印刷用PDFA4版2頁

降誕節主日礼拝説教
  「権威ある新しい教え」

日本基督教団藤沢教会 2010年1月24日

1 わたしがあなたの前に置いた祝福と呪い、これらのことがすべてあなたに臨み、あなたが、あなたの神、主によって追いやられたすべての国々で、それを思い起こし、2 あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば、3 あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる。4 たとえ天の果てに追いやられたとしても、あなたの神、主はあなたを集め、そこから連れ戻される。5 あなたの神、主は、かつてあなたの先祖のものであった土地にあなたを導き入れ、これを得させ、幸いにし、あなたの数を先祖よりも増やされる。6 あなたの神、主はあなたとあなたの子孫の心に割礼を施し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる。7 あなたの敵とあなたを憎み迫害する者にはあなたの神、主はこれらの呪いの誓いをことごとく降りかからせられる。8 あなたは立ち帰って主の御声に聞き従い、わたしが今日命じる戒めをすべて行うようになる。9 あなたの神、主は、あなたの手の業すべてに豊かな恵みを与え、あなたの身から生まれる子、家畜の産むもの、土地の実りを増し加えてくださる。主はあなたの先祖たちの繁栄を喜びとされたように、再びあなたの繁栄を喜びとされる。10 あなたが、あなたの神、主の御声に従って、この律法の書に記されている戒めと掟を守り、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主に立ち帰るからである。11 わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。12 それは天にあるものではないから、「だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。13 海のかなたにあるものでもないから、「だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。14 御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。15 見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。
                (申命記 30章1〜15節)

21 一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。22 人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。23 そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。24 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」25 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、26 汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。27 人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」28 イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。  (マルコによる福音書 1章21〜28節)


 先週のオリーブの会の中で、昨年中2度にわたって韓国の教会を訪問された方が、スライドを交えて報告をしてくださいました。韓国の教会には、教会形成や信徒訓練等、よいモデルが豊富にあることを改めて思わされました。報告くださった姉妹は、韓国の教会から学びたいとお感じになったところをまとめて分かち合ってくださったのですが、交流の中で、やはり、日本が韓国に行ってきた罪深い過去に目を向けないわけにはいかない、そのことを思い出させる旅だったということも加えて、報告してくださいました。戦時中の日本について、韓国の方から責められることは全くなかったようで、むしろ、皆さんがとても熱心に、日本の福音伝道のために、日本の小さな教会のためにと、おぼえてお祈りくださっているというお話でした。韓国の方の中には、「日本には教育勅語のようなよいものがあったから、一本筋の通った日本人ができたのだ」とおっしゃった方があったそうです。皮肉ともとれないようなその口調にも、何と答えたらよいのか、返す言葉を失ってしまった、そのようなことを報告してくださいました。戦時中日本は、厳しい権威の下に服していましたが、教育勅語もその一部であり、教会もまた、その権威から免れませんでした。「権威」という言葉を聞いて、ウキウキするという方はあまりないと思いますが、重く、硬く、暗いような言葉のイメージは、私たちの歴史の歩みに負う面が大きいのかもしれません。


 広辞苑を開いてみますと、「権威」という言葉には、「他人を強制し服従させる力」、「その道で第一人者と認められている人」という2つの意味が記されています。その道のプロということであれば、聖書に登場する「律法学者」と言われる人々もまた、旧約聖書の「権威」でありました。しかし、主イエスは、「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった」(22節)と言います。私たちは、主イエスをキリストとして知っているので、この福音書の証言を聞くと直ちに、主イエスにこそ権威がある、その通りだと言えると思います。しかしこの当時の人々は、どのようにして主イエスの権威が他のものと違うことを知ったのでしょうか。主イエスがまず、この会堂でお教えになった言葉が、汚れた霊に取りつかれた男の癒しに先立って、主イエスさまを権威ある方として明らかにしたのです。


 本日の福音書は、主イエスが公生涯の歩みを始められ、弟子たちを召された後、宣教を開始された初めの場面です。主イエスは、弟子たちを連れてカファルナウムへ行き、安息日に会堂でお教えになりました。人々はその教えに非常に驚いたとあります。その会堂の中でも、主イエスに対して並々ならぬ反応を示す人がありました。汚れた霊に取りつかれていたその人は、突然叫び出します。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。」(24節)叫び出したのは、男性その人でありましたが、言葉の中身は、明らかに汚れた霊によって語られたものです。


 ここで、「汚れた霊」という聖書の言葉を聞いて、躊躇される方もあるかもしれません。私たちの世界とは、おおおよそかけ離れた、聖書の古代世界の異質な存在として(拒否気味に)理解される方もあると思います。けれども、この「汚れた霊」が、神の聖なる方に出会ったときに、非常に恐れて、恐れのあまり悲鳴を上げたということは、私たちにも、よく分かることではないでしょうか。旧約の預言者イザヤの召命の出来事を思い出しますと、イザヤは、神殿で礼拝をしていると神に出会いました。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」(イザヤ6:3)讃美する天使セラフィムの現れと共に、神殿入口が揺れ動いて、煙がモクモクと立ちあがるのを目にしました。神を見た者は死ぬと言われています。イザヤは耐えかねて叫びました。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。」(イザヤ6:5)「災いだ」と訳されているのは、ヘブライ語で’oy(オーイ)という嘆きの声です。’oy!「あぁ、もうおしまいだ!」このイザヤの叫びは、そう叫ばないではおられないような、人間の汚れを露わにする、神との直接の出会いから起こりました。聖なる神の御前には、誰ひとり汚れが隠されたままの人はありません。神の御前に、私たちは、自らの汚れということに無頓着ではいられないのです。神の御言葉もまた、そのようなものです。先週の集会の中である方が、ご自分の日常のふとしたご経験から、神さまの御言葉は鋭く、時に痛みをもたらす、とお話しくださいました。「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄を切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができる」(ヘブライ4:12)このように聖書自身が語る通りに、神の御前では、すべてが裸であり、さらけ出されており、ここで、痛みを経験しない人はないのです。


 神の御言葉は、私たちがそれをただ知的に理解することを求めるものではありません。神によって造られた、私たちの本来の姿を取り戻すことを求めます。本来の姿というのは、神の御前に、裸である私たちです。何も隠すことができない、それどころか、何も隠す必要はないのです。神への深い信頼を取り戻すこと、この出来事と出会うことを、今、実に多くの人々が、呻きながら待ち望んでいます。一人一人価値観が違い、別々バラバラであることが個性的でよしとされる時代です。一定のマナーは共有していても、時間も財産も、体や命、肝心なものは疑いなく個人のもので、それをどう用いるかは、いよいよ自由です。あなたの人生なのだから、好きな道を行きなさい。すると、形振り構わず好きなことをしてしまうものですから、やはり寛容だけではダメで、「権威」が必要だということになります。自由になった現代の日本には、一本の筋がない、教育勅語に取って代わるものはないだろうかと言って「権威ある教え」を求めるのでしょうか。私たちには「権威」がどこにもないから、子どもたちの将来が心配になるのでしょうか。その一つの解決として、主イエスの「権威ある教え」に耳を傾けるというのであれば、私たちは、本日の御言葉から、別の回答を聞くことになります。


 私たちは、聖書がどれだけ優れた教訓を提供するか、ということに関心を抱きがちです。御言葉の教えが、私たちの現実の生活に、どのように役立つのかを知りたいと願います。しかし大切なことは、御言葉を私たちの生活に引きつけて人生の教訓を引き出そうとすることではなく、まず、私たちの方が、御言葉に身を投じて行くことです。主イエスの物語に入って行き、その御言葉と業の権威に出会うことです。主イエスさまのご支配を、一本の筋として受け入れるために、この身を、主の御前に差し出すのです。その時、私たちは、叫びたくなるような葛藤を経験するかもしれない、本日の福音書は、そのことを示しています。


 神が、私たちに触れてくださる時、私たちには痛みや葛藤が起こります。その痛みや葛藤は、突き詰めて考えれば何であるでしょうか。自らの内に神のご支配を迎え入れるか、自分を自分で支配しようとがんばるのか、私たちは、この狭間でバランスを崩すのです。 何の権威にも服さないとがんばっているとき、私たちは、自分が自分自身を権威としていることには気づきません。神の権威が、私たちの目の前に示されるときに、私たちは、初めて、自己の支配と神のご支配との間で揺れ動き、葛藤するのです。しかし、そのバランスを崩した惨めな状態は、滅びではなく回復に向かう兆しでもあります。旧約聖書では、神は、御自分が「聖」であることを「救いの御業」を通してお示しになる、という御言葉が繰り返し出てきます。私たちが自らの汚れのどうしようもなさに、滅び滅ぼされる仕方で、御自分の聖性をお示しになるというのではなく、救う仕方で、お示しになると言います。これは、まさに、一人の男性から「汚れた霊」が出て行くような出来事です。


 「汚れた霊」は、主イエスに出会ったとき、恐れのあまり叫びました(23節)。そしてまた、主イエスのご命令により、この一人の男性から出て行くときに、身体をガタガタと痙攣させて「大声を上げ」た、とあります(26節)。「汚れた霊」はもう、男性を去ってしまったのですから、「大声を上げ」た、というこの意味不明の叫びに、意味を求めることはおかしなことに思われるかもしれません。しかし、一体何を大声で叫んだのでしょうか。23節の最初の「叫ぶ」と、26節の「大声を上げる」は、別の言葉です。「大声を上げる」と訳された言葉phoneo(フォーネオー)は、福音書の中でも、主イエスの受難物語に際立って用いられる言葉です。


 主イエスの弟子ペトロが、主の十字架を前に、3度主を知らないと否んだ時、鶏が鳴きました(マルコ14:30,68,72)。その鳴き声は、主イエスが前もってお話になった十字架の出来事が実現したことのサインとなりました。裏切りを見透かされていたペトロは、鶏の鳴く声を聞いて、立ち止まらざるをえませんでした。ペトロだけではありません。すべての人が、その出来事に直面します。主イエスの十字架の叫びです。主イエスは、十字架の上で、大声で叫ばれました(マルコ15:35)。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」、旧約の預言者エリヤの助けを呼んでいるのだと言われた、主の叫びは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という嘆きでした。主イエスが、十字架の上で痛み、「なぜわたしをお見捨てになったのですか」と葛藤された声を、私たちは聞いているのです。どう叫んだらよいかわからない私たちに代わり、主御自らが、十字架の痛みの中で叫んでくださったのです。叫びは、静まります。私たち人間を支配し続けていた大きな汚れは去り、決定的な救いが入って来たのです。


 本日の福音書の物語は、主イエスの宣教の開始を伝えています。主イエスの隣を共に歩む弟子たちは、主の並はずれた権威を目の当たりにしますが、主が見つめる先にある十字架を、まだ知りません。しかし私たちには、知らされています。私たちは、主イエスが地上でのご生涯で現わされた「権威」を、十字架の救いという大きな光をもって知りたいと思うのです。このマルコ福音書を、ある神学者(M.ケーラー)は、「長大な序文がついた受難物語」と呼んでいます。福音書記者マルコの頭の中には、いつも、主イエスが叫ばれた十字架の出来事があったでしょう。主イエスのこの地上での歩み、その御言葉と御業とを丁寧にたどりながら、私たちは、神が私たちの間にお示しくださる救いを受け取って行きたいと願います。御言葉は、今も語られ、私たちのごく近くに来てくださっています。これはインマヌエル(神はわたしたちと共に)の主、イエス・キリストが、この地上にお生まれになり、私たちの間に実現した御言葉です。それはやさしく、なめらかな出来事ではありません。主イエスは、私たちの間に叫びをもたらすために来てくださった、ということもまた事実であるのです。恐れにとらわれ、叫び、震えている、葛藤を経験する私たちに、主イエスが語りかけてくださいます。「黙り、鎮まりなさい、わたしだ。」主イエスの御声を聞き入れる時、私たちは、私たちを支配するあらゆる汚れを去らせ、主イエス・キリストのご支配の中に、身を委ねて歩み始めることができるのです。