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復活節第4主日礼拝説教 日本基督教団藤沢教会 2010年4月25日 9穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。10ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。 聖書の御言葉から「愛の掟」をご一緒に聴きました皆さんを、特別な思いで「愛する皆さん」とお呼びしたいと思います。「愛する皆さん」は、「愛の掟」を共に聴くようにと招かれた皆さん、「愛の掟」を共に学ぶようにとひとつの教会に加えられた皆さん、「愛の掟」を共に守るように励まし合う皆さんだからです。 「愛する皆さん」は、まず何よりも、「神を愛する皆さん」でありましょう。ここにおいでの皆さんは、間違いなく、神を愛する皆さんです。もちろん、皆さんの中には、「神を愛しているつもりなんてない」とお考えの方もあるかもしれません。けれども、たとえそうお考えになられているとしても、今、ここにおいでになられているのは事実でしょう。ということは、皆さんは一人残らず、神を愛する人になっていらっしゃる。ここは、神を礼拝するところ、神に触れていただくことを求めて、神の御前に進み出てくるところだからです。そういうところにおいでになられている皆さんは、たとえそのつもりがなくても、もう立派な、神を愛する一人ひとりでありましょう。 多くの「神を愛する皆さん」とご一緒にここに集い、礼拝をささげられることは、幸いなことです。「神を愛する人」が、これだけいらっしゃる。いつも礼拝堂があふれるほどとはいきませんし、代わる代わるですが、「神を愛する人」の仲間を一人でも多く見ることは、わたしたちの喜びです。何よりも、励まされます。実際、わたしたちは、一歩教会の外に出てしまったら、どれほどの「神を愛する人」と出会うことができるでしょうか。そういうところでは、わたしたち一人ひとりも、残念ながら、「神を愛する一人」であることを明らかにしながら歩むことは難しいのです。ですから、なおさら、わたしたちは、一歩教会の外に出てしまうと、「神を愛する人」の仲間と出会うことはほとんど不可能なのではないかというような毎日を送ることになるのが現実なのかも知れません。 そう考えると、ここにお集まりの「神を愛する皆さん」は、「神を愛する皆さん」である以前に、何よりも「神の愛する皆さん」でいらっしゃるというべきかもしれません。「神に愛されている皆さん」です。 教会の外の日々の生活の中で、ほとんど「神を愛する」ことと無関係のような毎日を送っているのかもしれない者が、にもかかわらず、日曜日の朝のひととき、さまざまな障害を乗り越えて、ここに集まることができたのです。いつも、とはいかなくても、ここに来ることができ、「神を愛する人」の仲間と共に礼拝することができる。それは、どうしたって、皆さんが、わたしたちが、神に愛されているからだ、としか言いようがないと思うのです。 神の愛する皆さん、神に愛されている皆さん。今日、ここに集められて、神を礼拝することができるというのは、当たり前のことではありません。神が、わたしたちを愛してくださっている。だからこそ、わたしたちは、神を愛することから離れていた日々の生活にもかかわらず、ここに集められ、神を愛する人の仲間と共に礼拝にあずかることが、ゆるされているのです。 キリストが愛されたように 主イエスが、弟子たちに「愛の掟」を語られたのは、幾度あったのでしょうか。山上の説教の中でも、神殿での論争の中でも、「愛の掟」を語られました。弟子たちは、何度も、主イエスから「愛の掟」を教わったことでしょう。けれども、主イエスは、「愛の掟」を教えられた最後の機会(今日の福音書の御言葉)に、不思議なことを言われました。「あなたがたに新しい掟を与える」(34節)と言われたのです。どうして、「新しい掟」なのでしょうか。 それは、こういうことかもしれません。主は、「新しい掟を与える」と言われて、こう語られました。 「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(34節) 「わたしがあなたがたを愛したように」。主は、そう言葉を加えられたのです。なぜでしょうか。神のお与えくださった「愛の掟」を、理想論の空文にしてしまわないためだったのではないでしょうか。 「隣人を愛しなさい」、「敵を愛しなさい」、「互いに愛し合いなさい」。多くの人が、その価値を認めながら、「それは理想論に過ぎない」といって、何と簡単に捨て去ってしまうことでしょう。わたしたちは、もちろん、そんなに簡単には、あきらめません。隣人を愛し、敵を愛し、互いに愛し合う者となることができるように祈り、努力したいと願う。ただ、結果は、わたしたちの場合も、その努力が失敗に終わることは多いのです。隣人を愛そうと努力しても、相手は何も応えてくれず、虚しさを憶えることが、何と多いことでしょう。敵を愛そうと努力しても、むしろ、今まで以上に手痛い攻撃を受けてしまうことが、何度あったことでしょう。「互いに」ということを諦めて「一方通行でよい」と思っていても、わたしたちの人を愛する努力は、失敗に終わることが少なくない。 それは、本当には「愛」が分かっていないからなのではないでしょう。いや、本当に「愛された」ことを分かっていないからなのではないでしょうか。 主イエスは、弟子たちを愛されたのです。弟子たちに、愛されていることを分からせようとなさったのでしょう。 主イエスが多くの人々に向けて行われた憐れみ深い愛の行為を、弟子たちは見ていたはずです。けれども、主イエスは、最後に、弟子たちに向けて愛を示されることをなさいました。 主イエスは、まず、弟子たちの足を洗われました(13:1〜11)。そして、「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」(13:14)と教えられました。しかし、それは序の口でした。主イエスは、本当に弟子たちを愛することを、示そうとなさった。ご自分の命を、弟子たちに差し出し、委ねたのです。 イスカリオテのユダ。主イエスが新しい掟をお教えになられる直前に、部屋から出て行ってしまったのです。いいえ、福音書は、主イエスがユダに向かって、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」(13:27)と促されて、それでユダは出て行ったというのです。 サタンが、ユダの中に入った。そうです。けれども、そのサタンが入ったユダに、主イエスは、ご自分の命を差し出し、委ねるとおっしゃられる。ユダの、どうしようもない罪の行為に、主イエスは、ご自分の命をあずけるとおっしゃられる。どうしてでしょう。どうして、罪を犯すことが分かっているユダに、「お前のしようとしていることに、信頼するよ」というような態度を、主イエスは取られたのでしょうか。それは、主イエスが、ユダを愛されていたからです。ユダを、本当に愛していることを、主イエスは、このとき、はっきりと示そうとなさっていらしたのです。 ユダは、主イエスが捕らえられた後、自分の犯した罪を後悔して、自殺したと、聖書は伝えています。ある人たちは、ユダは、そうして永遠の地獄に堕ちたと言います。けれども、わたしは、むしろ、こう思うのです。主イエスは、このユダのためにこそ、十字架で死なれたのだ、と。ユダの死を、だれよりも深く悲しまれたのは、主イエスでありましょう。主イエスは、そのユダの死に、十字架の死をもって寄り添われた。ユダを、他の弟子たちと同じように、いやそれ以上に、愛して、この上なく愛し抜かれた(13:1)のです。 神の愛を信じて ヨハネの手紙は、わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです(Tヨハ4:19)と、わたしたちに教えます。神が、わたしたちをどのように愛してくださるのか。それは、主イエスが弟子たちを愛された、その愛し方を知るときに、分からせていただけることです。 そして、主イエスは、いえ、父なる神は、わたしたちに、同じ愛に生きるようにとお招きくださっています。自分のもっとも大切なもの、命、人生、時間を、差し出し、委ねる。 そのように生きた、多くの信仰の先達は、皆、神の愛を信じて、そのように生きたことを、思い起こしたいと思います。誰彼と名前を挙げる必要はないでしょう。ただ、一人の、貧しい人々に仕える生涯をまっとうした女性の言葉を、紹介いたしましょう。 「愛を種蒔きして、熟するのを待つと、平和という果実がみのります。わたしたちは愛するため、そして、愛されるために、生まれてきたのです」(マザー・テレサ) 愛する皆さん。神が愛してくださっています。主イエスが、愛を示してくださっています。沈黙して、心の深いところに集中して、神が愛してくださっていることを、悟らせていただきましょう。そして、教会の中でも、教会の外でも、大胆に愛に生きる者として知られることを、喜びとさせていただきましょう。そこに、復活のいのちが、神の国のいのちが、溢れ出るのです。 祈り 主よ。あなたの御愛を悟るのに遅い者です。主の愛に目を注ぎます。あなたの愛に生きる者とならせてください、このわたしも、すべての人も。アーメン |