イースター礼拝説教
「天使が見えます、キリストが見えます」 日本基督教団藤沢教会 2010年4月4日
10 新しい歌を主に向かって歌え。
地の果てから主の栄誉を歌え。
海に漕ぎ出す者、海に満ちるもの
島々とそこに住む者よ。
11 荒れ野とその町々よ。
ケダル族の宿る村々よ、呼ばわれ。
セラに住む者よ、喜び歌え。
山々の頂から叫び声をあげよ。
12 主に栄光を帰し
主の栄誉を島々に告げ知らせよ。
13 主は、勇士のように出で立ち
戦士のように熱情を奮い起こし
叫びをあげ、鬨の声をあげ、敵を圧倒される。
14 わたしは決して声を立てず
黙して、自分を抑えてきた。
今、わたしは子を産む女のようにあえぎ
激しく息を吸い、また息を吐く。
15 わたしは山も丘も廃虚とし、草をすべて枯らす。
大河を島に変え、湖を干す。
16 目の見えない人を導いて知らない道を行かせ
通ったことのない道を歩かせる。
行く手の闇を光に変え
曲がった道をまっすぐにする。
わたしはこれらのことを成就させ
見捨てることはない。
(イザヤ書42章10〜16節)
1週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。2そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」3そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。4二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。5身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。6続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。7イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。8それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。9イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。10それから、この弟子たちは家に帰って行った。
11マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、12イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。13天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」14こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。15イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」16イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。17イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」18マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。
(ヨハネによる福音書 20章1〜18節)
イースターにたどり着く
イースターの朝です。主イエス・キリストのよみがえられた朝です。キリストの復活のいのちに、わたしたち皆があずかる朝です。喜び祝いましょう。讃美と祈りと聖餐の祝いによって、ご一緒に喜び祝いましょう。世界中の教会と共に、この朝を喜び祝いましょう。
今日ここに集ったわたしたちは皆、この朝を迎えることを、心待ちにしてきたのです。イースターを迎えるために、わたしたちは皆、ここに至る道を、それぞれに歩んできました。はっきりと、ここに至る道にいることを確かめながら歩んでこられたでしょうか。たとえそうでなくても、わたしたちは皆、ここに至る道を歩んできて、この日の朝を迎えました。今日、はじめて、この教会にいらした方があるのでしょうか。どなたかに誘われて来られたのでしょうか。ご自分で調べておいでになられたのでしょうか。いずれにしても、そのような方も、わたしたち皆と同じように、今日ここに至る道を、歩んでこられたのです。イースターの朝、主イエス・キリストのよみがえられた朝を共に喜び祝うところ、ここに至る道を、わたしたちここに集っている者は一人残らず、歩んできました。
一人孤独な思いにとらわれたときがあったかもしれません。道に迷ってしまったときがあったかもしれません。心が、体が、前に進む力を失ってしまったときさえあったかもしれません。けれども、一緒に歩んでくれる友のあることに勇気づけられたときがあったことでしょう。不思議とここに至る道に引き戻されるときがあったことでしょう。心が弱っても、体が弱っても、それでも、支えて、引き上げてくれる働きがあることに気づかされたときがあったことでしょう。
わたしたちは皆、イースターの朝にたどり着きました。この不思議な朝に、わたしたちは皆、たどり着いたのです。わたしたち皆が、ここにたどり着くことができたのです。
主イエス・キリストがよみがえられた朝。死んで三日目に復活された朝。本当に、この日の朝を迎えられてよかった。イースターの朝の喜びの祝いの礼拝を、このように迎えられて、本当によかった。
そう思うのは、わたしだけではないでしょう。皆さん、そう思われるでしょう。何よりも、今日は、わたしたちの教会でも三人の方が洗礼〔バプテスマ〕を受けられるのです。この礼拝の中で二人、午後の在宅洗礼式で一人。わたしたちの教会だけでなく、昨晩から行われている世界中の教会のイースターの祝いの中で、多くの方が洗礼を受けられているはずです。主イエス・キリストと結ばれて、キリストの死と復活のいのちにあずかって、新しく生まれる洗礼。備えてこられた一人ひとりが、イースターの朝を迎えて、洗礼の恵みへと導かれている。特別な日です。死んでよみがえられたキリストと結ばれて、新しい信仰者のいのちが誕生する、特別な日。世界中で、多くの方が、この新しい信仰のいのちの誕生を、この日、喜び祝っていらっしゃるでしょう。そのような教会の一枝に、わたしたちも加えられているのです。わたしたちは皆、この日の朝を迎えないわけにはいかなかった。このイースターの朝にたどり着かないわけにはいかなかったのです。
キリストはすぐそこに!
洗礼を受けられる三人の方それぞれと、受難節の六週間を通して備えのときを重ねさせていただきました。人生の経験も、洗礼の決心に至られた経緯も、それぞれに違う方々です。けれども、異口同音、どなたも、洗礼を受けることを通して、自分が新しくされること、古い自分が新しく変えられることを、真摯に願っておいでであることを、うかがってきました。
皆さん、その願いは、今日、確かにキリストによって実現するのです。お二人は、この礼拝で、この後すぐに、洗礼を受けられる。もう一人は、午後の洗礼式で、洗礼を受けられる。十字架で死なれたキリストと共に、古い自分は死んで葬られます。三日目によみがえられたキリストと共に、今日、新しいいのちを与えられて、新しい人生が始まります。洗礼によって、わたしたちは、そのことを、三人の方に、はっきりとしるしづけるのです。主の約束に従って、洗礼の恵みのしるしを、三人の方々に、はっきりと授けるのです。わたしたちすでに洗礼を受けている者にも等しく授けられている恵みのしるしを、今日、洗礼を受けるすべての人に、教会は、授けるのです。
イースターの朝。今から洗礼を受けようとされている一人ひとりの中には、すでに、《古い自分》はどこにもありません。なぜなら、もうすでに、これまでの歩みの中で、十字架につけられた主イエスと共に、《古い自分》は死んで葬られたのですから。そして、イースターの朝、死んで葬られたはずの主イエス・キリストの死んだ体は、どこにもなかったのですから。
イースターの朝、主イエスに従っていた女の弟子、マグダラのマリアは、墓の中に主イエスのご遺体が見つからなくて、途方に暮れ、泣きました。けれども、《死んだ主イエス》を捜し求めたマリアは、《死んだ主イエス》を見つける代わりに、《生きておられる主イエス》と会うことができたのです。いいえ、マリアは、《生きておられる主イエス》によって捜し出され、呼び出されたのです。《生きておられる主イエス》に「マリア」と名を呼ばれて、「ラボニ(先生)」と応えたのです。そのとき、マリアは、《死んだ主イエスを捜す古いマリア》から、《主イエスと共に新しいいのちに生きるマリア》に変えられたのでしょう。
洗礼を受けようとしている方々には、どうか、もう、《古い自分》を捜したりしないでいただきたい。今から洗礼を受けようとされている方々だけでなく、わたしたちすでに洗礼を受けている者も皆、もう、《古い自分》を捜し出したりしないようにしたいのです。
いいえ、もちろん、わたしたちは、洗礼を受けても、相変わらず《古い自分》を残しているかも知れません。それどころか、洗礼を受けても、信仰生活を長く送っていても、自分を振り返ってみると、ほとんど《古い自分》のままであるようにしか、思えないかも知れません。何度でも主イエスが架かってくださった十字架にはりつけにされなければならないような、ひどく汚れた《古い自分》に、嫌気がさすほどかもしれません。それでも、キリストは、イースターの朝、《死んだ体》をお示しになるのではなくて、《復活のいのちを生きておられる姿》をお示しになられたのです。この日、わたしたちが、《古い自分》を捜すよりも、《キリスト共に新しくされたいのちに生きる自分》を見出すことができるように、と。
わたしたちは、マリアのように、目の前に《生きておられるキリスト》がおいでくださっていて、見ていても、なかなか、それがキリストだと分からないかも知れません。《生きておられるキリスト》へと導いてくれる天使たちがいても、なかなか、キリストに気づくことができないかも知れません。それは、まだ洗礼を受けていない方も、すでに受けている者も、同じです。洗礼を受けていても、《生きておられるキリスト》がすぐそばまでおいでくださっていることが、なかなか分からないことがあるのです。
けれども、今日、ここに集められたわたしたちは、ここで確かに《生きておられるキリスト》を見る者とされましょう。何となれば、ここで、洗礼を受けられる方があるのですから。その人たちの中に《生きておられるキリスト》がお働きくださっているのでなければ、洗礼の恵みへと導かれてくることは、なかったのですから。
そして、わたしたちは、また、《生きておられるキリスト》を見る者として、あの《天使たち》の役割をも担う者とされたいのです。《死んだもの》を捜し、《古い自分》に固執している、世のすべての人々に向かって、《生きておられる方》のあることを示し、キリストと結ばれた《新しいいのち》へと誘う、貴い役割、キリスト者すべてに与えられた役割です。
キリストの光の道へ!
イースターの朝です。今日ばかりは、朝も昼も夜も、「イースターの朝」です。新しい始まりだからです。新しいいのちの始まりの日だからです。
この日、マリアが主イエスから告げられた御言葉を、心に刻みましょう。
「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」(17節)
天の御父のもとへ、真の神のもとへ、主イエスは上られます。けれども、それは、《生きておられるキリスト》との別れではありません。主イエスの御父は、わたしたちの御父、主イエスの神は、わたしたちの神。主イエスは、わたしたちを、ご自分の御父、ご自分の神のもとへと、導いてくださろうとしているのです。《生きておられるキリスト》の行かれた道は、御父なる神の光に至る道です。その道を行かれた主イエスは、わたしたちを、その道へと招いてくださっている。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(14:6)。
イースターの朝です。ここに共にいるわたしたちは皆、真のいのちに至るキリストの光の道へと、すでに導き入れていただいているのです。
祈り
主よ。ここに導かれました。天使たちと共に、復活の主と出会わせてください。新しいいのちに生き、御父の光に至る道を進み行かせてください。アーメン
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