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受難節第4主日礼拝説教
  「輝くイエス」

日本基督教団藤沢教会 2010年3月14日

12 主が、「わたしのもとに登りなさい。山に来て、そこにいなさい。わたしは、彼らを教えるために、教えと戒めを記した石の板をあなたに授ける」とモーセに言われると、13 モーセは従者ヨシュアと共に立ち上がった。モーセは、神の山へ登って行くとき、14 長老たちに言った。「わたしたちがあなたたちのもとに帰って来るまで、ここにとどまっていなさい。見よ、アロンとフルとがあなたたちと共にいる。何か訴えのある者は、彼らのところに行きなさい。」
15 モーセが山に登って行くと、雲は山を覆った。16 主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日の間、山を覆っていた。七日目に、主は雲の中からモーセに呼びかけられた。17 主の栄光はイスラエルの人々の目には、山の頂で燃える火のように見えた。18 モーセは雲の中に入って行き、山に登った。モーセは四十日四十夜山にいた。  (出エジプト記 24章12〜18節)



2 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、3 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。4 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。5 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」6 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。7 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」8 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。
9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。10 彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。11 そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。12 イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。13 しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」    (マルコによる福音書 9章2〜13節)



マルコによる福音書 9章2〜13節
 冒頭に、「6日の後」とあります。わたくしたちは、“あーそうか、6日経過してからなんだー”と、単純に読み過ごしてしまいそうです。しかし、聖書の一語一句には、しっかりとした意味があるのです。

 「6日の後」というのは、出エジプト記24章に「モーセが、シナイ山に登っていくと、雲は山を覆った。主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日の間、山を覆っていた」とあります。そこに、6日という時間が示されています。

 また、創世記において、「神さまが、この世界を造られたすべてのものをご覧になった。それは、極めてよかった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。」ここにも、6日という時間が示されています。そして、つづく2章1節に「天地万物は、完成された。第七の日に神はご自分の仕事を完成され、第七の日に神は、ご自分の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」と記されています。きょう読まれました聖書の冒頭の、6日の後、と使われているのは、この第七の日を意識しているのです。

 いま、読みました創世記のところにありますように、聖なる日をふまえているのです。この6日の後の話も、モーセのシナイ山の話がある、ということを知っていて構成されているということが分かります。

 シナイ山において、モーセは、アロン・ナダブ・アビフという3人の同行者を伴って、シナイ山に登っていったのであります。このマルコにある話も、「ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて高い山に登られた・・・」と書かれています。モーセも、マルコもお伴は3人だったのです。

 ところで、この ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人は、マルコ福音書5:37、14:33などにも、この3人を、伴っている記事があります。イエスがこの3人を重く用いた、という見方ができます。

 つぎに、「イエスの姿が彼らの目の前で変わり服は、真っ白に輝き・・・」とあります。白く輝く、というのは、先ほどの出エジプト記で、モーセがシナイ山を下ったとき、モーセは、「自分が神と語っている間に自分の顔の肌は光を放っているのを知らなかった。アロン、イスラエルの人がモーセを見ると、彼の顔の肌は光を放っていた。彼らは恐れて近づけなかった」と、記されています。

 「白く輝く」のは、聖書においては、「天」の存在を示すものであります。ヨハネ黙示録に、「その頭、その髪の毛は、白い羊毛に似て、雪のように白く、目はまるで燃え盛る炎・・・」と、天上の存在を示し、復活、終末の先取りを意味するのです。
 「エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた」と書かれていますが、これは、モーセは、ご存知のように、シナイ山で出エジプト記20章に書いてあります律法を神から託された人です。従って、モーセは、律法を代表する存在と言えるのです。また、エリヤは、「再び現れるはずのエリヤ」といわれますように、預言者を代表する存在であります。

 [聖書のなかで、エリヤという預言者は死んだのではなく、エリヤは嵐の中を天に上って行った(列王記下2章)とあり、イエスの時代になっても、エリヤは再び現れる、と信じられていたのです]

 そのように、律法の代表と、預言者の代表がイエスの前に、揃ったのであります。それは、“イエスにおいて、預言と律法が成就する”ということが示唆されているのです。

 そのモーセと、エリヤ、そしてイエスが話し合っていた、と書いてありますが、話の内容は、マルコ福音書には書いてありませんが、今日のイエスの姿が変貌するという話のほぼ同じ話が、マタイ福音書とルカ福音書に出てきます。いわゆる並行記事と言われているものですが、そのルカ福音書のほうには、モーセ、エリヤ、イエスの三人は、「エルサレムで遂げようとしておられる、最期についての話をしていた」と記されています。つまり、それは、これから起きるイエスの受難についての話がすすめられていたのであります。

 今日のこの聖書の箇所は、日本基督教団の日毎の糧、聖書日課によっているのですが、イースターを3週間後に控えたこの日に読まれるのは、この箇所は、イエスがまさに、エルサレムへ上っていき、そこで、十字架につけられる道行の途上での出来事だ、ということなのです。

 受難・十字架が待ち受けていることは、イエスは分かっているけれども、弟子たちはなにが起こるか全く分かっていない、そうした状況の聖書箇所なのであります。 5節のところ、ペトロが「先生、私たちがここに居るのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう」と言います。

 モーセ、エリヤというような、聖書の中でも重要な人物に対して、“仮小屋”というのは、なんとなくチグハグ、というか、変な話であります。仮小屋と訳されている言葉、スケーナスというのは、みなさんが聞かれたことのある、“幕屋”として訳されているものなのです。新共同訳でも、“幕屋”と訳されていれば、すんなりと理解される話の筋です。幕屋というのは、テントのことなのですが、長い年月、荒野で生活していたイスラエルの民は、神殿を持たず、幕屋を神殿としていたのです。神殿建設はイスラエルの悲願でありましたが、荒野生活を忘れないように、と、なかなか建てられなかった、のだ、と言われています。つまり、仮小屋と言っても、掘っ立て小屋ではなく、聖所、礼拝の場、そのようなイメージをお持ちになればいいかと思います。

 その幕屋、ヨハネ黙示録21:3によれば、「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は、自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとく拭い取ってくださる。もはや死もなく、もはや悲しみも、嘆きも労苦もない。最初のものは、過ぎ去ったからである」とあります。

 幕屋は、そのような私たちの目の涙をことごとく拭い取ってくれるものなのです。今日の礼拝堂、会堂とは違いますが、私たちが、会堂に集うとき、単に讃美歌を歌い、聖書の話を聞く、それだけではないのです。真の礼拝は、神の霊、栄光のイエスに出会う場です。

 幕屋では、変貌する栄光のイエスに出会う場であり、私たちの礼拝、祈りは、すべてこのような、栄光の主とお会いするところなのです。主と出会うという霊的経験は、この変貌のイエスと同じ内容を持つ、私たちの信仰の出発点であるのです。

 その会堂、礼拝で読まれる聖書は、聖なる幻の経験の記事に満ちています。預言者の召命経験などは皆これです。

 問題は、今日、このような幻の経験を疎んじるような風潮があり、それが霊的な貧困をもたらす、ということです。霊的なものを重んじないところには、キリスト教はありません。しかし、熱狂主義を言っているのではありません。

 わたくしたちの藤沢教会を、120数年まえ、講義所から導いて現在の教会へと培い、育ててきた信仰を言っているのですが、藤沢教会が基づいている信仰によれば、この会堂が日曜日には、礼拝を守るなかに、静かな霊的に豊かな交わりが与えられる場となる、それは目の涙をことごとく拭い取ってくださる、慰めが与えられる場、ということなのです。聖なる幻は、現実に希望と勇気を与えてくれるのです。

 イエスは、山を下りてゆく時、弟子たちに、言いました「人の子が、死者の中から復活するまで、今見たことを誰にも話してはならない」と。

 今見たこと、とは、十字架の出来事のあった後の人たち、聖書をよんで、復活のことを知っている現在の私たちにとっては、イエスの変貌は、復活の前触れであった、ということが分かります。しかし、これから起きる出来事、十字架について何も知らない、弟子たちは、このように変貌したイエスを、どのように認識し、受けとめたのでしょうか。

 イエスにおける、啓示を理解したのでしょうか。弟子たちは、そのようなイエスの十字架への道を理解していませんでした。マルコ福音書には、そのような弟子たちの姿が描かれています。イエスに従って、イエスの教えをよく聞いているはずの弟子たちでした。この弟子たちの姿は、イエスのことばを、聞くには聞くが、悟らない。その姿、実は、いまの私たちなのではないでしょうか。

 私たちは、自らの信仰のなさを、克服していくこと、そのことを、悔い改めつつ、主に赦しをこいねがいつつ、しっかりと歩みをすすめてゆきたいと思います。



祈り  
主なる神さま、主のことばを聞いても悟らないわたくしたちですが、主の十字架への道行きを悟らせてください。   アーメン