印刷用PDFA4版2頁

降誕節第1主日礼拝説教
    「たどりつく日」

日本基督教団藤沢教会 2009年12月27日

7 イスラエルを贖う聖なる神、主は 人に侮られ、国々に忌むべき者とされ 支配者らの僕とされた者に向かって、言われる。王たちは見て立ち上がり、君侯はひれ伏す。真実にいますイスラエルの聖なる神、主が あなたを選ばれたのを見て。8 主はこう言われる。わたしは恵みの時にあなたに答え 救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを形づくり、あなたを立てて 民の契約とし、国を再興して 荒廃した嗣業の地を継がせる。9 捕らわれ人には、出でよと 闇に住む者には身を現せ、と命じる。 彼らは家畜を飼いつつ道を行き 荒れ地はすべて牧草地となる。10 彼らは飢えることなく、渇くこともない。太陽も熱風も彼らを打つことはない。憐れみ深い方が彼らを導き 湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。11 わたしはすべての山に道をひらき 広い道を高く通す。12 見よ、遠くから来る 見よ、人々が北から、西から また、シニムの地から来る。13 天よ、喜び歌え、地よ、喜び躍れ。山々よ、歓声をあげよ。主は御自分の民を慰め その貧しい人々を憐れんでくださった。            (イザヤ書 49章7〜13節)



1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。6 『ユダの地、ベツレヘムよ、 お前はユダの指導者たちの中で 決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、 わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
            (マタイによる福音書 2章1〜12節)


 2009年の最後の主の日を迎えました。クリスマスの主をお迎えしての降誕節の歩みが始まります。待降節、アドヴェントクランツに火を灯しながら、クリスマスを待ち望んでまいりました私たちですが、先週一週間のクリスマスの祝いには、4本のろうそくすべてに火を灯して、御子イエスさまが私たちのもとにきてくださったことを喜び祝いました。そして新しい主日を迎えましたが、本日もまた、ろうそくを飾りながらの礼拝です。片付けを忘れてしまったわけではありません。火が灯されているこのろうそくを見つめながら、私たちは、クリスマスの光が、希望、平和、喜び、愛、4つの焔が、私たち一人一人の心の内に灯され続けることを確かめたいと思います。本日は、午後に高校生会のクリスマスの祝いもございます。「降誕日」から「公現日(エピファニー)」までの期間は、「クリスマスの12日」と呼ばれますが、「公現日」を迎えるまで、教会はクリスマスの飾りを残したまま、クリスマスの喜びのうちに過ごします。「公現日(エピファニー)」というのは、「現れ出る」「輝き出る」という意味です。特定の人々だけでない、世界のすべての人々に、キリストが現れてくださった、という意味です。この「公現日」に(1月6日)決まって朗読される聖書の箇所が、本日朗読されました福音書の箇所です。外国人であり、異教徒である占星術の学者たちが、御子キリストのお生まれを知り、遠い国から旅して来る出来事です。


 教会の暦に基づく聖書日課は、本日、降誕節から福音書が主日課となります。福音書は、聖書の中で最も好んで読まれている部分と言ってもよいかもしれません。主イエスさまのお姿を思い描き、息使いを感じることのできる物語です。主イエスさまを巡礼するような思いで聞き、主の物語に生きる歩みを導かれたいと願っています。私たちの日本基督教団の聖書日課は、4年サイクルです。1年毎に、4つある福音書、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネを順繰りに聞いて行くことになりますが、降誕節第1主日には、どの年も、マタイ福音書2章のこの箇所、占星術の学者たちが、主イエスさまを礼拝した物語を聞きます。降誕節第1主日は、年の末でもあります。これから大晦日の晩(契約更新礼拝)と元旦の朝には礼拝がありますが、私たちが年の瀬を越えて行く年末年始の歩みを貫いて、クリスマスの喜びがすべての人々に向かっていることを確かめつつ、物語を聞きましょう。


 東の方の国から占星術の学者たちがやって来たのは、ヘロデ王の時代でした。学者たちは、黄金、乳香、没薬という非常に高価な宝物を持参していました。ヘロデ王に直接会見できるほどの人たちですから、おそらく、知者の中の知者として、位の高い身分にあったのではないかと想像することができます。野原で、野宿をしながらクリスマスの知らせを聞いた羊飼いたち(ルカ2章)とは、まるで対照的です。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(マタイ2:2)とあります。旧約聖書の預言も知らない異教の人たちが、「星を見た」という、大変興味深い出来事です。全くの「外」の人と言える異邦人の学者たちにとって、なぜその星が「ユダヤ人の王」の誕生のしるしと判断されたのか、詳しくは触れられていません。しかし、興味本位で、珍しい星だからといって観測していたら、いつの間にかエルサレムに迷い込んでいたということではありません。本気の贈り物を持参して、「拝みに来た」のです。学者たちが東方で目にした星とは、いったいどういうものだったのでしょうか。


 16世紀の天文学者、ケプラーは、学者たちの見た星を、木星と土星の会合現象として説明しました。そして、それが起こったのは、紀元前7~6年ではないか。御子キリストがお生まれになった正確な年代を割り出そうとする様々な仮説の中でも、この星の現象は、注目を集めてきました。けれども、この星は、学者たちを一気にベツレヘムへと向かわせたりはしませんでした。星は、学者たちに付きっきりではなかったのです。最初に東方で現れた後、暗闇に消えてしまいました。しかし、学者たちは一度目にしたそれを、確かなしるしとして旅に出ます。それが<どこ>で起こるのか、まだはっきりとは分からないけれども、しかし確かに起こる、そう信じて出かけて行きます。


 一方、その学者たちを迎えた人々はどうだったでしょうか。ヘロデ王は、それを聞いてすぐに民の祭司長たちや律法学者たちを集めました。ユダヤ人の彼らは、旧約聖書の預言を持っていたからです。聖書の専門家たちは、ユダヤのベツレヘムがその場所であることを知っていました。「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしたちの民イスラエルの牧者となるからである」(マタイ2:5)。紀元前8世紀の預言者、ミカ(5:1)の言葉です。主イエスさまがお生まれになる何百年も昔に、預言者がこのように語った言葉を、ユダヤの人々は待ち望み続けていました。


 福音書記者のマタイは、御子キリストがお生まれになったクリスマスの出来事が、旧約聖書の預言の成就だったことを伝えています。あの預言がついに実現された、何度強調してもしすぎることはないほどの大事件でした。しかし聖書は、この出来事が、ひたすら預言の成就であったとだけ伝えているかと言うと、そうでもありません。なぜなら、<いつ>そのことが起こるのか、ということについて、預言者は特定の日を告げていないからです。預言書は、<どこで>そのことが起こるのか、ベツレヘムという一つの町を示しました。しかし、そのようにして場所を特定したヘロデは、今度はまた、東方の学者たちを集めて「時期」を確かめたとあります。驚くことに、<いつ>という時を知らされていたのは、異邦人の方でした。当時の知恵の最高峰とも言える外国の天文学者たち。必然的に異教徒でもある彼らが、しるしを与えられ、人々を預言の御言葉へと向かわせました。外からやって来た星のしるしが、それがその時を教えなければ、ユダヤの人々は、普段通りに聖書を開き、いつもと同じように御言葉を聞き続けたに違いありません。


 先の水曜日(23日)に、教会学校のクリスマスと並行して、有志の方々で定例の聖書研究祈祷会の時を守ってくださいましたが、祈祷会でも、本日の福音書の箇所を読んでいただきました。私は、教会学校のクリスマスの方に出席しましたので、祈祷会には出席できませんでしたが、会の報告としてレジュメをいただきました。ご出席の皆さんが、どのように御言葉を黙想してくださったかは、想像するしかありませんが、そのレジュメを見ていましたら、次のような解説書の言葉がありました。「神の御子出生の出来事に星(自然)も動かざるを得なかった」(『新約聖書略解』教団出版局)。これは解説書の著書の信仰を言い表した言葉ですが、なるほど、外国の学者たちだけでない、学者たちがしるしとした星そのものが、神の一つの出来事のために現わされたものなのです。神が現わされたこの星のしるしと預言の御言葉が、世界を巻き込んで、このクリスマスの出来事を準備しました。


 クリスマス、御子イエスさまがお生まれくださった喜びの中で、多くの教会で、新しいクリスチャンが誕生した知らせを聞いております。私たちの教会でも3名の方の洗礼を祝いました。転入会を決意してくださった方々も加え、新しい家族を迎えて祝うクリスマスは特別です。私たちの教会では、洗礼を受けた人を教会員と呼びます。教会員名簿に名前が記されます。私たちは、神が記してくださったその名前を、生涯家族としておぼえ続けるのです。そうか、教会も会員制なのか、と思われる方があるかもしれませんが、このことで疎外感を感じていらっしゃる方があるとすれば、それは誤解があると思います。教会はいつも同じメンバーで礼拝しているわけではありません。教会員でも、様々な事情で別の場所でこの時間を迎えざるを得ない方々もたくさんありますし、他の教会のメンバーでいらっしゃっても、日曜日がやって来たなら、同じ主を礼拝するこの教会に足を踏み入れてくださいます。生まれながらにクリスチャンの人はありません。けれども、生まれたての赤ん坊も、小さい子どもも、あるいは何年も何十年もキリストを知らずに生きてきたという人にも、自分は教会の「外」にいると感じている人にも、等しく神さまの招きがあるのです。それどころか、教会の「中」にいると感じている私たちの方が、「外」から新しくやって来られる人たちによって、思いがけない恵みに出会うということが、しばしばあります。今まで目にも留めなかったようなことに気づかされるということが少なくありません。クリスマスは、私たちの教会にとって、一年の中でも、最もたくさんの方々と出会う季節です。多くの方をお迎えしてご一緒にクリスマスを祝います。クリスマスは、最初に申しましたように、宗教や民族を超えた、世界のすべての人々のためのよい知らせだったと言うことができましょう。しかし、それだけではありません。東方の学者たち、いわば「外」からの訪問者が現れなければ、ユダヤの人々、約束の民と言われた聖書の「只中」にある人々も、このよい知らせを知り得なかったのです。「外」からの訪問者によって、よい知らせがもたらされた!私たちも、そのような経験をしばしばいたします。教会のいつもの交わりにどっぷりと浸かってしまっていますと、時に、神さまが行われる驚くべき御業に対して盲目的になってしまう、そういう私たちなのです。けれども神さまは、恵みに鈍くなったそういう私たちの石の心を、生き生きとした肉の心へと変えてくださいます。


 今日、教会に初めて来てくださったという方が、皆さんの隣に座られたら、そのことは起こるのではないでしょうか。初対面の人を迎える時、私たちは、何を話したらよいのか戸惑うのではなかと思います。この緊張はいつも新鮮なもので、私たちの心を柔らかく、親切にします。知っている人たちだから、不親切でよいということではないのですが、しかし、この人を神さまが新しく招いてくださったという、大きな驚きをもって迎えたいと思うのです。私たちは、ただ、人に対して親切になるようにと勧められているわけではありません。その人との出会いを通して、私たちにすでに与えられているものに気づくようにと勧められているのです。ユダヤの人々は、預言が与えられていましたが、東方の学者たちとの出会いがなければ、それが<いつ>起こるのか、分かりませんでした。私たちもまた、与えられたものを曖昧にしてしまうような感覚を持ってはいないでしょうか。自分が何者であるのかさえ、忘れてしまうような、そういう日々の忙しさの中で、雑然とした生活の中で、しかし、神さまは絶えず、御言葉を送ってくださり、しるしと出会わせてくださいます。「ああそうだった、私は神さまのものだ」と、繰り返し、立ち帰るべきこの事実に向かわせてくださいます。


 本日のイザヤ書を通して、神は、このように告げていらっしゃいます。「わたしは恵みの時にあなたに答え 救いの日にあなたを助けた」(イザヤ49:8)。神は、このことを曖昧にはなさいません。東方の学者たちが最初に見た星は、再び現れ出て、学者たちの旅をベツレヘムの御子キリストがお生まれになったその場所まで導きました。導きは、私たちがたどり着くまで必ず続きます。私たちが、見失ったり忘れてしまったりしていても、神は、その導きをお止めになりません。「今や恵みの時、今こそ救いの日」(Uコリ6:2)この告白を私たちの口に新しく授ける日まで導いてくださるのです。過ぎた一年間、よいもので満たしてくださった神に感謝し、新しい年への導きを共に祈り願いましょう。