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受難節第2主日礼拝説教
  「ゆるす力の熱情」

日本基督教団藤沢教会 2010年2月28日

1 主の言葉がわたしに臨んだ。2 行って、エルサレムの人々に呼びかけ 耳を傾けさせよ。主はこう言われる。わたしは、あなたの若いときの真心 花嫁のときの愛 種蒔かれぬ地、荒れ野での従順を思い起こす。3 イスラエルは主にささげられたもの 収穫の初穂であった。それを食べる者はみな罰せられ 災いを被った、と主は言われる。4 ヤコブの家よ イスラエルの家のすべての部族よ 主の言葉を聞け。5 主はこう言われる。お前たちの先祖は わたしにどんなおちどがあったので 遠く離れて行ったのか。彼らは空しいものの後を追い 空しいものとなってしまった。6 彼らは尋ねもしなかった。「主はどこにおられるのか わたしたちをエジプトの地から上らせ あの荒野、荒涼とした、穴だらけの地 乾ききった、暗黒の地 だれひとりそこを通らず 人の住まない地に導かれた方は」と。7 わたしは、お前たちを実り豊かな地に導き 味の良い果物を食べさせた。ところが、お前たちはわたしの土地に入ると そこを汚し わたしが与えた土地を忌まわしいものに変えた。8 祭司たちも尋ねなかった。「主はどこにおられるのか」と。律法を教える人たちはわたしを理解せず 指導者たちはわたしに背き 預言者たちはバアルによって預言し 助けにならぬものの後を追った。9 それゆえ、わたしはお前たちを あらためて告発し また、お前たちの子孫と争うと 主は言われる。10 キティムの島々に渡って、尋ね ケダルに人を送って、よく調べさせ 果たして、こんなことがあったかどうか確かめよ。11 一体、どこの国が 神々を取り替えたことがあろうか しかも、神でないものと。ところが、わが民はおのが栄光を 助けにならぬものと取り替えた。12 天よ、驚け、このことを 大いに、震えおののけ、と主は言われる。13 まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて 無用の水溜めを掘った。水をためることのできない こわれた水溜めを。
                 (エレミヤ書2章1〜13節)

20 イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。21 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。22 エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。23 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。24 国が内輪で争えば、その国は成り立たない。25 家が内輪で争えば、その家は成り立たない。26 同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。27 また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。
            (マルコによる福音書3章20〜27節)


 先週は、私たちの教会附属の幼稚園では、「卒園礼拝」がもたれました。「卒園遠足」もあり、「ありがとうの会」(お別れ会)もあり、卒園に向けた行事が続いています。卒園式は来月17日ですが、「卒園礼拝」を先立って2月に行うのは、卒園記念にプレゼントされる『聖書』を手にして礼拝をささげる意味もあると聞き、そのような子どもたちの成長を共に喜ぶことができることもまた、感謝です。先週はまた、私たちの群れから起こされた神学生の卒業礼拝(日本聖書神学校)が行われました。新しく教会に遣わされる伝道献身者をご家族と共に送り出すときが目の前に迫っています。卒業礼拝では、神学校の校長先生の激励の言葉がありました。4年前に「召命感」が与えられて入学が導かれたこと、「召命感」が4年間の神学生生活の中で「召命」であることを確かめられたこと、その神の「召命」があるから、今遣わされて行かれるのだと、そのようなお話があったと思います。なるほど、私も神学校に入るまでの間はしばらく、本当に「召命感」があるか、そのことをくり返し自らに問うてきたのですけれども、神学校に入ると「召命感」という言葉はむしろ使われなくなったように思います。私たちが何をしたいのか、私たちがどう切り開いていくかということは、もう重要ではないということです。「私が」どう思うかではなく、「神が」私をどうなさるのか、神が私を召してくださっている、その「召命」の事実に立たされていくということこそが重要なのです。神学生の方々の4年間ということに思いを巡らせながら、伝道献身者だけでなく、すべての人が、このような≪信仰のプロセス≫を辿られるのだな、と思わされたことです。



 卒業礼拝で朗読された聖書の一つの箇所は、マルコによる福音書6章6~12節の御言葉でした。主イエスが、12人を呼び寄せ、2人ずつ組にしてお遣わしになったという出来事です。杖一本のほか何も持って行ってはならない。パンも袋も、お金も。履物はよいけれども、下着は二枚着てはいけない。そして「汚れた霊に対する権能」をお授けになったとあります。弟子たちは、遣わされて行きます。「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。」(マコ6:12~13)と伝えられています。「汚れた霊に対する権能」、それによって弟子たちは、多くの「悪霊」を追い出しました。これが、弟子たちが召された、非常に大切なはたらきの一つであったのです。言うまでもなく、主イエスのおはたらきがそれであったからです。主イエスは、ガリラヤで伝道を開始されて以来、多くの病人を癒され、悪霊を追い出されました。主イエスさまや弟子たちが、教えを語ったり病を癒したりする使命について、私たちは何の疑念も抱きません。しかし「悪霊を追い出す」ということになると、一歩引いてしまいます。いったいどのような儀式が行なわれていただろうかと、突然、この福音書の物語が、自分とは関係のない世界で語られている物語であるかのように、だんだんと耳が閉じていってしまいます。それは「霊」というものが、私たちにとって、なにか非日常的で、非現実的なものであるかのように感じているからでしょうか。しかし、そうであるならば、そのように「霊」について、あれこれ思索して迷い込んでしまった私たちのために、主イエスさまが地上にお出でくださったのだとも言ってよいと思います。



 本日朗読を聞きました福音書の物語は、主イエスについての噂を聞きつけて、身内の人たちが主イエスを捕らえに来たというお話です。「あの男は気が変になっている」と言われていたからだとあります。また、人々の指導者である律法学者たちも「あの男はベルゼブルに取り付かれている」とか、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」とかと言った、とあります。多くの人々の病気を癒し、悪霊を追い出された主イエスの御力を目の当たりにしたとき、主だった人々の反応は、このようなものでした。主イエスの御力に対する、驚きと畏れが表れています。「ベルゼブル」という言葉は、「悪霊の住まいの主人」という意味があるそうです。悪霊の家、サタンの国というひどい言葉を向けられた主イエスさは、しかし、それを退けずに、あえてお応えになるのです。



 「国が内輪で争えば、その国は成り立たない」(24節)とあります。ここで「国」とは、「サタンの国」という想定で言われているのですが、しかし、この「国」は、「神の国」を意味するギリシャ語と同じ、<バシレイア>という言葉です。「国」(バシレイア)というのは、国家ではなく「支配」を意味します。それが力を持ち、それによって右にも左もなるような支配する力のことです。「神の国」とは、すなわち「神の支配」でありますから、「サタンの国」とは、悪の諸力によって私たち人間が無力になっている状態を想像することができます。私たちは、しばしば、秩序のないような状態を目にしますと、ここは悪の巣窟だと感じます。不条理な出来事を前にしますと、ここは悪の力が強いと感じることがあります。私たちの力が及ばない闇の部分を、心の中で線引きをしてしまうのです。しかし神の国が、「ここにある」「あそこにある」と言えるものではないと、主がおっしゃるように(ルカ17:21a)、ここに神の国があり、あそこに悪の支配がある、ということではありません。私たちのこの世界で、こちらは黒でこちらは白と区別できるようなものではありません。「神の国はあなたがたの間にあるのだ」と、主がおっしゃるように(ルカ17:21b)、私たちの間では、絶えず神の国の実現と、悪の支配の危険がせめぎ合っているのです。そのような私たちであるからこそ、主イエスは聖霊を送る約束をくださいました。



 私たちは今、主イエス・キリストの地上でのご生涯を辿り、とりわけ十字架への道行き、そのお苦しみと死とをおぼえる<受難節>の歩みを導かれております。毎年同じくやってくるこの暦と、同じ聖書の物語に耳を傾けます。しかし一年間で一巡りする円の上をぐるぐると回っているのではなくて、ぐるりとは回るけれども、一年後には少し先の方に立っている、というように螺旋を描くように、確かに今までとは違う現在の地点を歩んでいます。この物語も、違う地点で聞いています。違う解釈で聞いているということではなく、違う地点に私たちが立っているということです。



 弟子たちもまた、本当に主イエスを目の前に見ていたときとは、違う地点に立って、初めてこの物語を語り始めることができました。主イエスのそばを歩いていたときには、一生懸命ではあっても、主とその最期までを共に歩み通すには至りませんでした。主イエスの十字架を前に、弟子たちは主を見失い、主の僕である自分たちを見失ったのです。けれども、主イエスの十字架と復活、昇天の後で、主がこの地上を歩まれたときのことを思い起こして、弟子たちは、本当に主は救い主なのだと告白するに至ります。そのような≪信仰のプロセス≫を辿っていくのです。同時に、弟子たちにその≪信仰のプロセス≫を踏ましめたのは、主の聖霊のおはたらきでありました。主イエスは天に昇られる時に約束された聖霊をお与えになり、弟子たちを、主の信仰に生きる新しい群れとして、「教会」としてお立てくださったのです。「主は霊」(Uコリ3:17)です。主が「聖霊」として、私たちの間に来てくださった出来事が、私たちの教会の誕生の出来事です。教会はこの地上にあって、「キリストのからだ」であると、聖書はそのように言っています。主の「聖霊」が、この地上の教会を「キリストのからだ」としてつくり上げるのです。「からだ」でありますから、輪郭があり、秩序があります。「聖霊」というと、殊に聖霊を「感じる」こと、「聖霊体験」に関心が偏りがちです。「五感」に対して「第六感」という造語がありますが、そういった超感覚的なものの中に「霊」を感じるか否かになってしまうと、地上の営みである「キリストのからだ」は、失われたり、本質が変えられてしまったりということになりかねません。「聖霊」とは、いかに主イエスが私たちと今一緒にいてくださるか、ここにいてくださるのか、という信仰です。自らのうちに聖霊のいましてくださることを信じるということは、自分が自分を受け入れるか、という問いにも関わっています。自分のような者には、神さまはお出でになれない、と言うならば、そのとき私たちは、自分自身を受け入れていないのです。私たちは、しかしながら、そのような拒絶感を、自身のうちに根深く持っております。何度悔い改めても、過ちを繰り返してしまう、何度奮い立っても、すぐに無気力になってしまう、悪の力のほうがずっと強く感じるのです。こんなに惨めなのだから、もう、志を立てることをやめてしまいたいと思うほどです。私たちはそのとき、信仰のスランプを経験するかもしれません。≪信仰のプロセス≫について、ある牧師はこのように言いました。「霊的成長とは、偽りを真理に置き換えて行くことです」(リック・ウォレン)。私たちの間では、内にも外にも「偽り」があります。そのことを告白せざるをえません。けれども主イエスは、私たちのこの偽りの「悪霊」をタブーとはなさいませんでした。混沌としたこの悪の力を、曖昧なままでは放置なさいませんでした。「わたしはあなたを支配しているその強い者を縛る」と宣言してくださり、あなたを奪い返す、あなたを贖う、そのように主御自らがお決めくださったのです。主が、私たちの「偽り」を主の「真理」へと変えてくださる、その御業をすでに備えてくださっています。「真理」とは、私のただ中に「真理の霊」であられる主がお住まいくださることを、信じることです。私たちは、主の日毎に、礼拝で使徒信条を告白しています。父なる神、御子イエス・キリスト、聖霊を信ず、と言い表します。主が、今ここに、私と共に、私たちと共にいてくださることを信じますという聖霊への信仰の告白が、教会を信じるという信仰です。この聖霊の信仰なくしては、教会は教会でなくなってしまう、ということもまた明らかです。「家が内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう」(25節)。主のこの御言葉には、「家」としての教会を見て行くことができます。同時に、ここには主の家族の問題もあります。



 主が「気が変になっている」という噂を聞いて、取り押さえに来たのは「身内の人たち」だったと言います。主の家族は、心配のために、主の道を理解することができませんでした。このお話の直後で、主はご自分の家族についてお語りになります。「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか。…神の御心を行なう人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」(マコ3:33〜35)。主イエスのもとに集まって来ていた「一同」は、「食事をする暇もないほど」でありました。しかし、この「一同」は、主イエスと食事を共にするような関係にあったのです。「一同」とは、主イエスのそばにいた弟子たちのことであったでしょうか。もっと広い範囲の人たちであったかもしれません。マルコ福音書の2章13節以下には、主イエスが徴税人のレビを弟子にする召命の物語が伝えられていますが、ここで、主イエスは徴税人や罪人と見られていた者たちとご一緒にお食事をなさいます。血肉の関係を超え、また当時のタブーの壁をも超えた、主の赦しによる新しい家族が、ここに集められています。この群れが、教会の前触れです。主は、十字架と復活の後、この食卓を赦しの確かな証しとして、聖餐備えてくださり、この群れのただ中にいましてくださいます。私たちが絶えず「偽り」にさらされる弱い者であるにも関わらず、主は私たちを赦して食卓に招き、主のからだへと引き戻してくださるのです。