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主日礼拝説教
  「神の深みさえ究められる」

日本基督教団藤沢教会 2010年1月31日

1 わが子よ
 わたしの言葉を受け入れ、戒めを大切にして
2 知恵に耳を傾け、英知に心を向けるなら
3 分別に呼びかけ、英知に向かって声をあげるなら
4 銀を求めるようにそれを尋ね
 宝物を求めるようにそれを捜すなら
5 あなたは主を畏れることを悟り
 神を知ることに到達するであろう。
6 知恵を授けるのは主。
 主の口は知識と英知を与える。
7 主は正しい人のために力を
 完全な道を歩く人のために盾を備えて
8 裁きの道を守り、主の慈しみに生きる人の道を見守ってくださる。
9 また、あなたは悟るであろう
 正義と裁きと公平はすべて幸いに導く、と。
                   (箴言 2章1〜9節)



6しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。7わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。8この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。9しかし、このことは、
「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」
と書いてあるとおりです。10わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。
        (コリントの信徒への手紙一 2章6〜10節)



1イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。2イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。3「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。4蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。5ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。6しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。7ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。8また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」9そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。  (マルコによる福音書 4章1〜9節)


種を蒔く人のたとえ
  「よく聞きなさい」。「聞く耳のあるものは聞きなさい」。
 主イエスは、念を押すように、そう言われました。
このとき、弟子たちだけではない、たくさんの人々が、主イエスの教えを聞こうと、あるいは病気を癒やしていただこうと、押し寄せてきていたのです。ただし、皆が、主イエスの教えを静かに聞く準備ができていたわけではなかったのかも知れません。礼拝で御言葉を聴こうと会堂に集まってきた人たちではありませんでした。主イエスの噂を聞いて湖のほとりに集まってきた人たちです。誰かにつられてついてきた人も、少なくなかったでしょう。しかも、野外で、湖のほとりですから波の打ち寄せる心地よい音が響いていたかも知れません。主イエスが教えを語られていても、上の空で、空や湖面を見つめているばかりの人も、いたのではないでしょうか。そして、もしかすると、主イエスが舟に乗って湖の上から教えを語り始めてから、すでに30分、1時間、あるいは2時間と、時間が過ぎていたのかも知れません。主イエスの声は、人々の耳に心地よくも通り過ぎていくばかり。そのような人々を前にして、主イエスは、おっしゃられたのです。

 「よく聞きなさい」。
 主イエスは、ご自分の蒔かれる種が、人々の中の良い土地に落ちて、芽生え、育って実を結ぶことを、願っておいでです。現実には、せっかくの蒔かれるべき種が道端に落ちて、鳥にかすめ取られてしまうようなこともあります。石だらけの土の浅いところに落ちてしまい、芽を出しても育たないこともあります。あるいは、茨に覆われるようなところに落ちて、実を結ぶところまで育たないこともあります。主イエスは、目の前にいる人々に目をやりながら、そして、その人々の中にご自分の言葉が十分に伝わらないもどかしさを感じながら、一つの強い思いをもって、このたとえをお語りになられたのではないでしょうか。

 もっとも、「もどかしさを感じながら」などと申し上げるのは、勝手な思い込みかも知れません。主イエスは、事柄をもっと楽観的にお考えでいらしたかもしれない。ご自分の蒔かれる種が、すぐには芽を出さなくても、なかなか育たず、実を結ぶまでに至らなくても、良い土地に落ちれば、いずれ必ず、芽を出して、豊かな実を結ぶ日が来る。ご自分の蒔かれている種の力、その種を芽生えさせ、実を結ばせられる、神の御力を、心底、信頼していらした。

 そうであれば、主イエスが「よく聞きなさい」と言われるのは、その神の御力が信頼に値するということを、もっとよく聴き取るようにと、わたしたちに呼びかけてくださっているのだと言うべきでしょう。「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われるのは、わたしたちの主の言葉を聞く耳がもっとよく神の御力を信頼する言葉を聞き分けられる耳になるようにと、励ましてくださっているのです。
わたしたちは、主イエスのこの呼びかけに、耳を傾ける者でしょうか。主イエスの励ましの言葉に促されて、もっと深く、主の御言葉を聞き、神の御業に信頼することを願い求める者でしょうか。


舟に乗って…
 残念ながら、主イエスのそのような呼びかけ、励ましを、自分のこととして受けとめるようになる者と、そうでない人とがあるようです。弟子となって主に従っていく者と、そうでない人々。教会に連なるようになる人と、そうでない人々。

 もちろん、そういう違いは、決定的なことではないと思います。そうではなかった人たちが、あるときに、何かのきっかけで、そうなっていく、ということが起こるのを、わたしたちは、幾度となく見てきました。主の呼びかけを自分に対するものとは確信できないでいた一人の人が、「それは自分に対する呼びかけだ」と信じるようになる。主の励ましを、自分に対することとは思えなかいでいた人が、「それは自分に対する励ましだ」と確信するようになる。その人の中で、何かが変わるのです。けれども、それは、その人自身が努力して乗り越えた、というようなことではない。神が、不思議な仕方で、その一人ひとりに、乗り越えていく機会を備えてくださっている。そのようにしか言いようのないことが、わたしたちの間で起こってくるのです。

 クリスマスに三人の方が洗礼を受けたばかりですが、今また、春のイースターに向けて、すでに三人の方が受洗の願いを打ち明けてくださり、準備のときを始めています。それぞれの人に、受洗を願い出られるまでの物語がおありです。その物語の中に、主イエスの言葉が自分に対する呼びかけなのだと信じるようになった出来事が含まれている。主イエスの言葉が自分に対する励ましなのだと確信するようになった経験が含まれているのです。それを、もしかすると、まだ上手に自分の言葉では言い表されないかも知れません。けれども、それは、確かに、神こそがお働きくださったのでなければ起こされなかったことであったのです。

 もっとも、考えてみれば、洗礼を受けていようがいまいが、すでにこのように共に教会の礼拝に集っているわたしたちは皆、何かしら、そのようなところを通ってきたのだろうと思います。まだ洗礼を受けるつもりはない、とか、まだ信じられない、と思われている方が、この中にはいらっしゃるかもしれません。それでも、この礼拝に加わるというハードルは、すでに乗り越えていらした。乗り越えられるように、神が御手を伸べて働いてくださったからです。

 福音書の物語で、主イエスは、一艘の舟にお乗りになっています。人々のいる陸地から少しだけ離れた、湖面に浮かぶ舟。この舟に、この後、弟子たちは招き入れられて、主イエスと共に湖の向こう岸に渡っていったりします。そう、この舟は「教会」をあらわしているのだと、キリスト者たちは、ずっと理解してきました。主イエスがお乗りになっている舟。そこから主イエスがわたしたちに対して呼びかけ、励ましを語ってくださっている舟。その舟の中に、主イエスはわたしたち一人ひとりを招き入れてくださって、ごく近くに共にいるようにしてくださる。そして、今までいた場所とは違う、別のところ、神の御業を新しく経験させてくださるところへと、共にお連れくださる。蒔かれた種が三十倍、六十倍、百倍の豊かな実を結ぶ、神の「良い土地」、神の御力を信じる世界へと、主は、この舟=教会に乗って、導き入れてくださるのです。



主イエスは、わたしたちが「良い土地」を得るために…
  「聞く耳のある者は聞きなさい。
 主イエスが、この言葉をもって、ご自身の舟に、わたしたちを招いてくださっています。つまり、主イエスは、「あなたを、聞く耳のある者にしてあげよう」とおっしゃってくださっているのです。だから、わたしたちは、卑屈に「自分なんてとても…」などと言わないようにいたしましょう。逆に、高ぶって「いや、自分でどうにかしますから…」などと言うことのないように、いたしましょう。
主は、確かに、この種を蒔く人のたとえを通して、わたしたちの置かれる現実を、明らかにしてくださっています。たとえを、こう説明してくださいました。

 「…種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。(マルコ4:14〜20)

 けれども、これは、わたしたちを、この四つのタイプに分類するためのものではありません。主イエスは、このような現実の中に置かれるわたしたち人間を、そのままにしておかれるのではなくて、どうにかして「良い土地」に造りかえようと、「良い土地」に導き入れようと、してくださっているのです。それは、間違いない。わたしたちに努力を求めるより先に、主ご自身が、命を張って、わたしたちのために行動を起こしてくださっているのです。

 これが神の御心、神の深い御旨によるご計画なのです。舟に招き入れてくださる主によって、使徒たちと共にわたしたちは、そう信じるのです。

 主イエスの舟にお乗せいただいて、主の近くに座らせていただきましょう。主がきっと、道端のように固い心を柔らかく耕してくださいます。主がきっと、わたしたちのつまずきの石を取り除けてくださって(そう、ペトロ=岩のつまずきを、主は、深い赦しによって取り除けてくださったのです)、深く掘り返して根を張れるようにしてくださいます。主がきっと、地面を覆い尽くす茨をすべて、ご自身の身に引き受けてくださって(そう、主イエスは、茨の冠を被せられて十字架を引き受けられたのです)、神の光のうちに枝を伸ばすことができるようにしてくださいます。主こそが、わたしたちに良い土地を得させてくださり、溢れるほどの御言葉の種を蒔いてくださって、豊かな実りを結ばせてくださるのです。


祈り  
主よ。御言葉を聞かず、御心を拒む私どもを、主にふさわしきものに生まれ変わらせてください。命をお与えくださる主の御旨を悟らせてください。アーメン