説教・祈祷の音声は左のスタートボタンを押してください。
音量も調整できます。           

  ↑スタートボタン

印刷用PDFA4版2頁

受難節第3主日礼拝説教
  「主イエスの不都合な事実?」

日本基督教団藤沢教会 2010年3月7日

1 ヤコブの家よ、これを聞け。
ユダの水に源を発し、イスラエルの名をもって呼ばれる者よ。
まこともなく、恵みの業をすることもないのに
主の名をもって誓い、イスラエルの神の名を唱える者よ。
2 聖なる都に属する者と称され
その御名を万軍の主と呼ぶイスラエルの神に依りすがる者よ。
3 初めからのことをわたしは既に告げてきた。
わたしの口から出た事をわたしは知らせた。
突如、わたしは事を起こし、それは実現した。
4 お前が頑固で、鉄の首筋をもち、青銅の額をもつことを知っているから
5 わたしはお前に昔から知らせ、事が起こる前に告げておいた。
これらのことを起こしたのは、わたしの偶像だ
これを命じたのは、わたしの木像と鋳像だと、お前に言わせないためだ。
6 お前の聞いていたこと、そのすべての事を見よ。
自分でもそれを告げうるではないか。
これから起こる新しいことを知らせよう、
隠されていたこと、お前の知らぬことを。
7 それは今、創造された。昔にはなかったもの、昨日もなかったこと。
それをお前に聞かせたことはない。
見よ、わたしは知っていたと、お前に言わせないためだ。
8 お前は聞いたこともなく、知ってもおらず、耳も開かれたことはなかった。
お前は裏切りを重ねる者、生まれたときから背く者と呼ばれていることを
わたしは知っていたから。    (イザヤ書 48章1〜8節)



27イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。28弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」29そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」30するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。
31それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。32しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。33イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」 (マルコによる福音書 8章27〜33節)



「サタン、引き下がれ」
 受難節の最初の主日の礼拝で、わたしは、この教会に今、三人の洗礼志願者がいらっしゃることをお知らせいたしました。受難節の六週間あまりを過ごした後、イースターの祝いの中で洗礼の恵みにあずかられるよう、備えていただいている方々です。それぞれに、洗礼に向けて準備のときを過ごしていただいています。

 受難節の期節を洗礼志願者と共に歩めることは、わたしたちにとって幸いなことです。受難節という期節は、洗礼志願者の準備の期節として守られるようになったことが始まりだと言われます。まだローマ帝国当局の迫害を受けていた時代、三年間の求道生活を過ごした人が、イースターの朝を迎える夜半に洗礼を受ける前、主の十字架の死を覚えて三日間の断食をもって、また十字架に至る道行きをおぼえて受難週の節制のときをもって、さらには、主イエスの荒れ野の誘惑をおぼえて四十日間の祈りをもって、最後の備えをするようになった。それが、受難節という期節として教会全体で大切に覚えられるようになったのだそうです。

 わたしたちの聖書日課は、そのような習慣を思い起こさせるものです。今日の福音書は、主イエスが弟子のペトロを「サタン、引き下がれ」と叱責なさったところで朗読が終わっていました。皆さんは、この物語がこの後も続くこと、主イエスの大切な教えが語られていることをご存じだと思います。その部分を敢えて省略するかのように、今日の聖書日課は、「サタン、引き下がれ」という主イエスの叱責の言葉のところで、朗読を終えるように定められている。この主イエスの御言葉こそが、この日の福音書朗読の中で聴くべき御言葉として大切にされている。イースターの洗礼に備える者が、備えの最後の時期に、この主イエスの御言葉を聴き、心に深く刻むということを大切にしてきたことに倣っているのです。

 受難節の歩みを、わたしたちは、洗礼志願者の皆さんと共に、主イエスの荒れ野の誘惑の物語を聴くことから始めました。主に導かれて、サタンからの誘惑と向き合い、戦いながら、この受難節の四十日間を歩もうとしてきました。実際、このときに、ご自身の生活や振る舞い、語る言葉を振り返りながら、サタンからの誘惑に抗い、また逃れて歩むことを、祈り求めて、取り組んでくださっている方は、少なくないと思います。そのような取り組みをなさっている方のお話しをうかがわせていただいて、わたしもしばしば励まされ、「自分も」と思いを新たにさせられます。けれども、そのような祈りの取り組みを熱心にすればするほど、サタンの誘惑から逃れることは、容易なことではないことにも思い至らされます。サタンは、わたしたちの心のうちに、言葉巧みに近づいてくるからです。わたしたちの心を揺さぶって、感情の火に油を注ぎ込みます。抗いようのない方法で誘惑し、罪に陥らせるのです。そのようなサタンの存在に、あらためて気づかされ、自分の無力さを痛感させられないわけにはいかない。受難節は、そのようなときでもあるように、わたしには思えます。

 わたしたちは、どうしたって、自分でサタンの誘惑に完全に抗うことは難しいのです。ほとんど不可能ではないかとさえ思わされます。サタンの前に跪くしかないのかと思い至らされることさえある。けれども、そのときにこそ、わたしたちは、主の言葉を聴くのです。「サタン、引き下がれ」と告げてくださる主の言葉を聴くのです。サタンにほとんど取り込まれてしまっているようなこの「わたし」に向かって、「サタン、引き下がれ」と告げてくださって、この「わたし」からサタンを引き離してくださる方、主イエスの言葉を聴く。それ以外に、わたしたちが、本当にサタンから逃れ、サタンの誘惑に抗う方法は、無いのです。

 このことを、だれよりも洗礼志願者の皆さんの心に、刻んでいただきたい。すでに洗礼を受けた者として歩んできたわたしたちも、あらためて、心に刻み直したいと思います。そしてまた、まだ洗礼の志願へと至られていらっしゃらない方々にも、主イエスとはわたしたちにとってそのような方なのだ、ということを、ぜひお覚えいただきたいと思うのです。


主イエスは《苦しみと死》を避けて通らない
 この主イエスは、しかし、わたしたちにとっては、本当には理解するのが難しいお方かも知れません。洗礼を受けていようといまいと、いつも、わたしたちは、主イエスという方を誤解し、いったん理解しても、また曲解してしまう。そういうところがあるようなのです。

 わたしたちのために「サタン、引き下がれ」と告げてくださる主イエスは、わたしたちの目には、どこか、格好の良いヒーローのような存在に映るかもしれません。この福音書の物語では、この言葉は、弟子のペトロに向かって告げられましたから、ペトロは、恐らく大変なショックを受けたと思います。けれども、想像するに、ペトロは、主イエスがこの言葉を、自分に対してではなく、いかにも悪の権化のような存在に向かって告げていらっしゃったら、主イエスのことを、悪に勝利するヒーローのように見ることになったのではないでしょうか。けれども、事実はそうではなく、むしろ、この言葉は、はっきりとペトロに向かって告げられたのです。そして、それは、ペトロと共にいた弟子たちにとっても、自分たちに向けて告げられた言葉として、受けとめられたのではないでしょうか。それほどショッキングな言葉として聴かれ、語り伝えられることになったのです。

 ペトロは、もちろん、このとき、すでに主イエスの弟子として従ってきていました。しかも、主イエスの最も近いところに、いつも居させていただいている者でした。世の人々が主イエスのことを何と呼ぼうとも、「主イエスよ、あなたは、メシアです、キリストです」と答えることを知っている者でした。ところが、そのペトロが、実際には、主イエスのことをよく理解してはいなかったわけです。

 主イエスは、すでに、ペトロが「あなたは、メシアです」と答えたときに、そのことをだれにも話さないようにと戒められた=叱られたといいますから、ペトロの誤解に気づかれていたのでしょう。その誤解、あるいは曲解を、主イエスは、はっきり正そうとなさったのかも知れません。ご自身の、それからの道行きを、お語りになられたのです。それは、苦しみを受けられること、死に向かわれること、そして、その後に復活なさること、そのような道行きについてでした。

 わたしたちの、主イエスに対する誤解、曲解の多くも、このことに関わるものなのかも知れません。わたしたちは、できれば苦しみを避けたいのです。ましてや、だれかから排斥されたり、殺されるような目に遭わされることは、受け入れがたいことです。そういうことにはできるだけ触れないで、関わらないで、自分が絶対に傷つかない仕方で、よりより結果を得たいと考える。それが、わたしたちの、無意識のうちに考える思考方法です。

 しかし主イエスは、ご自身の行かれる人生の道は、必ず多くの苦しみを受ける道だと、おっしゃられる。必ず人々から排斥されて殺される道だと、おっしゃられる。《苦しみと死》は避けられない、とおっしゃられる。そして、それを避けようとする人間の試みこそサタンの試みだと、主イエスはおっしゃられるのです。

 《苦しみと死》を避けて通っては行かれないという主イエスの言葉を、わたしたちは、この受難節の歩みの中で、大切に心に留めたいと思います。それは、まさに、主イエスが十字架への道行きの中で、わたしたちにその意味を明らかにしてくださったことです。十字架への道行きをたどる受難節の営みを通して、わたしたちは、その意味を少しずつ悟らせていただいてきたし、これからも、より深く悟らせていただくことになるでしょう。



ただ主イエスのみに焦点を定めて
 年配の方が、若い頃に教会に行こうとしたら、「キリスト教は邪教だ。なぜなら、悪いことをして死刑になった男を、神の子として信じているのだから」と言われて、家族に禁じられた、という経験をお話しくださることがあります。しかし、そのような中傷でなくても、主イエスの《苦しみと死》は、わたしたちにとっても、ときに、不都合な事実として重荷になってくることかも知れません。主イエスに倣い従う弟子として生きていく者であるならば、主イエスが決して避けて通ることはなさらなかった《苦しみと死》に、わたしたちも向き合い、受けとめ、引き受けていく道へと、導かれているからです。

 確かに、どこか不都合な事実です。けれども、その不都合な事実を、主イエスは、あえてご自身の事実となさった。苦しみを受ける道を進まれ、排斥されて殺される死の道を歩み抜かれました。苦しむ人々の苦しみを共に受けとめられ、死の道を歩む人々の罪をご自身引き受けられて、それによって、真の人として得るべき命、神の命、復活の命に至る道を、お拓きくださったのです。

 サタンは、キリストが拓いてくださったこの道に行かせまいと、わたしたちを幾度でも試みるでしょう。しかし、だからこそ、今、わたしたちは、主イエスその方だけに焦点を合わせ、思いを集中させることに、心を用いたいと思います。主の先に進んでしまうことなく、主の後ろから、主のお姿を確かに見ることのできるところに、そのことを共に志し営む教会の群れの中に、わたしたちすべての者の歩みを合わせてまいりましょう。



祈り  
主よ。十字架への道行きに従います。その意味を悟らせてください。主の教会のうちに留まるわたしどもを、サタンの試みから遠ざけてください。アーメン