棕櫚の主日礼拝説教
「それでもなお、進む力を」 日本基督教団藤沢教会 2010年3月28日
4 主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え 疲れた人を励ますように 言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし 弟子として聞き従うようにしてくださる。
5 主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。 6 打とうとする者には背中をまかせ ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。
7 主なる神が助けてくださるから わたしはそれを嘲りとは思わない。わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っている わたしが辱められることはない、と。
(イザヤ書 50章4〜7節)
32 一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。 33 そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、 34 彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」 35 少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、 36 こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」 37 それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。 38 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」 39 更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。 40 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。 41 イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。 42 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」 (マルコによる福音書 14章32〜42節)
2009年度、最後の礼拝を迎えました。本日の礼拝では、新しい年度に、教会において様々な働きを担ってくださる奉仕者(事務室奉仕者、音楽奉仕者)のための祈りを、共にいたします。すでに礼拝の初めに招きの讃美をご奉仕いただきました。「神の国の命の木よ」という、受難節の招きの讃美は、何週にもわたって聖歌隊の方々が練習を重ねてくださった讃美歌です。普段、私の執務室には、よく礼拝堂で練習する聖歌隊の歌声が聞こえてくるのですが、この前の土曜日に、たまたま私も礼拝堂で作業をしていた時、いつもの歌声だけでなく、歌声に込められた、聖歌隊の方々の信仰の言葉、祈りの言葉を聞くことができました。このようなお話がありました。受難節の讃美歌は、悩み深い旋律であるということ。重くのしかかるような歌詞があるということ。決して元気ではない讃美歌だということ。それゆえに、暗闇に引きずり込まれるような、もやもやとした不安を抱えた歌になってしまう。十字架は苦しみではあるけれども、苦しみの中にたしかなメッセージがあるはずで、私たちはこの十字架のメッセージをしっかりと伝えていかなければならない。そういった指揮者のお話があったと思います。私は、聞き耳を立てながら、なるほどと思わされ、このような受難節の黙想を共にして礼拝に備えられたことを幸いに思っています。
本日、私たちは教会の暦で「棕櫚の主日」と呼ばれる特別な日をおぼえております。主イエスが、十字架の苦難と死とを前にして、厳かにエルサレム入城をはたされた記事は、四福音書すべてが一致して伝えている出来事です。エルサレムの人々は、自らの衣服を道に敷き、なつめやし(棕櫚)の枝を地面に並べて、喜んで主イエスを迎えたとあります。「ホサナ、主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。」(マコ11:9b~10)私たちは、この人々の声を、礼拝の招きとして聞きました。しかしまた、私たちは、この讃美の結末が誠実でなかったことをも知っており、複雑な面持ちでこの受難週を迎えるのです。私もまた、この群衆に紛れて一度は主をほめたたえながらも、この先、主を裏切る者とされてしまうのではないか。「ホサナ!」という高揚した人々の讃美の声が、どこか憂鬱な響きをもっているような気がして、恐れてしまうのです。
先ほど皆さんで讃美しました讃美歌の307番「ダビデの子、ホサナ」は、私たちがあまり歌う機会のない讃美歌ですが、大変きらびやかな旋律です。けれども、この旋律に表わされているのは、「偽り」の信仰告白ではありません。この歌は、主イエスの受難と死がいよいよ迫り来ている、という最高潮に達した緊張を表わす歌であり、その死の先にある主のご復活(高挙)を信じる信仰の歌です。本日から始まる受難週は、主イエスの十字架の苦しみ、悲しみ、憂いを辿るものであります。しかし私たちは、この受難週をひたすら鬱々として過ごすのではなく、本当の勝利者として主イエスが来てくださる静かな希望のうちに、イースターへの備えを進めてまいりましょう。
本日の福音書は、主イエスの「ゲツセマネの祈り」といわれる箇所です。主イエスが、その十字架の前にして、苦渋に満ちた表情で祈られる、宗教画にもいくつも描かれてきた場面です。「アッバ、父よ。」深い信頼をもって主は御父を呼ばれます。「アッバ」というのは、主イエスや当時のユダヤ人が話していた言語、アラム語で、幼児が「お父ちゃん」というような言葉だそうです。それはさらに、小さい子どもが、発語する最初の「まんま」という言葉のようなもので、誰にでも、幼児にさえも発音できる呼びかけなのだと聞いたことがあります。アラム語だとかヘブライ語だとかという以前の、万人に共通の声だと言います。「アッバ、アッバ。」乳を求めるようにして、天の御父を慕い求める、言葉以前の言葉と言いましょうか、赤ん坊が親に対して持っているような絶対的な信頼感が、この響きにはあります。「ゲツセマネの祈り」の冒頭にある「アッバ」という呼びかけは、しかしながら、親子の微笑ましい安心感ではなく、主イエスの、言葉にならない祈り、言葉にできない思いが込められているように思えます。主がこの時「アッバ」と発せられた、その声を、誰も聞くことはありません。再現することもできません。私たちは、この「アッバ」という、主の言葉にならない思いの後に紡ぎ出された言葉を聞いています。それは、「御心に適うことが行われますように」という祈りです。
「御心が行われますように」とは、言うまでもなく、「主の祈り」の中の祈りです。他の福音書によれば、すでに主イエスは弟子たちに「主の祈り」を教えていましたから、弟子たちにお教えになった祈りを、主御自らがご自分の祈りとして祈られたということです。しかも、「同じ言葉で祈られた」とあるように、2度も、主はこのことを祈られました。この主御自らの「主の祈り」の実践から、私たちは、「御心が行われますように」の祈りには、「わたしが願うことではなく」という打ち消しの言葉が付くのだということに気づかされます。神さまに全てお委ねしようと思うなら、自分自身の思いを打ち叩いて服従させなければならないという面があるのです。「汝の道を主に委ねよ」と、私たちはよくこの呼びかけを耳にしますし、口にもいたします。神を信じて盲目的に従うことの勧めであるようにも聞こえます。このことについて、ある哲学者は次のように言ったと言います。人間の人生は、車の前につながれた犬のそれに等しい。車の先を走っている限りは、問題はないが、その犬が道から離れようとしたり、止ろうとしたりするなら、車の下敷きになってしまう。これは、「運命」と呼ばれるものに対する人間の無力を表わしたたとえです。古代の哲学者は、この「運命」に従うことこそが賢明な生き方だと教えました。「従順な者は運命に導かれ、不従順な者は引っ張っていかれる」そのどちらかだと言うのです。主イエスもまた、変更できない「運命」への諦念から「主の祈り」を祈られたのでしょうか。主が苦しみの果てに絞り出された祈りは、「運命」への降伏なのでしょうか。「全部主に委ねています。」この言葉は、敬虔な信仰の言葉であるのと同時に、危険な響きを持っています。自分の意志を曖昧に濁し、何も考えないようになってしまうことが、委ねることであるかのように思えるからです。しかし主はこの祈りを祈るときに、ご自分の思いを曖昧にはされませんでした。主が悩まれたように、私たちは、自分の思いを打ち明けながら、なおさら忍耐強く神のご意志に心を向けて行く対話が必要なのです。主は、深い対話の内に、十字架に現わされる神の救いのご計画へと心を注がれました。苦い「杯」が、いよいよ目の前に近づきました。「杯」という言葉は、来るべき決定的な時を表わします。旧約の預言者が「憤りの杯」(イザ51:17)、「怒りの杯」(エレ25:15)と言った、神の決定的な裁きの時を意味します。
私は先週、全国教会青年同盟の修養会のために箱根まで出かけてまいりました。修養会のプログラムの中で、小さなグループに分かれて話し合う「分団」の時間がありました。その時間、私のグループの一人の方が、「迫害」を話題にしました。「迫害」というのは、今回の講演の主なテーマではなかったのですが、分団は自由に疑問を打ち明け合ったり、感想を述べ合ったりできる時間でもあります。お話は、数年前からニュースになっている、インドでのキリスト教徒の迫害に関することでした。命を奪われるほどの非常な迫害に対して、あるクリスチャンは「迫害は栄光だ」と言って、信仰を堅く守り抜いて死んでいったと言う。もし自分がそういった迫害に出遭ったならば、信仰者としてきちんと行動できるだろうか。踏み絵を踏むようなことをしないだろうか。そういった漠然とした不安を打ち明けた方がありました。私たちは、現代の日本にあって命を奪われるような迫害から時間的に、場所的に、隔てられています。ここで迫害が起こった時に、どういう行動をするのか。分団の皆は黙ってしまいました。災害に遭った時に備える地域防災委員会はありますが、迫害に遭った時にどうするかということは、あまり考える機会のないことだと思います。迫害の下にある自分たちの姿を、どれだけ想像することができるのかと言われれば、難しいものがあります。講師の先生は、「その時になってみないとわからない」とお応えになりました。でも、「迫害」の意味はそれだけではないとも言われます。新約聖書時代の迫害や今も世界で起こっている迫害ということに私たちが目を向ける意味は、「終末」への備えだと言います。明日死ぬというときに、私たちはどうするだろうか。自暴自棄になるのか。そうでなければ、どのように生きることができるのか。キリスト者にとって大切なことは、明日死ぬという現実の中で、なお「十戒」に従って生きることだと、講師の先生はおっしゃいました。「十戒」は、代々の教会が三要文として大切にしてきた旧約聖書のみ言葉です。キリスト者は、「使徒信条」をもって何を信ずるかを告白します。「十戒」によっていかに生きるべきかを示され、「主の祈り」によっていかに祈るべきかを教えられます。
私は学生時代、ある先生に、一日の初めに「使徒信条」を唱えることを教えられました。「使徒信条」を唱えながら、その日出会う人を思い浮かべることによって、その人を愛することができるようになる、とおっしゃります。私は何のおまじないかと思いました。そこで、どうして「使徒信条」のような抽象的な祈りで、そのように私が変えられるのかと理屈を尋ねしました。言葉を選べない学生でしたので、私がうっかり使徒信条を「抽象的」だなどと言ってしまったがために、「使徒信条が抽象的とはどういうことか」と問い詰められ、話が少しややこしくなったのですが、私はその時に思ったのです。「使徒信条」を、どれだけ自分の生活と離れたところに置き去りにしてしまってきたか、と。これは私の個人的な経験ですが、先ほどの講師の話と結び付けて言うならば、私たちは何を信じるべきか、私たちはいかに生きるべきか、私たちはいかに祈るべきか。これらのことが明確に与えられているにも関わらず、それと違うところで生きようとしてしまうということです。「主の祈り」とは違う祈りを祈ろうとします。一方、究極的な状況に置かれた時には、私たちはいよいよどう祈ってよいかわからなくなります。しかしそうではない、というのです。明日死ぬとしても、私たちは祈ることができる。「主の祈り」を祈ることができるのだと、主御自らが、ゲツセマネで私たちにお教えくださったのです。
「御心に適うことが行われますように。」主は、十字架を前にこの祈りを、祈られました。主はこの時、運命に全く降伏して、消極的に従ったというのではありません。たしかに、主は、ひどく恐れ、心痛められました。主は、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」(32節)と言って弟子たちを伴われ、「ここを離れず、目を覚ましていなさい」(34節)と念を押しました。人間にとって、非常な悲しみを前に、孤独であることは何よりも耐えがたいことです。主は、その人としての非常な苦悩の中で、しかし神の御心を祈りました。「できることなら」と祈りかけるのですが、何でもおできになる神の前に、奇跡を祈り求めることをなさらなかったのです。主イエスはむしろ、神との親しい関係において、何でもおできになったはずではないでしょうか。受難節の歩みを始める時に、主イエスの荒野での誘惑の出来事を聞きました。40日間何も食べずに空腹を覚えられた主イエスに対して、悪魔はささやきました。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」(ルカ4:3)。神の子でいらっしゃるゆえに、主にはすべてのことが可能でした。主は、この地上のご生涯の中で、多くの奇跡を行われました。目の見えない人を見えるようにし、病を癒されました。何でもおできになったのです。けれども、主はあえてここで、奇跡を行うことをお望みになりません。神の御心を、自らの願いとしてお望みになったのです。
十字架への道こそが、神の御心であることを確かめられ、なおその御心へと進まれる主。主の傍らにあった弟子たちの反応は、ぼんやりしたものでした。「目を覚ましていなさい」と言われながらも、それができません。主が、再び祈りを終えて戻って来られたとき、弟子たちは言い訳する言葉もないのですが、主は、もうそのことを責めたり叱ったりはなさいませんでした。「もうこれでいい。時が来た。…立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」(41,42節)。私たちもまた覚束ないながらも、主が祈られるところ、御心が行われるところへと心を注ぎ、み足の跡を進み行きたいと願います。
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