待降節第3主日礼拝説教
「あなたが待ち望むならば」 日本基督教団藤沢教会 2009年12月13日
1 慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。
2 エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ
苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。
罪のすべてに倍する報いを、主の御手から受けた、と。
3 呼びかける声がある。
主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。
4 谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。
険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。
5 主の栄光がこうして現れるのを、肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。
6 呼びかけよ、と声は言う。
わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。
肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。
7 草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。
8 草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。
9 高い山に登れ、良い知らせをシオンに伝える者よ。
力を振るって声をあげよ、良い知らせをエルサレムに伝える者よ。
声をあげよ、恐れるな、ユダの町々に告げよ。
見よ、あなたたちの神
10 見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。
見よ、主のかち得られたものは御もとに従い、主の働きの実りは御前を進む。
11 主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、
小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。
(イザヤ書 40章1〜11節)
8愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。9ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。10主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。11このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。12神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。13しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。14だから、愛する人たち、このことを待ち望みながら、きずや汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい。15また、わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい。それは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、神から授かった知恵に基づいて、あなたがたに書き送ったことでもあります。16彼は、どの手紙の中でもこのことについて述べています。その手紙には難しく理解しにくい個所があって、無学な人や心の定まらない人は、それを聖書のほかの部分と同様に曲解し、自分の滅びを招いています。17それで、愛する人たち、あなたがたはこのことをあらかじめ知っているのですから、不道徳な者たちに唆されて、堅固な足場を失わないように注意しなさい。18わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい。このイエス・キリストに、今も、また永遠に栄光がありますように、アーメン。 (ペトロの手紙二 3章8〜18節)
クリスマスの羊飼い
今年も、附属幼稚園のクリスマス礼拝を、昨夕、この礼拝堂で行いました。園児たちとその家族が集まって、この礼拝堂があふれるほどになりました。静かに御言葉を聴く礼拝から始まって、園児全員で演じる聖誕劇、キャンドルサービス、クリスマスの歌と、あっという間の二時間でした。子どもたちも保護者の皆さんも、準備をして迎えたクリスマス礼拝でしたが、何よりも、教職員方が寸暇を惜しんで計画し、準備してきてくださったからこその二時間の祝いのときでした。
その祝いの中で、クリスマスの物語を思い起こしながら、私は、失礼ながら、おかしな想像をしていました。礼拝堂一杯に、羊たちがいるのです。たくさんの小羊たちとおとなの羊たち、そして老いた羊も少し。その羊の群れが、羊飼いたちに導かれて、クリスマスの物語の中を進んでいく。一匹の小羊が迷いでないように、おとなの羊たちが別のところに進んでいかないように、羊飼いたちが、休む間もなく、群れ全体に目を配り、導いている。羊飼いたちは、もちろん、自分たちがどこに羊の群れを導こうとしているのか知っています。クリスマスの出来事の中へ、御子キリストのもとへ、羊飼いたちは、羊の群れ全体を導いていく。
クリスマスの祝いの二時間を過ごしながら、あらためて、それは大変な苦労だと思いました。教会では、牧師が「羊飼い」を称している立場ですけれども、「羊飼い」になるのは、決して牧師だけではないと、あらためて思いました。神が、「この人を」とお考えになられれば、その人は、クリスマスの出来事へと羊を導く「羊飼い」として用いられるのでしょう。きっと、その人のもとには、あのクリスマスの天使が神のもとから遣わされているのです。クリスマスの天使たちが告げる言葉を聴いて、天使たちの讃美の歌を聴いて、「さあ、行こう。主が知らせてくださったクリスマスの出来事を、見ようではないか」と呼び掛け合う。そして、託された羊たちを導いて、御子キリストのもとに向かっていく。そのような「クリスマスの羊飼い」として歩むことを、神は、わたしたちに期待してくださっているのではないでしょうか。少なくとも、ここに来て、礼拝に加わってくださっている皆さんは、神が、「クリスマスの羊飼い」として歩むことを期待されている一人ひとりです。なぜなら、わたしたちは皆、ここで、天使たちの讃美の歌を聴きました、聖歌隊によって、また皆で歌うことによって。そして、天使たちの告げる言葉も聴きました、聖書の朗読によって。
「クリスマスの羊飼い」として歩むことは、きっと、幼稚園の教職員が園児やその家族をクリスマスの祝いへと導くために大変な苦労をしてくださっているように、簡単でお気楽なことではないと思います。羊の「群れ」でなく、ただ「一匹の羊」を導くことだって、わたしたちは、いつも難しいと思います。けれども、わたしたちは、バラバラに働く孤独な「羊飼い」というわけではありません。「羊飼いたち」として互いに「さあ、行こう」と呼び掛け合い、共に羊の群れ全体を導く営みに加えられている。そういうところに、すでに招き入れられている。与えられた仲間を信じ、信頼して、共に「さあ、行こう」と一歩を踏み出す勇気を与えられるよう、祈り求めたいのです。
待ってました!
ところで、幼稚園のクリスマス、羊飼いたちが抑えきれないほど小羊たちが興奮して、大騒ぎになるときがあります。皆さん、恐らく想像がつくでしょう。二時間のプログラムの最後に、いよいよ、あの人が登場するときです。小さな年少組の子どもたちは、「あわてんぼうのサンタクロース」のうたを歌い始めても、まだピンと来ないところがあるようですが、大きな年長組の子どもたちは、歌い始める前から、先生の素振りで、そのときがいよいよ来たことを察するや否や、大変なことになります。「待ってました!」とばかりに、まだ登場しないあの人を探し始めて、立ち上がって、叫びだします。そして、会場にあの人の姿が現れたときには、子どもたちの興奮は絶頂に達します。
どうして、子どもたちは、あれほどまでもサンタクロースが来ることに大きな期待を膨らませて待つのだろうかと、不思議に思うほどです。クリスマスの祝いの主役は、やっぱりサンタクロースだったかと、少々皮肉を言いたくなるほどです。けれども、子どもたちにとっては、あのサンタクロースも、「クリスマスの天使」の一人、「クリスマスの羊飼い」の一員、であるようにも、わたしには思えるのです。
子どもたちは、サンタクロースを、心待ちにします。今か今かと、待ちに待ちます。必ず来ることを信じて、サンタクロースを待ちます。来るか来ないか分からないものを、半分は諦めた思いで待つ、というのではなくて、絶対に来ることを確信して、しかも、来たるべきサンタクロースが、必ず期待どおりのサンタクロースであることを信じて、待ち望んでいるのです。
わたしたちは、普段の日常生活の中で、そのような待つ経験をすることがあるだろうかと思います。自分に善いものをもたらしてくれる存在が来る、ということを信じて、期待する。待ち望む思いを大きく膨らませて過ごす。そういうことが、わたしたちの生活の中に、あるでしょうか。
今日の御言葉、ペトロの手紙二の中には、何度も、「来たるべきものを待ち望む」ということが出てきていました。
神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。
ここに出てくる「神の日」というのを、「終末の日」とだけ限定して考える必要はないでしょう。わたしたちが今日、この御言葉を御子キリストのご降誕を待ち望む御言葉として聴いているように、ここで「待ち望む」と言っているのは、わたしたち一人ひとりを生かしてくださる神の、事実、わたしたちの中に臨んでくださって、お働きくださる日、そのようなときを、「待ち望む」ということでしょう。そのような日が来るのを早めるようにすべきですというのです。「早く来てください」、「急いで来てください」と、何よりも神のお働きを期待する、待ち望む。そのような祈りを、どれほど、しているでしょうか。
子どもたちは、サンタクロースによって、「心から待ち望む」喜びというものを、経験しているのだと思います。そして、そのような心の経験は、きっと、主を待ち望み、神に期待する信仰の心を育てるための備えになっていくのだと思うのです。「待ってました!」と歓喜の叫びをあげながらサンタクロースを迎えている子どもたちが、いずれ、必ず、「主よ、お待ちしていました!」と大きな声で証しして語りうる信仰へと導かれていくでしょう。
そのときに、わたしたちは皆、「主よ、お待ちしていました!」と御子を歓迎することのできる信仰を導かれていたいのです。「父なる神よ、御子によって、わたしたちのただ中で大いにお働きください」と、本当に期待する者とされたいのです。
待っていてくださる方のところへ!
最後に、幼稚園の子どもたちの名誉のために、一つ付け加えて報告しましょう。子どもたちは、クリスマスの祝いの中で、サンタクロースだけを目当てにしていたわけではありません。ページェントを演じる前の、最初の小さな礼拝で、短いメッセージをいたしました。そのときの子どもたちの目に驚きました。真剣で、輝いていて、心の奥まで透き通って見えるような、ある意味で畏れを感じさせるような目をしていました。牧師が素晴らしいメッセージをしていたから、ではありません。すぐ後に続いて行われるページェントに備えて、子どもたちは、一人ひとり、彼らなりに真剣に備えて、待っていたのです。ただ、出番の時間を待っているというのではなく、「そのとき」を迎えるために、今まで準備してきたことを、心に刻み直していたのでしょう。「そのとき」にしっかり立てるように祈っていたのでしょう。そのような、真剣な「今」を、子どもたちの目の輝きは、表しているのだと、わたしは、そのとき、とっさに確信いたしました。
子どもたちは、きっと、家族、お父さんお母さんが見てくれると思うからこそ、一所懸命に準備をしてきたし、「そのとき」を真剣な心で待っていたのでしょう。けれども、そのときに、「待つ」ことを経験していたのは、子どもたちだけではなかったようです。子どもたちの成長を待ち望み、ときに回り道をする子どもたちを待ち続ける。そのことを否応なしに経験させられているお父さんお母さん方、そして、幼稚園の先生方。大人たちもまた、子どもたちが真剣に「待つ」ときを過ごしていたそのときに、「待つ」ことを経験し、「待つ」ことの喜びを教えられていたのではないかと、わたしは思うのです。
ペトロは、神も「待つ」ときをお過ごしでいらっしゃると、語っています。
主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。…一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。
アドヴェント。御子がお出でくださるのを待つときです。忍耐してわたしたちのことを待っていてくださる神、天の父の、その御前に立つときを迎えます。そのときに備えて歩みます。祈りと賛美のうちに待つことができますように。
祈り
主よ。おいでください。あなたの忍耐を知る者とならせてください。すべての人が主のおいでくださることを待つ者とならせていただけますように。アーメン
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