復活節第2主日礼拝説教
「見なかった人へ」 日本基督教団藤沢教会 2010年4月11日
1 主はモーセに言われた。2 「人を遣わして、わたしがイスラエルの人々に与えようとしているカナンの土地を偵察させなさい。父祖以来の部族ごとに一人ずつ、それぞれ、指導者を遣わさねばならない。」
17 モーセは、彼らをカナンの土地の偵察に遣わすにあたってこう命じた。「ネゲブに上り、更に山を登って行き、18 その土地がどんな所か調べて来なさい。そこの住民が強いか弱いか、人数が多いか少ないか、19 彼らの住む土地が良いか悪いか、彼らの住む町がどんな様子か、天幕を張っているのか城壁があるのか、20 土地はどうか、肥えているかやせているか、木が茂っているか否かを。あなたたちは雄々しく行き、その土地の果物を取って来なさい。」それはちょうど、ぶどうの熟す時期であった。21 彼らは上って行って、ツィンの荒れ野からレボ・ハマトに近いレホブまでの土地を偵察した。22 彼らはネゲブを上って行き、ヘブロンに着いた。そこには、アナク人の子孫であるアヒマンとシェシャイとタルマイが住んでいた。ヘブロンはエジプトのツォアンよりも七年前に建てられた町である。23 エシュコルの谷に着くと、彼らは一房のぶどうの付いた枝を切り取り、棒に下げ、二人で担いだ。また、ざくろやいちじくも取った。24 この場所がエシュコルの谷と呼ばれるのは、イスラエルの人々がここで一房(エシュコル)のぶどうを切り取ったからである。25 四十日の後、彼らは土地の偵察から帰って来た。26 パランの荒れ野のカデシュにいるモーセ、アロンおよびイスラエルの人々の共同体全体のもとに来ると、彼らと共同体全体に報告をし、その土地の果物を見せた。27 彼らはモーセに説明して言った。「わたしたちは、あなたが遣わされた地方に行って来ました。そこは乳と蜜の流れる所でした。これがそこの果物です。28 しかし、その土地の住民は強く、町という町は城壁に囲まれ、大層大きく、しかもアナク人の子孫さえ見かけました。29 ネゲブ地方にはアマレク人、山地にはヘト人、エブス人、アモリ人、海岸地方およびヨルダン沿岸地方にはカナン人が住んでいます。」30 カレブは民を静め、モーセに向かって進言した。「断然上って行くべきです。そこを占領しましょう。必ず勝てます。」31 しかし、彼と一緒に行った者たちは反対し、「いや、あの民に向かって上って行くのは不可能だ。彼らは我々よりも強い」と言い、32 イスラエルの人々の間に、偵察して来た土地について悪い情報を流した。「我々が偵察して来た土地は、そこに住み着こうとする者を食い尽くすような土地だ。我々が見た民は皆、巨人だった。33 そこで我々が見たのは、ネフィリムなのだ。アナク人はネフィリムの出なのだ。我々は、自分がいなごのように小さく見えたし、彼らの目にもそう見えたにちがいない。」(民数記13章1〜2、17〜33節)
19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20
そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」22
そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」24
十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」26
さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。27
それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」28
トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」30
このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。31 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。 (ヨハネによる福音書20章19〜31節)
主イエスさまのご復活の喜びのうちに、新しい主の日を迎えました。この復活節第2の主日は、伝統的に「新生の主日」と呼ばれています。「新生」、すなわち「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」(Tペト2:2)という御言葉によって招かれたこの主日は、復活祭の洗礼の出来事と結び付いています。洗礼の白い衣を脱ぐ日でもあるため、「白衣日曜日」とも呼ばれるのだそうです。白衣を脱ぎ、しかし、目には見えないキリストの衣を着て、新しい一歩を踏み出す日です。
本日は、この礼拝の中で、新年度の教会学校奉仕者の祈りをいたします。本年度から、「CS合同礼拝」の聖書朗読が、同じ箇所になりました。今までは、教会学校の礼拝や分級に、子どもの信仰教育のために作られた教案誌を用いておりました。礼拝で朗読される聖書の箇所も、教案誌のカリキュラムに沿ったものでしたから、この「主日礼拝」や「主日夕礼拝」とは違う箇所が朗読されておりました。本年度からは、しかし、同じ聖書日課を用いることでスタートしましたので、どの礼拝にお出でいただいても同じ聖書の言葉が語られます。解き明かしは、違う言葉であっても、私たちが、神さまに呼ばれた一つの群れとして、一つのみ言葉をいただいて、一つのみ言葉を口ずさみながら、それぞれの持ち場に遣わされて行くということは、大きな恵みです。教会学校では、このような新しいスタートが導かれたのですが、この教団の聖書日課には、子どもたちが大好きな聖句カード(暗唱聖句)がないということになり、イラストレーターの方に特別にお願いして描いていただくことになりました。教会の大人の皆さんも、この暗唱聖句に子どもたちとご一緒に取り組んでくださったら、私たちは、同じ御言葉を口ずさむ教会になります。
本日の聖句カードの暗唱聖句は、「あなたがたに平和があるように」という復活の主のあいさつです。皆さんでしたら、本日の福音書の物語をお聞きになって、どの聖句に注目されたでしょうか。皆さんが伝えたいメッセージはどこにあるでしょうか。聖句カードの制作を依頼するに当たって、私はまず、牧師と共に4月分の暗唱聖句を選ぶ作業をいたしました。聖書を黙想して、これと思う聖句を牧師のところへ持って参りました。最初に選びましたのは、4月4日イースター礼拝で朗読された、ヨハネ福音書20章1~18節の箇所の暗唱聖句です。マグダラのマリアが最初に復活の主に出会った物語です。私は最初に、16節の「イエスが『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で『ラボニ』と言った」という聖句を選びました。主を見失って泣いていたマリアが、主イエスに出会った場面ですが、マリアはこともあろうに、主を園丁と勘違いします。けれども、主が「マリア」と呼ぶや否や、マリアはその方が主だとわかったのです。「マリア」と主が名を呼んでくださった時、マリアは復活の主に出会ったのです。私は、この復活の主に出会ったという、身震いするような瞬間が、この物語の急所だと思いました。けれども、村上先生は別の聖句を選ばれました。「わたしは主を見ました」という18節のマリアの証言です。シャッターチャンスとも言える決定的な<瞬間>を選ぶか、その後に繰り返されたであろう<証言>を選ぶかの違いなのですが、イメージしているのは同じ絵です。復活の主が、マリアに現れている場面です。
キリストと出会った体験は、何にも替えられないものであることは、本当だと思います。キリストを目の前に見たり、その肉声を聞いたり、手で触れたりしたというなら、きっと忘れることはできないと思います。主は、弟子たちの前に御自らを現されました。その出来事は一度だけではありません。マグダラのマリアに現れ、その晩、部屋に閉じこもっていた弟子たちに現れました。ところが、12弟子の一人でありながら、その決定的瞬間に居合わせなかった弟子がありました。トマスです。トマスは、その時「一緒にいなかった」とあります。トマスは、復活の主に出会った仲間たちの証言を聞き、かたくなに「信じない」と言います。かたくなに、と言うのは、トマスがいじけていたということではありません。本当に、信じられなかったのだと思うのです。
トマスは、福音書の中で「ディディモと呼ばれるトマス」と紹介されております(ヨハ20:24; 21:2; 11:16)。「トマス」とは、「双児」という意味のアラム語名です。「ディディモ」(ディデュモス)という名も、「双児」という意味のギリシャ語名です。ちょうどペトロが「ケファ」と呼ばれていたのと同じように、トマスは「ディディモ」と呼ばれていたとあります。「ペトロ」は、「岩」という意味の添え名でありました。主イエスが特別な意味を込めてつけられた名前です。「トマス」(双児)という名は、主イエスがつけられたとは記されてありませんが、それにしても、親が付けるには不思議な名です。このトマスは、聖書にはそれほど頻繁には登場してこない人物ですが、伝説によれば、後に、地の果てインドやイランへと渡って伝道したこと、伝道に生涯をささげて殉教の死を遂げたこと等が伝えられています。「トマス福音書」という文書の存在をご存知の方もいらっしゃると思います。あるいは、トマスのインドでの伝道活動を記した「トマス行伝」というものもあるそうです。この「トマス行伝」には、この「ディディモ」という名についてho didymos to Christo=iホ ディデュモス トゥ クリストゥ)すなわち、「キリストの双児の兄弟」という、トマスをキリストとより近しい存在としてとらえる思弁的な解釈が記されているそうです。聖書は、この名の由来については詳しく触れません。ある人々の間では、トマスは、英雄のように伝えられているのですが、私たちの教会では、どちらかというと「疑いのトマス」という方が一般的な印象になっていると思います。「双児」という名をつけられたトマスは、その名の通りに、自らの心の内に双つの違う思いを持っていました。主の弟子として、主を信じ、主に従い行こうとする思いを持っていました。その熱い思いから、敵対する者の前へ進み行かれる主イエスに続いて、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と、一生懸命になって言っています(ヨハ11:16)。けれども、主が本当に十字架の道を歩み始められた時、トマスは「一緒に死のう」とは思えませんでした。やはり従いきれない自分が残りました。主の道を信じきれない自分がありました。素の自分になったならば、自らの不信を隠すことはできません。正直であるがゆえに、「信」と「不信」、この双つの思いが「トマス」の内に居合わせています。トマスは、主のご復活の日、その場に居ませんでした。
一方、復活の主に出会った他の弟子たちは、どうであったでしょうか。「わたしたちは主を見た」と、その出来事を、トマスにそのままに伝えるのですが、トマスは信じないと言います。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」(25節)このトマスの言動は、否定的にとられがちですが、合理的です。非常に素直な人だと思います。こういう人たちに対して、私たちは、ときどき恐れを抱きます。率直に疑問をぶつけてくる、正直な人に対して、私たちは、語りうる言葉を持ち合わせていないのではないか、と感じてしまうのです。「わたしは主と出会った」と事実を言うほかないのですが、その言葉を堂々と否定する者がいます。弟子たちは、この信じないトマスと一緒になって、家中の戸という戸にみな鍵をかけて閉じこもっておりました。主のお姿が見えなくなってから、やはりユダヤ人が恐ろしくなっていたのかもしれません。
信じたい、しかし信じることのできない、双つの思いを持つトマスがあります。他方で、何と言ってトマスに説明すればよいのか、と考えている弟子たちがあります。色々な思いを抱えている者たちが一つところに集まっております。その日は安息日でした。まるで私たちのこの教会のようではないでしょうか。イースターを迎えた喜びの中にありながら、色々な思いをも抱えて、この礼拝に連なっている私たちです。しかし、その真ん中に、このただ中に、主イエスが再び立ってくださるのです。復活の主は、そのお姿を繰り返しお示しになります。そして繰り返し、繰り返し、「あなたがたに平和があるように。」とおっしゃいます。その御言葉は、今までの弟子たちのマイナスを、全く打ち消すものでした。主の十字架を前にして、主を知らないと言った裏切りを包み込む、主の御赦しがこの御言葉にはあらわれています。何度赦されても、根深く残る、私たちの恐れや疑いが消えるように、私たちが信じるものとして、安心して歩むことができるように告げてくださるのです。「あなたがたに平和があるように。」
この御言葉を前にして、私たちは、「わたしの主、わたしの神よ」と告白せざるを得ない出会いを、経験します。主に出会うことは、それ自体が貴い、かけがえのない経験です。「わたしの主、わたしの神よ。」主の釘跡を、その手で確かめるのも忘れて、トマスは、ただこう告白しました。けれども、弟子たちが、復活の主に出会った出来事は、ただ主の御前に立ち尽くした経験だったと言ってもよいと思います。しかし、その出来事からスタートしていった弟子たちの歩みは、目を見張るものがあります。「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と口にしながら、十字架まで主と共に歩めなかったトマスは、世界伝道へと出かけて行き、最期は殉教の死を遂げたと言われます。主を見た、というその事実にも増して、目には見えない主が生きて働かれる、今、主が共にいてくださる、という聖霊の導きこそが、弟子たちを生かし、歩ませ続けるのです。「聖霊を受けなさい。」主は、聖霊の息吹をお送りになります。弟子たちを押し出す聖霊は、主が十字架の死を前にして語られた、約束の聖霊です。弟子たちは、十字架の前には、主の語られる約束を、理解しませんでした。しかし今は、その約束がわかるのです。主が、結んでくださった約束が、ここに、確かに成就したのだと知る者とされたのです。
私たちもまた、主の祝福の約束を見失い、心の内に色々な思いを抱え込むことがあります。しかし、主はその思いを洗い流す水をお持ちでいらっしゃいます。それによって新しく生まれるようにと、「洗礼」の水を差し出してくださっています。その水は、私たちに、主の約束をはっきりと見えるようにします。イースターに、私たちの教会では、3名の方が洗礼を受けられました。私たちの群れから遣わされて行った川上清己先生が、昨晩教会を訪ねてくださったのですが、川上先生ご夫妻と共に新しく歩み始められた辻堂教会も、このイースターに3名の受洗者が与えられたそうです。私たちの群れに、そして全世界の主の教会に新しい兄弟姉妹が加えられました。今、その最初の歩みを、私たちはご一緒に歩んでいます。「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」(Tペト2:2)この招きの御言葉が聞こえてきます。思い煩いや、疑い、これらの複雑な思いを手放して、私たちは、混じりけのない聖霊を、慕い求めましょう。主は、私たちに、新しい生き方を告げてくださいます。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦されなければ、赦されないまま残る。」(22〜23節)復活の主がお与えくださった新しい使命を受け、主の平和のうちに遣わされてまいりましょう。
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