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主日礼拝説教
  「水の中へ!」

日本基督教団藤沢教会 2010年1月10日

15 主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。16杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。17しかし、わたしはエジプト人の心をかたくなにするから、彼らはお前たちの後を追って来る。そのとき、わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。18わたしがファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」 19イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、20エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった。21モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。22イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。       (出エジプト記 14章15〜22節)



6この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。そして、“霊”はこのことを証しする方です。“霊”は真理だからです。7証しするのは三者で、8“霊”と水と血です。この三者は一致しています。9わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさっています。神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです。    (ヨハネの手紙一 5章6〜9節)



9そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。10水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。11すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
           (マルコによる福音書 1章9〜11節)



主イエスの洗礼、わたしたちの洗礼
 今日の福音書が物語るのは、主イエスが洗礼を受けられた出来事です。今日は、週報のどこにも記していませんが、伝統的に《主の洗礼の主日》と呼ばれて大切にされてきた日です。この主日になると、毎年お話しすることですが、何度でも申し上げます。主イエスが洗礼を受けられた出来事を聴き直して、そのたびに、わたしたちは皆、自分の洗礼を思い起こしましょう。

 三週間前のクリスマス礼拝に洗礼を受けられた方には、まだ、洗礼式の余韻が残っているかも知れません。あるいは昨年のイースターやペンテコステに洗礼を受けられた方にとっても、まだ記憶に新しいことでしょう。けれども、経験的に言えば、洗礼式が終わってしまったときから、何か目標を失ってしまったような虚しさも襲ってきているのではないでしょうか。だから、ちょうど、そんなときに、主イエスの洗礼の出来事に導かれて、もう一度、ご自分の洗礼の出来事を思い起こしていただきたいのです。洗礼の出来事の中で行われたことの意味、いや、そこで神が起こしてくださった恵みの事実を、思い起こしていただきたいのです。

 すでに洗礼を受けてから何年も経った皆さんにとっても、今日は、ご自分の洗礼の出来事を、あらためて想い起こしていただく日です。もちろん、洗礼式に立ち会うたびに、皆さんは、ご自分の洗礼の出来事を思い起こしてくださっていることと思います。新しく洗礼を授けられる兄弟姉妹の姿を見ながら、「自分が洗礼を受けたときは、どうだったかな」と、思い起こされた。でも、そのようなときは、自分の洗礼を思い起こすことよりも、むしろ、新しく洗礼を授けられる兄弟姉妹にこそ、思いを寄せられていたことでしょう。新しいキリスト者の誕生のときですし、その生まれたばかりのキリスト者を迎える責任の一端を担う一人なのですから。そうでなくてはいけません。そうであればこそ、今日は、わたしたちの中の一人ではない、主イエス・キリストの洗礼の出来事を聴き直すことを通して、わたしたちは皆、だれよりも自分の洗礼のことを、思い起こさせていただくことにしたいと思うのです。そのことを許されているでしょうし、何よりも、そのためにこそ、主イエスご自身、洗礼をお受けになられ、またそのことを初代の教会は福音書に記して、繰り返し聴き直すようにしてきたのだからです。

 こんなお話しをすると、ここにおいでの、まだ洗礼を受けていらっしゃらない方は、何か置き去りにされているような思いになられるでしょうか。そうだとしたら、どうぞ、お許しください。そのようなつもりはないのです。むしろ、まだ洗礼を受けていらっしゃらない皆さんにこそ、今日の福音書の物語は聴いていただきたい。皆さんの中に、すでに、この新しい年に洗礼を受けようと決心をしてくださって、もう牧師のところに申し出てくださった方もあります。けれども、まだそのような決心に至られていらっしゃらない方、洗礼を受けることに疑問を感じていらっしゃる方、そういう方も少なくないでしょう。でも、どうして、皆さんの洗礼に至る道が塞がれているのでしょうか。皆さんの中に、何か足りないところでもあるのでしょうか。

 主イエスが洗礼を受けられた、そのとき、天が裂けて、霊が鳩のように…降って来ました。神が、塞がっていた道を天から突き破ってくださったのです。人が自力で進もうとして、どうしてもその道が塞がれていて、先に進めないでいる。だからこそ、主イエスは、塞がれていた道を神が突き破ってくださることを、その洗礼の出来事でお示しくださったのです。
 それで、わたしたちは皆、主イエスと同じ洗礼の出来事にあずからせていただきました。神が突き破ってくださった道を、主イエスにお導きいただき、進ませていただこうと、主と同じ洗礼にあずからせていただいたのです。いや、洗礼に至る道さえ、実は、自分で切り拓いた道だったのではなくて、神がすでに切り拓いてくださっている道に導かれてのことだったと思います。気が付いたら、もう、洗礼という出来事の目の前まで、導かれてきていた。あとは、その道を神に導かれてきたという事実を認めて、洗礼の出来事の中に入っていくか、それとも、そこから向きを変えて逆のほうに引き返していくか、どちらかだったのです。結局、わたしたちは皆、幸いにも、洗礼の出来事の中に入らせていただきました。

 まだ洗礼を受けていらっしゃらない皆さんも、今、まさに洗礼の出来事の目の前まで、導かれてこられているわけです。主イエスの洗礼の出来事に触れていらっしゃる。だから、ここに至るまでの皆さんの道は、実は神が突き破って拓いてくださっていた道だったのだと、その事実を、ぜひ認めていただきたい。ぜひ信じていただきたい。そして、ぜひ洗礼の決心を口にしていただきたいのです。


「あなたはわたしの愛する子」
 どうして、わたしは、こんなに一所懸命になって、洗礼のことをお話しするのでしょうか。どうして、教会は、まだ洗礼を受けていらっしゃらない方に、洗礼を受けるようにと、熱心になってお誘いするのでしょうか。

 教会という団体組織のメンバーを増やしたいからでしょうか。もちろん、教会のメンバーが増えたらよいと思います。主イエスは、「行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタ28:19)と命じられました。この地上の最後の一人が洗礼を受けるまで、洗礼へとお招きする活動を終わりにするわけにはいきません。

 けれども、教会のメンバーになっていただくということは、本当は、洗礼の《結果》なのであって、《目的》ではないと思います。わたしたちは、まだ洗礼を受けていらっしゃらない皆さんや、家族や隣人を、一所懸命に洗礼へとお招きします。それは、すべての人に「あなたは神の愛する子、神の子です」ということを知っていただきたいから、それが喜びであることを知っていただきたいからです。

 「自分は、親に愛されて育った」と語ることのできる人、「自分は、この親の子です」と誇りをもって言える人は、何と幸いなことかと思います。でも、それ以上に幸いなのは、「自分は、神に愛され生かされている」と語ることのできる人ではないでしょうか。「自分は、神の子どもです」と誇りをもって言える人ではないでしょうか。なぜなら、どんなに素晴らしい親でも、人間の親には、限界があります。でも、神は、人間の中で最高の親よりも、なおはるかに優った、「真の親」「真の父」となってくださるのです。いや、元来、神とは、そういう方でいらっしゃるのです。人間の一人ひとりを「我が子」として限度を知らずに愛し、生かし、育み、その人生をその子にふさわしく全うさせようと、あらゆる手だてを尽くしてくださっている。そういう「天の父」を、しかし、人間は、ちゃんと知らずにいたのでしょう。それを、主イエスは、ご自身の洗礼の出来事の中で、はっきりとさせてくださったのです。

 わたしたちは皆、洗礼へと導かれて、その恵みにあずかるときに、「あなたは、神の愛する子です」「あなたは、神に愛されています」という宣言を、神からいただいている。洗礼を受けることを通して、わたしたちは皆、「自分は、神に愛され、生かされているんだ」と確かめる言葉を与えられている。「自分は、神の子なんだ」という自覚を持つように、促されている、励まされているのです。


「水の中へ!」
 今日は、旧約聖書から出エジプトの物語、モーセに率いられたイスラエルの民が、エジプト軍の追っ手から逃れながら、海を渡っていく場面を、朗読で聴きました。この、海を渡っていく場面は、初代教会の時代以来、洗礼の意味を示す故事の一つとして覚えられてきました。

海が二つに割れて、その間を渡っていく、というのが、この物語の描写ですが、このとき、イスラエルの民は、海の中、水の中をくぐっていったのだと、そのように考えるのです。たしかに、海が二つに割れてという奇跡を、この物語の中の登場人物が素直に信じていたわけではなさそうです。イスラエルの民は、皆、海を前にして、立ち止まり、右往左往し、前にも後にも進めない状況を嘆き、叫んだのです。まさか、海の間を通り抜けられるなどとは、だれも考えませんでした。ところが、神が、モーセに命じられたのです。「イスラエルの人々に命じて出発させなさい、海の中へ! 水の中へ!」。そして、神が拓いてくださった海の中の道、水の中の道を通り抜けて、エジプト軍の追っ手から逃げ延びたのでした。

「海の中へ! 水の中へ!」。わたしは、泳ぎが苦手で、海や川でおぼれかけたことがありますが、そのような者にとって、深い海の中、水の中へ進み入ることは、恐ろしいことです。死を意味することです。けれども、その、ある意味で死を意味する「水の中」を通って、その先にいたる道を、神は、拓いてくださる。イスラエルの民に拓いてくださったように、キリストの洗礼の出来事の中で、わたしたち全ての者のためにも、水の中を通り抜ける道を、拓いてくださっている。それは、洗礼という儀式で終わりの道ではありません。生涯にわたって、いつも、神が新たに拓いていってくださるはずの道です。繰り返し「水の中」を通り抜けて、後からまとわりついてくる「エジプト」のようなものから逃れさせるための、過去の自分に繰り返し訣別し続けるための、キリストの道です。「神の子」として生き、「神の民」として成熟していく、そのための道です。

洗礼を受けたばかりの者がいます。洗礼を受けて何年も経っている者もいます。そして、これからいずれ洗礼を受けるであろう人もいます。そのだれもが、今日、主の洗礼の出来事の前に立たされました。その出来事の前で、神から、「さあ、この洗礼の水の中へ、進み行きなさい」と促されているのです。「洗礼の水の中へ!」。それは、一つの「死」を意味します。過去の「死」です。しかし、それは、「誕生」を意味します。「神の子」として永遠の命にいたる「誕生」です。「神の子」として繰り返し新たに生まれる。その営みを共にする群れ、教会に加えられる。それは、幸いなことです。この幸いを、本当に幸いなこととして語る言葉を得られるまで、成長させていただきましょう。神のお示しになる「水の中」へ、ただ主を信頼して進み行く群れとされるよう、祈り求めてまいりましょう。


祈り  
主よ。主の洗礼の出来事の前に立たせていただきました。導き入れてください。神の子として生きる幸いを分かち合う共なる営みをなさせてください。アーメン