつベツレヘムの馬小屋の飼い葉桶を備えさせてください。御言葉の内に真の父の愛を知り、新しい一歩を歩み出させてください。アーメン