待降節第4主日礼拝説教
「あなたが小さな者であっても」 日本基督教団藤沢教会 2009年12月20日
1 ハンナは祈って言った。
「主にあってわたしの心は喜び、主にあってわたしは角を高く上げる。
わたしは敵に対して口を大きく開き、御救いを喜び祝う。
2 聖なる方は主のみ。あなたと並ぶ者はだれもいない。岩と頼むのはわたしたちの神のみ。
3 驕り高ぶるな、高ぶって語るな。思い上がった言葉を口にしてはならない。
主は何事も知っておられる神、人の行いが正されずに済むであろうか。
4 勇士の弓は折られるが、よろめく者は力を帯びる。
5 食べ飽きている者はパンのために雇われ、飢えている者は再び飢えることがない。
子のない女は七人の子を産み、多くの子をもつ女は衰える。
6 主は命を絶ち、また命を与え、陰府に下し、また引き上げてくださる。
7 主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高めてくださる。
8 弱い者を塵の中から立ち上がらせ、貧しい者を芥の中から高く上げ、
高貴な者と共に座に着かせ、栄光の座を嗣業としてお与えになる。
大地のもろもろの柱は主のもの、主は世界をそれらの上に据えられた。
9 主の慈しみに生きる者の足を主は守り、主に逆らう者を闇の沈黙に落とされる。
人は力によって勝つのではない。
10 主は逆らう者を打ち砕き、天から彼らに雷鳴をとどろかされる。
主は地の果てまで裁きを及ぼし、王に力を与え、油注がれた者の角を高く上げられる。」 (サムエル記上 2章1〜10節)
39そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。40そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。41マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、42声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。43わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。44あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。45主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
46そこで、マリアは言った。
47「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
48 身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです。
今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう、
49 力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。
その御名は尊く、
50 その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。
51 主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、
52 権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、
53 飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。
54 その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、
55 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
56 マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。 (ルカによる福音書 1章39〜56節)
喜びの集いへ
アドヴェントのロウソク4本に火が灯りました。待降節最後の主日の今日から、わたしたちは、クリスマスの祝いの一週をすごしましょう。細かいことを言えば、今日はまだ、クリスマス前です。アドヴェント(待降節)の、御子のご降誕を待ち望み、備えるための歩みを、まだ終えていません。けれども、今日、わたしたちは、クリスマス礼拝をささげます。もう、クリスマスの天使たちが、わたしたちのところに来て、よい知らせを告げてくれているからです。
アドヴェントの4本目のロウソクは、「天使のロウソク」です。クリスマスの天使たちは、クリスマスの日に突然現れるのではありません。アドヴェントのうちに、すでに神のもとから遣わされていて、わたしたちにクリスマスのよき知らせを告げてくれるのです。
考えてみれば、聖書のクリスマス物語でも、天使は、アドヴェントの初めから登場するのです。主イエスの母マリアのもとにはもちろん、マリアの夫ヨセフのもとにも、マリアの親戚のザカリア・エリサベト夫妻のもとにも、天使たちが現れて、もうじき起こるクリスマスのよき出来事を、告げていきました。そうとなれば、この登場人物たちも、御子が生まれるときまで、ただ、禁欲的に喜びを抑えて過ごすというわけにはいきません。今日の福音書の物語で、御子の母マリアは、エリサベトのもとを訪ねて、二人して来たるべき出来事を確かめ、幸いを分かち合いました。クリスマスの前祝いです。いいえ、前祝いではなく、もう、すでにクリスマスの出来事の事実が始まっていることを信じて、クリスマスを喜び祝っている、と言ってもよいのでしょう。
マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
これは、世界で最初のクリスマスの祝いの礼拝の様子。そう言ってもよいのではないでしょうか。まだ、御子はお生まれになられていなくても、マリアによってクリスマスの出来事は、早くもエリサベトのもとに届けられたのです。エリサベトは、マリアと二人で、いや、それぞれの胎の子を含めると四人で、この、世界で最初のクリスマスの祝いの礼拝をささげました。
今日は、クリスマスの祝いの礼拝。この日こそはと、大勢の皆さんが心がけておいでくださっています。クリスマスの天使たちが、皆さんを、ここにお連れくださいました。大勢でクリスマスの祝いを共にすることができました。なんと幸せなことかと思います。大勢で集まって、祝いの礼拝を献げられるのです。でも、エリサベトの礼拝の出来事を見るとき、小さなクリスマスの祝いの集いも、どんなにか貴いことかと思います。
御子を宿して訪ねる
世界で最初のクリスマスの祝いの礼拝は、小さな祝いの集いでした。その祝いの集いをもたらしたのは、主イエスの母マリアです。
まだ、我が子イエスの誕生する前の、それどころか、ただ御子を身ごもったことを天使から告げられたばかりの、年若いマリア。マリアが知っていることは、ただ、神の子と呼ばれるようになる男の子を自分が宿している、ということだけでした。それも、マリアは、まだ実感のないことだったかも知れません。ただ、天使がはっきりと、神のご計画を告げるので、マリアは、それが自分の身に起こっていることなのだと信じて受けとめ始めた、というところでした。しかし、そのような、まだ御子のことを十分よく分かっているとは言えないようなマリアが、どうして、世界で最初のクリスマスの礼拝をもたらすことができたのでしょうか。
今日の礼拝では、この後、三人の方の洗礼式を執り行います。新しいキリスト者が三人、今日、この礼拝の中で、誕生するのです。もちろん、すでに、それぞれによく準備をして、今日の日を迎えてくださっています。一年近くの準備を重ねてくださった方、数ヶ月の間で準備をしてくださった方、それぞれです。それぞれに、神のお定めくださった準備のときを過ごしてきて、今日、新しいキリスト者の命のうちに生まれます。教会の皆さんは、この日を待っていてくださいましたでしょうか。無事にこの日を迎えられるように、無事にキリスト者として新しく生まれることができるように。そう祈りながら、この日を待ちわびてくださっていたでしょうか。もちろん、今日までだれが洗礼を受けるかも知らなかった、とおっしゃられる方もあるでしょう。でも、今日、どんなキリスト者が生まれるのか、皆さんは全員、確かめていただけます。わたしたちの教団の新しい「式文」には、「洗礼式は主日礼拝の中で行うように」という指示がありますが、要するにキリスト者が生まれるときは、家族全員で「立ち会い出産」をしなさい、ということです。よく、この出来事を、皆さんの胸に刻んでいただきたい、ということです。それほどに、この洗礼の出来事、新しいキリスト者誕生の出来事は、わたしたち教会にとって重大な出来事だ、ということです。
洗礼を受ける人は、そのとき、キリスト者としては、ようやく生まれたばかりの乳飲み子です。ヨチヨチ歩きのキリスト者を、どうぞよろしく、お手柔らかにと、わたしは、しつこいくらいに申し上げるでしょう。はじめから一人前のキリスト者など、有り得ません。洗礼を受けたときが、キリスト者としてはゼロ歳。今日から、キリスト者としての成長が始まり、神のお定めになる時計にしたがって、それぞれに成熟していくのです。
ただ、今日は、もう一つ別のことを申し上げたいのです。洗礼を受ける人は、キリスト者として生まれてくる赤ん坊であるだけでなく、御子キリストを宿し、生まれさせ、向き合って歩んでいくことになる、母マリアの一人でもある、ということです。そのようなマリアの一人として、まだ、自分の身に起こっていることを十分に消化しきれない中で、訪ねていく先のエリサベト。その役を、だれよりも多く担わせていただくのが、わたしども牧師職にある者かもしれません。
神の御前に小さな者であるからこそ…
「洗礼を受けたいです」。未受洗の方には、そのようにお申し出いただきたいと、週報に毎週のように記しています。そのタイミングは、人それぞれでしょうから、わたしが何か申し上げることではないのです。確かなことは、そのような決心を口にすることができるということは、その人の中で、それ以前と何かが変わり始めたと言うことです。自覚があるかどうかはともかく、確実に、何かが変わり始めたときに、洗礼を受けたいという願いを申し出てこられる。そうすることができる。だから、その変化を、まだ洗礼を受けていらっしゃらない方には、前向きに受けとめていただきたい。そして、周囲の未受洗の方の、そういう変化を、信者の皆さんも敏感に感じ取っていただきたいのです。
そのとき、エリサベトのように語ることができれば、どんなにか幸いなことでしょうか。「あなたの中にイエス様がいらっしゃるので、わたしの心が躍っている」。一人の人の中に生きて働いてくださっている御子キリストを見出して、証しする。それは、クリスマスに向かうマリアにとって、大きな励ましであったでしょう。自分の中に宿している御子キリストを受け入れていく、生まれ出るときのために備えていく、そのような方向を与えるものになったでありましょう。
今日の福音書の御言葉の後半、「マリアの賛歌」を、讃美歌でも歌いました。マリアという一人の人の信仰を歌った歌です。今日、洗礼を受けてキリスト者として新しく生まれる皆さんに、この「マリアの賛歌」を心に刻んでいただきたいと願っています。他教会から転入会されて、新たな思いで信仰生活を歩み始められる皆さんにも、心に刻んでいただきたいと願っています。このクリスマス礼拝に集われている全ての方に、これを心に刻んでいただきたいと願っています。
キリスト者として生きるとは、どのようなものか。キリストを内に宿し、生活のただ中にキリストにお生まれいただき、キリストと切っても切れないところで、キリストと共に歩んでいくとは、どういうことか。本当にキリストにお生まれいただくために、内に宿ってくださるキリストに生活のただ中でお生まれいただくために、わたしたちは、マリアの信仰に倣うよう、教えられています。
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう。力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。…」
内に宿ってくださる御子を受け入れましょう。御子がお生まれくださることを待ち望みましょう。そして、神がお働きくださる世界にこそわたしたちの身を本当に置くことができるように、自分の力を捨てて生きることを、お生まれくださる御子に祈り願いましょう。
祈り
主よ。御子を宿してくださり、ご降誕を待つようにしてくださいます。本当に御子がお生まれくださる生活を受け入れ、歩む者とならせてください。アーメン
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