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主日礼拝説教
  「目からうろこの出会い」

日本基督教団藤沢教会 2010年1月17日

4 主の言葉がわたしに臨んだ。
5 「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。
母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」
6 わたしは言った。「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。
わたしは若者にすぎませんから。」
7 しかし、主はわたしに言われた。「若者にすぎないと言ってはならない。
わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、
行って、わたしが命じることをすべて語れ。
8 彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」と主は言われた。
9 主は手を伸ばして、わたしの口に触れ
主はわたしに言われた。「見よ、わたしはあなたの口に、わたしの言葉を授ける。
10 見よ、今日、あなたに、諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。
抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために。」
                (エレミヤ書 1章4〜10節)



1さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、2ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。3ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。4サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。5「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。6起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」7同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。8サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。9サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。
10ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。11すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。12アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」13しかし、アナニアは答えた。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。14ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」15すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。16わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」17そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」18すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、19食事をして元気を取り戻した。
サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいて、20すぐあちこちの会堂で、「この人こそ神の子である」と、イエスのことを宣べ伝えた。           (使徒言行録 9章1〜20節)



14ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、15「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
16イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。17イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。18二人はすぐに網を捨てて従った。19また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、20すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。
          (マルコによる福音書 1章14〜20節)



「わたしについて来なさい」

 今日は、阪神淡路大震災が起こった日から、ちょうど15年の日。私は、自分自身の伝道者としての献身のことを、深く考えさせられながら、この礼拝の準備へと導かれてきました。そうしましたら、これもたまたまかもしれませんが、でも、私には、神の御手のご高配があったとしか思えないことには、主イエスが弟子を献身へと招かれる御言葉を、福音書から聴くことになりました。

 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」

 私の話ばかりで申し訳ないのですが、この主イエスの御言葉は、もともと、私が高校2年生で洗礼の決心を堅めたときに与えられた御言葉です。そのとき、自分から積極的に洗礼を受けたいと申し出たわけではなかったのですが、母教会の牧師が、言葉少なに「そろそろ受けたらどうですか」と声をかけてくださったので、思わず「はい、ぼくもそう思っていました」と答えてしまった。そう答えてしまってから、実は自分の心の準備がまだ全然できていないことに気づかされて、慌てて聖書を開いてみたりして、マタイだったかマルコだったか忘れましたが、福音書の初めのほうで出てきたこの主イエスの御言葉に辿り着いて、「ついて来なさい、とおっしゃられているのだから、ついて行こう」と、この漁師たちの一人になった気分で、決心をかためることになったのです。それ以来、この主イエスの御言葉が、洗礼を受けたキリスト者として歩んでいく私の原点になりました。

 ところが、私は、この主イエスの御言葉の後半については、なかなか、自分の中で消化しきれないままで、その後の学生時代を過ごしていました。「人間をとる漁師にしよう」とおっしゃられる主イエスが、それでは、この私をどのような「漁師」にしようとなさっているのか。それは、将来の職業をどうするかということでもありましたし、教会生活にどのように取り組むかということでもありました。ただ、当時の私の中ではっきりしていたのは、「絶対に牧師にだけはならない」という思いでした。教会の牧師を尊敬していましたが、その尊敬している牧師には、日頃から、「熱心に教会を支え、祈りをもって牧師を支える、しっかりした信徒になるように」と教えられていましたから、自分自身が牧師になることなど、思いもよらなかったのです。伝道者として献身するということの前には、決して越えられない高く分厚い壁があるように思っていました。

 その壁が突然崩れ始めたきっかけが、15年前の震災の出来事でした。その日突然、伝道者として献身する決心が与えられたわけではありません。その日起こったのは、蟻の一穴というか、小さなひび割れに過ぎなかった。けれども、その日始まったひび割れは、その後、瞬く間に私の中にあった高い壁を突き崩すまでに広がっていったのです。それは、主イエスの「わたしについて来なさい」という御言葉と、「人間をとる漁師にしよう」という御言葉が、私の中で一つにしっかりと結び合わされていくことだったのだと、今振り返って思い起こすのです。

 主イエスに従う者にしていただいたら、人間をとる漁師として生きることを躊躇していてはいけないと思います。それは、何も皆が伝道者になるということではありません。私の場合は、伝道者になるというところまでいかないとこれを本当に自分のものにできないだろうと、神がお考えになられたので、伝道者になるという決心に至らされたと思いますが、皆さんにはそれぞれに神が備えてくださった道、主に従う道があるはずです。その道に立つならば、どんな職業に就いていようと、どんな立場にいようと、健康であろうと、病気を得ていようと、主イエスに従って生きるということは、人間をとる漁師として生きるということ以外ではありえない。

 牧師や伝道師というのは、人間をとるための道具として「網」を与えられているようなものでしょう。でも、皆さんは、「網」でとろうと思われなくてもよい。釣り竿一本、釣り糸一筋、それだけでじっくり、目の前の人を一人、キリストのためにすなどる。キリストのもとにお連れしましょう。皆さんの中に、すでに、今年主にすなどられたお一人をご紹介くださった方があります。ぜひ、皆さんも、それぞれに、「今年のお一人」とじっくり向き合っていただきたいと思います。釣りの心得はありませんが、ぜひ釣り人の気持ちになって、じっくりと待って、糸をたぐり寄せるその「とき」を見逃さないように、祈り続けましょう。


見えるようになる
 使徒言行録の御言葉は、使徒パウロの回心の物語。パウロこそ、初代教会の最も優れた「人間をとる漁師」の一人であったでしょうけれども、今日の物語では、そのパウロがキリストのもとへとすなどられている。それは、当然といえば当然で、私たちも皆、あるときに、誰かによってキリストのもとへとすなどられて来て、主の招きの御言葉を聴いて、それに応えて洗礼を受けて、そして、それからようやく、「人間をとる漁師」として歩む道へと進んできたのです。

 パウロの回心の出来事は、とても劇的です。こんな経験をしたら、自分だって、もっと熱心な信仰生活を送れるのに、と思われる方もいらっしゃるでしょう。でも、大切なことは、その経験が劇的かどうかではなくて、神の光の中にいらっしゃる主キリストがこの「私」と出会ってくださっていると、信じることです。パウロは、主イエスが出会ってくださったということを、アナニアという一人のキリスト者の先輩に導かれて、信じるにいたりました。私たちも皆、神秘的な経験で主キリストと出会う経験をするというのではなくても、信じるようになることはできます。たとえ曖昧な経験であっても、その経験を、「あなたのもとに主イエスが現れてくださったのです」とはっきりと語ってくれる信仰の導き手がいてくれるならば、わたしたちは、確かに信じることができるでしょう。

 それが、信仰によって「見えるようになる」ということです。目からうろこのようなものが落ちて、見えなくなっていたパウロの目が、見えるようになった。主キリストを見えるようになったのです。

 ガリラヤ湖で主イエスに従っていった四人の漁師たちも、同じような経験だったのではないでしょうか。「イエス」という男のことは、すでに知っていたかも知れません。でも、それまでは、彼らの心に見えている存在ではなかった。ところが、そのとき、「わたしについて来なさい」と呼びかける主イエスが、突然、彼らの目に、見えるようになった。特別な存在として見えるようになった。はっきりとは分からなくても、無視できない存在になった。だから、すぐに従っていかないではいられなかったのです。

 このガリラヤ湖ほとりの漁師たちの出来事の中で、一人だけ、そのとき主イエスを見ていない人物がいます。ヤコブとヨハネ兄弟の父ゼベダイ。渡邊貞雄さんという版画家がこの場面を描いた版画を、私はいただいて持っていますが、この場面、シモンとアンデレは主イエスの後に従い、ヤコブとヨハネは、船の中から主イエスを見上げている。でも、ゼベダイだけは、あさっての方向を見ているように描かれています。このとき、ゼベダイだけは、主イエスが特別な存在として見えるようにならなかったのでしょう。けれども、私は、きっと、このゼベダイも、後に主キリストが見えるようになったのだと思います。そうでなければ、彼の名前が、ここに記される理由はなかったでしょう。この福音書が記されたときには、彼は、もうキリストが見えるようになっていて、キリストに従い、キリストのために「人間をとる漁師」として生きるようになっていた。見えるようになるときが早いか遅いかはあるでしょうけれども、人は皆、いつかはキリストが見えるようになるのです。キリストが、そう望んでくださっていて、ご自分から近づいてきてくださるのですから、それは確かなことです。



すぐに、まっすぐに…
 「二人はすぐに網を捨てて従った」。シモンとアンデレの行動はいさぎよいけれども、自分はちょっと真似できない、と思いがちです。でも、この「すぐに」というのは、何も時間的に間を置かずに、というだけのことではない。「すぐに」は「まっすぐに」です。日本語でもそうですが、聖書のギリシア語でも、「すぐに」と「まっすぐに」は同じ言葉です。「二人はまっすぐに従った」のです。

 パウロが、神の光の中にいらっしゃるキリストと出会って、でも目が見えなくなってしまったとき、彼は、「直線通り」と呼ばれる通りの家に身を寄せたそうです。これを訳し直せば、「まっすぐ」と呼ばれる通りです。神は、パウロを、「まっすぐ」の道に、お連れくださったのです。

 私たちも、まっすぐに主イエスに従いましょう。曲がってしまった心をまっすぐにして、主に従いましょう。折れてしまった心をまっすぐにして、主イエスに従いましょう。自分でまっすぐにできなくても、心配いりません。神が、キリストと出会った私たちを、まっすぐな道へと、お連れくださるのです。ただ、私たちは、この方、主イエス・キリストを、神の光のうちにおいでくださって、お会いくださる方と信じましょう。自分も、家族も、周囲の隣人たちも、皆、主イエスにお会いいただけることを信じて、今日も、「人間をとる漁師」として、主の道をまっすぐに歩ませていただきましょう。


祈り  
主よ。あなたが出会ってくださること信じるとき、目が開かれて、あなたをはっきりと見いだします。まっすぐに主の道を歩ませてください。アーメン