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復活節第3主日礼拝説教 日本基督教団藤沢教会 2010年4月18日 7それゆえ、牧者たちよ。主の言葉を聞け。8わたしは生きている、と主なる神は言われる。まことに、わたしの群れは略奪にさらされ、わたしの群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、わたしの牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている。9それゆえ牧者たちよ、主の言葉を聞け。10主なる神はこう言われる。見よ、わたしは牧者たちに立ち向かう。わたしの群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる。牧者たちが、自分自身を養うことはもはやできない。わたしが彼らの口から群れを救い出し、彼らの餌食にはさせないからだ。 今日は、「愛する羊の皆さん」と呼びかけたい気分です。詩編の交読から始まって、今日の聖書の御言葉はすべて、わたしたちが羊であること、主イエスに養われる羊の群れであることを、心に思い巡らさせます。 皆さんは、今日、羊の門を通って、ここにおいでになられたでしょうか。主イエスが「わたしは羊の門」とおっしゃられる、その羊の門を通って。 皆さんは、意識してか、無意識のうちにか、分かりませんけれども、必ずそこを通って、ここにおいでになられたはずです。 ここは、主イエス・キリストが、イースターにご復活くださった方が、今も生きておいでくださっている、わたしたちのついて行くべき羊飼いとしてお立ちくださっている、そう信じる者の集まりです。今、ここにおいでくださっている主イエス・キリストと、親しく交わり、御言葉に触れること、何よりもそのことに心を集める営みです。そのようなところに入ってくるためには、どうしたって、わたしたち自身の理性を用いた判断だけでは、どうにもならないところがあります。理性を働かせれば働かせるほど、主イエスと親しく交わり、御言葉に触れるところは、他にもあるように思える。ここである必要はないように思えてくる。いや、そもそも、そのようなところは必要ないとさえ思えてくる。 けれども、わたしたちは、どういうわけか、ここに来ることになりました。「羊の門」とご自身のことをおっしゃられる主イエスの存在が、わたしたち一人ひとりを、ここに導き入れてくださったからです。見えないお姿のキリストの、耳には聞こえないかも知れない呼び声に導かれて、わたしたち一人ひとりは、今日、ここに共にいるようにされました。 ここにおいでの皆さんは、この羊の門である主イエスを、はっきりと知ることがおできになるはずです。その気になれば、自分をここに導き入れた方、その入口を開いてくださった方が、主イエス・キリストであることを、認めることができるはずです。 もちろん、すでに洗礼を受けたわたしたちは、そのことを知っています。そのことを認めたからこそ、わたしたちは、洗礼を受けました。洗礼によって、主イエスが、わたしたちの羊の門としてはっきりとしるしづけられています。けれども、たとえ洗礼をまだ受けていらっしゃらなくても、すでに、皆さんは一人残らず、確かに羊の門である主イエスを通ってこられた。どうか、そのことを知っていただきたい。すでに行き来している羊の門に、まだはっきりと気づいていらっしゃらないならば、これからも気づかないままで行き来なさるのではなくて、はっきりと羊の門を通って行き来していることに気づいてくださって、その羊の門を、ご自分にとって大切なものとして、心に刻んでいただきたい。できれば、わたしたちと共に、洗礼によって、その羊の門=主イエスをしるしづけていただきたい。それが、わたしたち教会に連なる者の願いです。 《良い羊飼い》に導かれて わたしたちが羊の門を通って、そこに入るのは、そこが安全なところだからです。囲われていて、主イエス・キリストが確かに共にいてくださって、主に導かれて来たたくさんの仲間の羊と間近で触れ合うこともできる。安全かつ安心なところ。主イエスが羊の門を通じて招き入れてくださるのは、そういうところです。 けれども、また、この羊の門を通じて招き入れていただくところは、ただ安全安心に惰眠をむさぼるところ、というのとは違うかも知れません。もちろん、主イエスがくださる安全と安心を満喫してよいのです。ただ、その上で、その安全と安心をわたしたちに与えてくださっている方、良い羊飼いである主イエス・キリストと出会う。その姿を、その御声を、その御心を、よく知るようになる。それが、羊の門の中、囲いの中に招き入れられたときに、安全と安心をいただきながら、わたしたちが心しておくべきことなのではないかと思います。 わたしたちは、いつまでも羊の門の中、教会の営みの中だけにいるわけではありません。羊の門の外、教会の外、わたしたちの生活の場に、出ていきます。そここそが、わたしたちが現実に生きいていくところだからです。羊が牧草を見つけるところ、わたしたちが人間として生きていくところです。 そこに出ていくとき、わたしたちは、しかし、一人で出ていくのではありません。良い羊飼いに導かれて、出ていくのです。羊が囲いの外に出て行くときに、羊飼いが伴い導くのは、当然のことです。良い羊飼いである主イエスが、わたしたちの歩むこの世の現実の生活の中にまで、共においでくださる。そのことを忘れるならば、わたしたちにとって、それは危険きわまりないことです。主イエスのお姿や御声を思い出せないとしたら、どうしてこの世の現実を歩んでいくときに、安全な導きを得ることができるでしょうか。 だから、わたしたちは、羊の門を通った囲いの中、教会の営みの中に招き入れられて、主イエスのくださる安全、安心を満喫させていただいているときにこそ、わたしたちに安全をくださる主イエスのお姿、御声、御心を、深く知るようにならせていただきましょう。ここ、教会の営みの中でこそ、主イエスのお姿をはっきりと心に刻み、その御声をはっきりと耳に憶え、その御心を聞き分けられるようにならせていただく。そのことに、何よりも集中したいと思うのです。 《一人の羊飼い》と一つになって 教会附属幼稚園で、今年も、子どもたちとの礼拝を重ねていこうとしています。子どもたちがきっと大好きになるのが、この良い羊飼いと羊のお話しです。はじめてお話を聞いたとき、羊など見たことのない子どもたちは、ポカンとした顔をしています。ところが、小さな羊の人形を使いながら、何度も何度も羊飼いと羊のお話しをしていると、子どもたちは、不思議なことに、ある日、わたしの前で小羊になり始めるのです。礼拝の終わりに、一人ひとりわたしの前まで進み出てきて祝福を受けるときに、小さな子どもたちが、もっと小さくなって、小羊になりきって進み出てくるようになる。良い羊飼いである主イエスのお話しをする牧師を羊飼いに見立てているかのように、そうするのです。 それだけではありません。小羊になりきっていた子どもたちが、あるときから、新しい行動を始めます。ある子どもたちは、祝福を受けるために進み出てきたときに、わたしがお話しに用いてポケットに差し込んでいる羊の人形の頭を撫でるようになるのです。いいえ、牧師が子どもたちの頭に手を置いて祝福するように、羊の人形の頭に手を置いて祝福するようになるのです。 それは、小羊が、羊飼いの心を知るようになった姿のように、わたしには思えます。わたしたちは、主イエスという羊飼いに導かれ、養われる羊に過ぎないけれども、羊飼いの御心を知るようになったならば、羊飼いの働きの一部にでも関わらせていただきたい、と思うようになってくるものなのだと思います。 主イエスの御心は、今はまだ囲いの外にいる多くの人たち、わたしたちの家族や友人、隣人たち、すべての人たちが、主イエスの羊として導かれるようになることを願われている。そのためにご自分の命さえ捨てられるという。すべての人が、ただ一人の羊飼いに導かれて、それによって、すべての人が、分裂した群れではなく、ただ一つの群れに生きることができるようになるために。 主の御心に、わたしたちは、たとえ小さな羊の一人に過ぎなくても、お応えしたいと思います。ペトロが復活の主から「わたしの小羊を飼いなさい」(ヨハ21:15)とのご委託をいただいたように、きっと、わたしたち一人ひとりが、主イエスのお働きの一部を担うようにしていただけるに違いありません。 祈り 復活の主よ。羊の門としてお招きください。良い羊飼いとしてお導きください。羊に過ぎない私どもを、あなたの御心のためにお用いください。アーメン |