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主日礼拝説教
  「ようこそ、神の民の広場へ!」

日本基督教団藤沢教会 2010年1月3日

1 万軍の主の言葉が臨んだ。
2 「万軍の主はこう言われる。
わたしはシオンに激しい熱情を注ぐ。
激しい憤りをもって熱情を注ぐ。
3 主はこう言われる。
わたしは再びシオンに来て、エルサレムの真ん中に住まう。
エルサレムは信頼に値する都と呼ばれ、
万軍の主の山は聖なる山と呼ばれる。
4 万軍の主はこう言われる。
エルサレムの広場には、再び、老爺、老婆が座すようになる、
それぞれ、長寿のゆえに杖を手にして。
5 都の広場はわらべとおとめに溢れ、彼らは広場で笑いさざめく。
6 万軍の主はこう言われる。
そのときになって、この民の残りの者が見て驚くことを
わたしも見て驚くであろうかと、
万軍の主は言われる。
7 万軍の主はこう言われる。
見よ、日が昇る国からも、日の沈む国からも、わたしはわが民を救い出し
8 彼らを連れて来て、エルサレムに住まわせる。
こうして、彼らはわたしの民となり、
わたしは真実と正義に基づいて、彼らの神となる。
                (ゼカリヤ書 8章1〜8節)



41さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。42イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。43祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。44イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、45見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。46三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。47聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。48両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」49すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」50しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。51それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。52イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。
            (ルカによる福音書 2章41〜52節)


置き去りにしないで!
 教会は、クリスマスの祝いの余韻のうちに、新年を迎えました。教会の暦では、1月6日の「公現日」までがクリスマス・シーズンです。アドヴェントのロウソクに導かれて、祈りのうちに迎えて祝ったクリスマスの祝福を、このときに、しっかりと心に刻んでくださっているでしょうか。「クリスマスの祝いは、イブの燭火礼拝までで終わり」、ではありません。クリスマスは、新しい年の新しい歩みのために、毎年新たに与えられる、わたしたちの信仰の指針です。何と言っても、クリスマスこそ、御子イエス・キリストが、わたしたち一人ひとりのうちに宿ってくださること、わたしたちが御子の宿ってくださった者の群れとして導かれて歩む者であることの祝福を確かめるときです。「クリスマスは確かに祝ったけれども、クリスマスのことは年末の大掃除と共にどこかに片付けてしまった」、などということはないでしょうか。新年をすがすがしい思いで迎えられるのは結構ですが、クリスマスを、つまり、わたしたちの間にお迎えした御子キリストを、どこかに置き去りにしてきてしまっては困るのです。
 今日、与えられた福音書の御言葉は、御子イエスをうっかり置き去りにしてきてしまった出来事の物語、です。
 主イエスが12歳になられ、両親であるマリアとヨセフと共に、ユダヤの最も大切な祭である「過越祭」に、巡礼団に加わって参加したときのことです。一週間の祭の期間を終えて、たぶん、だれもが高揚した気分のうちに、祭の場である都エルサレムを後にしたのでしょう。巡礼団の行列に混じって、主イエスの両親も、帰途についていました。ところが、一日の行程を進んだところで、自分たちの巡礼団の行列の中に我が息子がいないことに気がついたのです。両親としても、祭の熱気にうなされて、うっかりしてしまった、というところがあったかもしれません。恐らく、真っ青になって、来た道を引き返し、捜し回ったのでしょう。そして、戻りに戻って、祭の場であるエルサレムの神殿まで辿り着いた。そこで、学者先生たちの教えを受けている我が子イエスが、平然として座っているのを、両親は見つけ出した、という出来事です。
  この物語は、ルカ福音書のクリスマス物語に続くところに語られています。クリスマスの祝いの続きの中で読まれる物語です。そう考えると、ドキッとしませんか。クリスマスの祝いの熱気の余熱を感じながら新年を迎えたときに、御子イエスをどこかに置き去りにしてきてしまっている。御子キリストのほうが私たちの予定に合わせてついてきてくれているはずだと思いこんでいて、キリストがいらっしゃるところをよく考えもせずに、自分たちの計画でどんどん先に進んでしまって、気がついたらキリスト不在の歩みになってしまっている。そんなことはないだろうかと、問われているように思えるのです。
 もしも、わたしたちの歩みの中に、教会の営みの中に、そのようなところがあるとしたら、わたしたちは、立ち止まって、大急ぎで来た道を引き返しましょう。キリストを置き去りにしてきたところまで戻って、ちゃんとこの年にキリストが行かれる道を、キリストと一緒に歩み始めるときといたしましょう。


そこは《父の家》です!
 12歳の主イエスが、両親から離れて留まっていたところは、エルサレムの神殿の境内でした。そこで学者先生たちの教えを受けているところを、両親に発見されて、母マリアには叱られました。叱られて当然だったでしょう。両親に断りなく、勝手に神殿に残って、過ごしていたのですから。でも、そのときの主イエスのお答えになった言葉は、母マリアの耳に、ずっと残ったようです。
 「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」(49節)
 「自分の父の家」と言っているのは、直接には神殿のことを指しているのでしょう。そういう言い方をなさったのは、12歳の少年イエスに、すでに「神の子」としての自覚がおありだったからなのか、あるいは別の理由があったのか、良く分かりません。けれども、そのとき、主イエスが、「自分の父の家にいるのは当たり前」と言われるほど満たされたときを過ごしていた、ということは言ってもよいかもしれません。学者先生たちからの教えを受けることを喜び、聖書の御言葉に深く触れることを喜び、そして、そのことが日夜営まれる場にいることを喜ばれていた。主イエスが過ごされたその神殿は、もう、その時代には、いろいろな意味で堕落していて、問題の多い神殿であったかも知れません。それでも、主イエスは、そこにいて過ごすことの喜びを得られていた。神の恵みの注がれていることを信じて、喜ばれた。それで、主イエスは、そこを「自分の父の家」と呼ばれたのです。
  わたしたちは、たとえ教会であっても、「ここが父なる神の家だ」と自分たちで自信をもって言えるわけではありません。でも、この主イエスが共にいてくださり、主が「ここはわたしの父の家」とおっしゃってくださるのであれば、それを信じて、ここで過ごす喜びを大いに満喫してもよいのではないでしょうか。
 クリスマスの礼拝の中で、わたしたちの教会では何人かの人が洗礼を受けました。素直に「イエスさまを信じて従います」と信仰を言い表して、信者としてわたしたちの教会に加わることを願われました。わたしたちは、そこにキリストが確かにおいでくださっていたことを、確かめたと思います。そして、わたしたちの教会に神が確かに御手を伸ばしてお働きくださっていること、ここが確かに神の家として導かれていることを、見させていただいたのではないでしょうか。
  受洗者の中に12歳の小学生がいました。彼女は、洗礼を受けたクリスマス礼拝の日、結局、午後の愛餐会の後も、イブ燭火礼拝のリハーサルに出て、夕礼拝に出て、最後の夕べの小祝会にも最後まで出ていきました。一日、教会に入り浸りです。まるで、12歳の少年イエスが神殿に入り浸っていたように、彼女も、一日、教会に入り浸りました。もちろん、彼女の場合は、ちゃんとご両親に連絡をしてのことです。受洗によってキリストをもっとも近くにおぼえたその日、彼女は、教会にいること自体を喜びとする一日、「御父の家にいる」喜びを心に刻む一日を過ごしたのです。


《父の家》の広場となろう!
 わたしたちは、主イエスをどこかに置き去りにしないよう、心いたしましょう。立ち止まり、立ち戻りつつ、主イエス・キリストのおいでになられるところに、自分の歩み、自分たちの営み、の照準を合わせていくことを、学んでいきたいのです。そして、主イエスが、わたしたちの歩むところを、教会を、《御父の家》として整えてくださることを、本当に信じて、従っていこうではありませんか。
  新年最初の主日礼拝ですから、わたしたちは、終わりに、主から与えられる幻を一つ、胸に刻みたいと思います。今日の旧約の御言葉、預言者ゼカリヤを通して告げられている主の御言葉です。
 3節に、主が来られて、エルサレムの真ん中に住まわれて、信頼に値する都と呼ばれるようになる、と言われています。クリスマスの御子キリストが、おいでくださったのです。わたしたちの、片隅ではなくて、ど真ん中に、おいでいただきましょう。「信頼に値する教会」と呼ばれるようにしていただくのです。
 4〜5節には、信頼に値する都エルサレムの、何とも牧歌的な「広場」の情景が、幻として語られています。
 エルサレムの広場には、再び、老爺、老婆が座すようになる、
 それぞれ、長寿のゆえに杖を手にして。
 都の広場はわらべとおとめに溢れ、彼らは広場で笑いさざめく。
 この「広場」は、主イエスがエルサレムの神殿で過ごされていた、あの「わたしの父の家」とつながってくるところなのではないでしょうか。主イエスがおいでくださるところに実現する「父の家」には、「広場」があって、その「広場」は、弱さの中にある人々、老爺、老婆、わらべとおとめのための居場所なのです。
 6〜8節には、このエルサレムに、世界中の人々が集まってくる様子が語られています。御子がおいでくださったクリスマスの祝いは、キリスト教世界を越えて、世界中でおぼえられています。この事実を考えるだけでも、神がすでに、この幻にあるような世界計画を進めていらっしゃることを、信じないわけにはいきません。「日が昇る国」から、「日の沈む国」まで、世界中で、クリスマスが祝われました。しかし、その遠い国のことではなく、わたしたちの教会の営みの中で託されている範囲の人々を、すぐ近くの隣人たちを、わたしたちは、キリストのもとへとお招きしたいと願います。いつも御子キリストに中心にお立ちいただき、人々をお招きできる「御父の家」としていただき、人々が憩う「広場」を設けておく。そのような教会の幻を、この預言者は、わたしたちに告げているようです。
 クリスマスからの歩みを始めました。主が恵みのうちに備えてくださっている道筋を進み行きましょう。御子によって知恵を増し加えていただき、成長させていただき、神と人とに愛される一人ひとり、また教会の群れとされますように。


祈り  
主よ。私どもの中心にもう一度おいでください。ここに御父の家をお建てください。ここにあなたの民の広場を設け、多くの人々を憩わせてください。アーメン