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降誕節第8主日礼拝説教
  「向こう岸に渡ろう!」

日本基督教団藤沢教会 2010年2月14日

1:1主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ。2「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。」3しかしヨナは主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった。ヤッファに下ると、折よくタルシシュ行きの船が見つかったので、船賃を払って乗り込み、人々に紛れ込んで主から逃れようと、タルシシュに向かった。
4主は大風を海に向かって放たれたので、海は大荒れとなり、船は今にも砕けんばかりとなった。5船乗りたちは恐怖に陥り、それぞれ自分の神に助けを求めて叫びをあげ、積み荷を海に投げ捨て、船を少しでも軽くしようとした。しかし、ヨナは船底に降りて横になり、ぐっすりと寝込んでいた。6船長はヨナのところに来て言った。「寝ているとは何事か。さあ、起きてあなたの神を呼べ。神が気づいて助けてくれるかもしれない。」
7さて、人々は互いに言った。「さあ、くじを引こう。誰のせいで、我々にこの災難がふりかかったのか、はっきりさせよう。」そこで、くじを引くとヨナに当たった。8人々は彼に詰め寄って、「さあ、話してくれ。この災難が我々にふりかかったのは、誰のせいか。あなたは何の仕事で行くのか。どこから来たのか。国はどこで、どの民族の出身なのか」と言った。9ヨナは彼らに言った。「わたしはヘブライ人だ。海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ。」
10人々は非常に恐れ、ヨナに言った。「なんという事をしたのだ。」人々はヨナが、主の前から逃げて来たことを知った。彼が白状したからである。11彼らはヨナに言った。「あなたをどうしたら、海が静まるのだろうか。」海は荒れる一方だった。12ヨナは彼らに言った。「わたしの手足を捕らえて海にほうり込むがよい。そうすれば、海は穏やかになる。わたしのせいで、この大嵐があなたたちを見舞ったことは、わたしが知っている。」
13乗組員は船を漕いで陸に戻そうとしたが、できなかった。海がますます荒れて、襲いかかってきたからである。14ついに、彼らは主に向かって叫んだ。「ああ、主よ、この男の命のゆえに、滅ぼさないでください。無実の者を殺したといって責めないでください。主よ、すべてはあなたの御心のままなのですから。」
15彼らがヨナの手足を捕らえて海へほうり込むと、荒れ狂っていた海は静まった。16人々は大いに主を畏れ、いけにえをささげ、誓いを立てた。
2:1さて、主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられた。ヨナは三日三晩魚の腹の中にいた。
             (ヨナ書 1章1節〜2章1節)



1だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます。2もし、天使たちを通して語られた言葉が効力を発し、すべての違犯や不従順が当然な罰を受けたとするならば、3ましてわたしたちは、これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう。この救いは、主が最初に語られ、それを聞いた人々によってわたしたちに確かなものとして示され、4更に神もまた、しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えて、証ししておられます。    (ヘブライ人への手紙 2章1〜4節)



35その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。36そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。37激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。38しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。39イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。40イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」41弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。
         (マルコによる福音書 4章35〜41節)


「向こう岸」への誘い
 今日の福音書の主イエスは、ガリラヤ湖で舟に乗っていらっしゃいます。主イエスは、しばしば、舟に乗っていらっしゃった。今日の福音書の場面も、舟の中に座られて、岸辺に集まっていた人々に教えを語る一日を過ごされた後のことですが、主イエスは、舟から陸に上がろうともなさいません。そのまま、弟子たちと共に、湖を渡っていくことになさったのです。

 主イエスの弟子たちの中には、この湖を仕事場としていた漁師たちがいました。少なくとも最初に弟子となった四人の漁師たちにとっては、湖は、どこよりも勝手知ったところでした。だからこそ、主イエスは、舟に乗って湖で過ごすことを良しとされたのかも知れません。安心して弟子たちに任せられるところ、それが、湖であり、舟であったのでしょう。

 その弟子たちに向かって、主イエスは、「向こう岸に渡ろう」と言われました。「お安いご用で。ところで、どの町の岸辺までですか」と、弟子たちは答えたかも知れません。この場面には、その行き先について詳しくは書かれていません。けれども、続いての箇所を見てみると、一行はゲラサ人の地方に着いた(5:1)とあります。もと居たところから、ガリラヤ湖のど真ん中を突っ切って、一番遠いところに、主イエスは、弟子たちと共に渡っていこうとなさったのでした。

 弟子たち、特にこの湖のことを良く知っている漁師の弟子たちにとって、この船旅は、あまり気乗りしないものであったかも知れません。知らない行き先ではない、けれども、あまり行きたくない土地。だれにでも、そういうところがあります。漁師の弟子たちにとって、ゲラサ人の地方は、そういうところであったのではないでしょうか。ユダヤ人の彼らにとっては、外国人の土地です。ローマ軍の大隊も駐留していたようです。自分たちが出かけていっても、たとえユダヤ人の間で大評判の主イエスが出かけていったとしても、とても歓迎されるとは思えない。行くだけ無駄な土地。訪ねる価値のない土地。ガリラヤ湖のことを良く知っていた漁師の弟子たちこそ、そのように考えたのではないでしょうか。そのようなところを目指して、主イエスは、「向こう岸に渡ろう」と言われたのです。

 主イエスは、弟子たちのそのような心の内を分かっていらっしゃったのかも知れません。「向こう岸に渡りなさい」と命令するのではなく、「渡ろう」と提案するように言われました。その気になれば、弟子たちは、拒むこともできる。そのような言葉で、主イエスは、弟子たちを「向こう岸に渡ろう」と誘われたのです。

 もちろん、弟子たちは、すでに主イエスに従って歩み始めていた人たちです。主イエスの提案であれば、そう簡単に拒むわけにはいかない、ということもあったでしょう。何よりも、主イエスの「向こう岸に渡ろう」という言葉には、強い意志を感じないわけにはいかない。こちら側にとどまっていてはいけない。今いるところの領域にとどまっていないで、新しい領域に進み行かなければいけない。主イエスの、そのような御心を、弟子たちは受けとめたからこそ、気乗りしない思いにむち打って、主イエスをお乗せした舟を、漕ぎ出していったのではないでしょうか。


「眠り」への誘い
 自分たちの先生のお考えだからと、気持ちを奮い立たせて漕ぎ出したのです。しかし、どこか気乗りしないまま動き出したときには、どういうわけかしばしばあることですが、一行は、突然の激しい突風に見舞われてしまいます。舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった(37節)。同船していた者は皆、びしょ濡れになってしまったでしょう。舟が転覆しないように、皆、大慌てで水を掻き出したりバランスをとったりしたのに違いありません。ところが、そのとき、一人主イエスだけは、そのとき、艫の方で枕をして眠っておられた(38節)というのです。

 主イエスは、漁師の弟子たちを信頼して、舟のことをあずけていたのでしょう。弟子たちに任せていたからこそ、主イエスは、眠っていることができました。けれども、激しい突風で舟がひっくり返りそうになっている中で、なお眠り続けていらっしゃったとは、主イエスは、どんな神経をしていらしたのでしょうか。

 ある意味では、主イエスは、神経の図太い大物だった、ということかもしれません。波をかぶって水浸しになっているとはいえ、まだ転覆したわけではありません。漁師の弟子たちが、完全にお手上げ状態、ということでもなかったでしょう。本当に危なくなったら起き上がろうと、眠ったふりをして様子をうかがっていたのかも知れません。けれども、むしろ、主イエスは、ここで、弟子たちをご自分と同じ「眠り」に誘っていらした、と言うことはできないでしょうか。主イエスの目指されていることだからと、気乗りしない向こう岸に行く。御心だからと、価値が無いように思える未知の新しい領域に進み出ていく。そのときに、心の中にザワザワとした思いが渦巻いて、心穏やかでいられないでいる弟子たちに、主イエスは、「わたしと一緒に眠ってしまおう」と誘っていらっしゃる。「眠ってしまって、思い煩わないで、全部、天の御父にお委ねしよう」と、自ら示していらっしゃる。そういうことがあるのではないでしょうか。

 どんなときにも「眠れる」というのは、ある意味では、本当に信頼すべきものを知っていて、安心する術を知っている、ということでしょう。ですから、冗談でも嫌みでもなく、わたしは、礼拝で(特に説教中に)居眠りできる人は、本当に神に信頼すること、主を愛することを知っていらっしゃる方なのだと、思います。礼拝で、司式者が間違えるんじゃないかとか、説教者がおかしなことを言うんじゃないか、などと考えていたら、どんなに疲れていても居眠りしていられません。でも、司式者が多少間違えたって、説教者が何かおかしなことを言ったって、ここに父なる神が御手を伸ばしてくださっていて、主イエスが御体をもって聖めてくださっている、と信じられれば、安心して居眠りできるではないですか。みんなで礼拝中に居眠りしよう、とは申しませんけれども、でも、礼拝だからといって、変に気持ちを張りつめたり、気負ったりしなくてもよいではありませんか。むしろ、主イエスが舟の中で眠っていらしたように、居眠りするぐらい無防備になって、自分を神の御手にあずけて、主の御体である教会にあずけて、つまり、ここに共に集っている礼拝者の群れに我が身をあずけて、この礼拝の営み中に身を深く沈めて過ごしてくださったら、と思います。


「静まり」の中で…
 もっとも、居眠りして過ごしている者の中には、旧約で読まれたヨナ書の登場人物、預言者ヨナのような者もいるかもしれません。ヨナも、大嵐の中で、一人、船底で居眠りをしていました。主イエスによく似ている。実際、ヨナは、「海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者」(ヨナ1:9)と言っているように、ある意味では、神の絶対的な力を知っていたのでしょう。だから、嵐の中でも、動揺せずに居眠りをしていられた。けれども、ヨナの場合、それは同時に、その天の神から逃れようとするゆえの居眠りでもあったわけです。この嵐は、自分が神の命令に背いて、向かうべき土地とは反対に向かおうとしたがために、神によって引き起こされているのだと、ヨナは知っていました。そして、その嵐の現実、心穏やかならざる自分の気持ちから逃れようと、ヨナは居眠りを続けたのです。

 ですから、ヨナは、人々に起こされると、自分の心の葛藤を、告白しないではいられませんでした。神の御心と、自分の考えが、衝突している事実を、認めないではいられなかった。それゆえに、自ら、海に放り込まれることを、願い出ることになったのでした。

 ヨナは、そうでした。しかし、主イエスは、むしろ、この眠りによって、神の御心と、わたしたちの心とが一つになるようにしてくださるのです。ヨナと同じような葛藤を密かに心の内に抱えていた弟子たちを前にして、弟子たちの目の前にある嵐の現実、つまり、彼らの心穏やかならざる状態に対して、主イエスは、「黙れ、静まれ」とお叱りになられたのです。

 わたしたちの間にある嵐の現実は、簡単には静まらないかも知れません。主イエスと共に眠りを楽しむことができるときもあれば、また、心穏やかならざる状態で眠ることもできない、むしろ主に悪態をついてしまうほどの思いになることも、少なくないかも知れません。それでも、なお主イエスは、わたしたちの目の前の嵐を静めようとしてくださっているのです。穏やかならぬわたしたちの言葉を黙らせようとしてくださっているのです。預言者ヨナが嵐を静めるために自分の命を差し出したように、主イエスは、わたしたち全ての者の嵐を鎮めるために、穏やかならぬ言葉を黙らせるために、その命を差し出してくださっている。わたしたち皆の者が、本当に、主イエスと共に眠りを楽しむ者となれるためにです。

 「向こう岸に渡ろう」。教会の営みへと招かれて、主イエスの舟に共に乗せていただいています。主のこの呼びかけに促されて、心静めていただきましょう。怖がらず、ただ、主の御手の力を信じてゆだねる「眠り」を、おぼえさせていただくことにいたしましょう。主は、その貴い命をもって、わたしたちを生かしてくださるのですから。


祈り  
主よ。御言葉に促されて、御心に従います。わたしの心を静めてください。愚かな言葉を黙らせてください。主と共に我が身をゆだねさせてください。アーメン