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受難節第1主日礼拝説教
  「天使も、野獣も、歓迎です」

日本基督教団藤沢教会 2010年2月21日

27見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家に、人の種と動物の種を蒔く日が来る、と主は言われる。28かつて、彼らを抜き、壊し、破壊し、滅ぼし、災いをもたらそうと見張っていたが、今、わたしは彼らを建て、また植えようと見張っている、と主は言われる。
29その日には、人々はもはや言わない。「先祖が酸いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く」と。30人は自分の罪のゆえに死ぬ。だれでも酸いぶどうを食べれば、自分の歯が浮く。
31見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。32この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。33しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。34そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。        (エレミヤ書 31章27〜34節)



10というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。11事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、
12「わたしは、あなたの名をわたしの兄弟たちに知らせ、集会の中であなたを賛美します」
と言い、13また、
「わたしは神に信頼します」と言い、更にまた、
「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」と言われます。14ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、15死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。16確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。17それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。18事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。  (ヘブライ人への手紙 2章10〜18節)



12それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。13イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
14ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、15「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
          (マルコによる福音書 1章12〜15節)


受難節の招き
 受難節の最初の主日は、多くのカトリック教会で「洗礼志願式」なるものが行われる日にもなっています。イースターに洗礼を受けることを志願した人たちが、教会の公の礼拝の中で、志願者として紹介されて、志願の決心を言い表すのだそうです。わたしの知人も、今日、この地域のカトリック教会の洗礼志願式に臨むはずなのですが、実は、ちゃんと志願式に臨まれるか、心配しています。若い彼ですが、随分いろいろと紆余曲折があって、本当に主が彼を洗礼へと導いてくださっているのかと、本人も、また、わたしを含めた周囲の者も、思い悩まされることが多かったのです。わたしたちの教会の礼拝にも出席されることのある青年です。神は、もちろん、すでに彼を御手のうちに置いてくださっているのでしょう。けれども、その御手の内から自ら転がり出てしまうというようなことが起こらないように、どうぞ、皆さんにも祈っていただきたいのです。

 しかし、皆さんに祈りにおぼえていただきたいのは、その彼だけではありません。先主日のわたしたちの教会の役員会で、三人の方を「バプテスマ志願者」として役員方に紹介いたしました。まだ、ご本人方を直接ではなく、提出していただいた「志願書」によってですが、この時期に、イースターの受洗を目指して洗礼の志願をしてくださった皆さんです。今年は三人の方が揃いました。その三人の方々を、受難節に入るのを前にして、役員会で紹介することができました。ですから、今、この礼拝にお出でくださっている皆さんにも、おぼえてお祈りいただきたいのです。今までの慣例から、洗礼試問会を終えるまでは公式にはお名前をご紹介いたしませんが、そうであっても、ぜひおぼえてお祈りいただきたいのです。お一人はご高齢で礼拝出席が困難な方ですが、残りのお二人は、この礼拝やCS合同礼拝にご出席くださっている方です。皆さんが、共に礼拝に招かれていらっしゃっている他の人たちに、ほんの少し心を寄せて、祈りの心を分かち合ってくださったら、きっと、どなたが、洗礼を志願して備えていらっしゃる方か、おわかりいただけると思います。3月に入りましたら、役員会で洗礼試問会をいたします。すでに主の御手のうちにおかれていらっしゃる三人の志願者の皆さんが、まっすぐに導かれてイースターを迎えられ、洗礼の恵みのときを迎えられるよう、どうぞ、ご一緒にお祈りください。揃って新しいキリスト者として教会の群れにお迎えするために、よい備えを、ご一緒に始めていただきたいのです。

 この備えを、わたしたちは、何よりも主イエスによって導いていただきましょう。主イエスは、荒れ野に送り出されて、四十日間にわたってサタンから誘惑=試練を受けられました。その四十日を、教会がイースターを迎えるために備える受難節の期間としてきました。洗礼に備える人がサタンからの誘惑や試練と向き合う期間。そしてまた、すでに洗礼を受けている者が、あらためて、サタンからの誘惑や試練と向き合って過ごす期間。そればかりか、このようなわたしたちの営みを通して、まだ洗礼を受ける決心に至られていない方が、サタンからの誘惑や試練に向き合うことへと招かれている期間でもあるかもしれません。四十日間、主イエスのとどまられた荒れ野に、わたしたち皆の者が、招かれています。


荒れ野の野獣
 わたしの手元に、一枚の「荒野のイエス・キリスト」という題の付けられた絵のコピーがあります。十九世紀のロシア人画家の作品です。ゴツゴツとした岩肌の広がる荒野に、主イエスが一人、じっと座って、手を組んでいらっしゃる。祈っていらっしゃるのか、瞑想していらっしゃるのか、分かりませんが、立ち上がろうともせずに一人座っていらっしゃる主イエスのお姿が、何とも印象的です。
けれども、今日の福音書の物語を聴くと、あるいは少し違ったイメージを、荒れ野の物語の様子として思い浮かべることもできるかも知れません。

 「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」

 荒れ野にとどまられた四十日間、主イエスは、ただお一人になられて祈ったり、瞑想なさったりしていらしたのではない、というのです。野獣と一緒におられた。天使たちも仕えていた。それぞれ、たくさんいたのかもしれません。たくさんの野獣たちが、主イエスの周りにいたのです。そして、たくさんの天使たちが、主イエスを取り巻いていたのです。そして、そのような中で、主イエスは、サタンからの誘惑を受けられました。

 ところで、主イエスが荒れ野に赴かれたのは、このときだけではありません。荒れ野は人里離れた所・人のいない所(マコ1:35、1:456:31など)とも訳される言葉ですが、主イエスは、ときに祈るために一人で、ときに休むために弟子たちと共に、「人里離れた所」=「荒れ野」に赴かれました。しかし、いずれのときにも、主イエスが荒れ野=人里離れた所に赴かれると、すぐに、弟子たちばかりでなく多くの人々が捜し出して、押し寄せてきたのです。逆に言えば、主イエスは、実は、弟子たちや人々を、ご自分の祈りの場である荒れ野=人里離れた所へと誘われて、共に過ごされようとなさったのかもしれません。

 そうとすれば、主イエスが赴かれた「荒れ野」は、わたしたちの言葉で言えば「教会」を指し示している、と言うことができないでしょうか。毎日の生活の場から意識的に離れて過ごす場所です。家庭のことや、生活のこと、社会で生きていくための諸々のことから一時離れて、最低限のもの以外何も持たずに赴く場所です。それはつまり、別の言い方をすれば、何も持たない裸の自分という存在だけを持って出てくる場所、素の自分になるところ、です。

 「自分は、教会では仮面をかぶっている」という方が、皆さんの中にはいらっしゃるかもしれませんが、教会は「裸の素のままの自分を出すところ」だと考えた方がよいと思います。教会は「わたしたちが野獣のようになるところ」です。自分の中の「野獣」をさらし出すところです。そして、そういう裸をさらした野獣のような自分になって、そこでこそ、主イエスと出会っていただく。教会とは、そういうところだと考えた方がよいかも知れません。

 主イエスは、霊に送り出されて、荒れ野に過ごされました。わたしたちも、自分の意志ではない、神の霊の力によって、この荒れ野、主イエスがおいでの荒れ野に、導かれてきたのです。そして、裸の野獣として、主イエスの傍らに、いさせていただくことになったのです。



天使も!
 受難節の四十日に、ここ教会の営みの中で主イエスの傍らにいさせていただきましょう。仮面をかぶった紳士織女である必要はありません。そのような者としてではなく、「裸の野獣」となって、主イエスの傍らにいさせていただくのです。

 そのように言うのは、神秘的にすぎるでしょうか。でも、ここ、わたしたちが傍らにいさせていただくところで、主イエスは、サタンからの誘惑をお受けになられています。わたしたちが受けるべき誘惑、試練を、主イエスがまず、お受けになられています。そして、わたしたちが、誘惑からどのようにして離れたらよいのか、試練をどのようにして乗り越えたらよいのか、主イエスは、わたしたちにお示しくださっている。

 私たちの上っ面のことではない、素の自分の受けている誘惑を、わたしたちは、だれに言えなくても、主には知っていていただける。裸の野獣のような姿の自分が直面している試練を、主にはおぼえていただくことができる。

 このように言うのは、いささか空想的にすぎるでしょうか。でも、ここ教会に、荒れ野に送り出された主イエスは、四十日と言わず幾日でも、とどまっていてくださるのです。そこには、天使たちが仕えています。主イエスがおいでくださっているからこそ、主に仕える天使たちが、ここには、います。もっとも、教会で主に仕えている天使たちは、白い羽の生えた天的な姿をしているわけではありません。普通の人の姿です。でも、主のために奉仕する御使いであるのは、間違いありません。それは、どこにいるのでしょうか。ここにいます。皆さんです。わたしも含めていただけますか。わたしたちです。「自分はそうではない」と思われる方もあるかも知れません。でも、主のために奉仕する、このことへと導かれているからこそ、今、主イエスの福音を聞く礼拝に加えられているのでしょう。

 そう、確かに、わたしたちは、天使というよりは、野獣です。裸の野獣として主イエスの傍らに置いていただくことのほうが、わたしたちには似合っている。でも、そのように主イエスの傍らに置いていただく裸の野獣であるわたしたちを、主は天使として用いてくださるのです。主に仕える者として、用いてくださるのです。そして、ここ教会に主イエスのお姿をはっきりと見いだせない人のために、その主にお仕えする天使たちの姿をもって、主のお姿をお示しくださるのです。

 わたしたちの教会の群れに、洗礼を志願し、洗礼の恵みへと導かれている方が与えられました。すでに洗礼の恵みにあずかったわたしたちも、ここにとどまります。そして、まだ洗礼の恵みにあずかられるときを迎えていらっしゃらない方々も、すでにここに招かれています。受難節の祈りのときに、野獣のひとりとして、天使のひとりとして、わたしたちは、ただ、この群れの中に、主の荒れ野の群れの中に、とどまらせていただくことを祈り願いましょう。



祈り  
主よ。受難節の荒れ野の営みにとどまらせてください。ここに皆の者を招き入れてください。ただ主によって誘惑から、試練から離れさせてください。アーメン