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復活節第5主日礼拝説教 日本基督教団藤沢教会 2010年5月2日 1イスラエルの人々は、エジプトの国を出て三月目のその日に、シナイの荒れ野に到着した。2彼らはレフィディムを出発して、シナイの荒れ野に着き、荒れ野に天幕を張った。イスラエルは、そこで、山に向かって宿営した。 主イエスは、このぶどうの木のたとえで、繰り返し、「わたしにつながっていなさい」とおっしゃいます。「わたしから離れてはいけない。わたしにつながっていなさい。わたしの愛の内にとどまっていなさい」。それは、わたしたち人間が、本当に人間としての実りを豊かに実らせるためには、どうしても、主イエスにつながっていなければならないからです。 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(5節)。小さなこどもでも直感的に理解できる、ぶどうの木のたとえです。このたとえをお語りになられる主イエスにつながっているために、いや、「わたしもあなたがたにつながっている」(4節)とおっしゃってくださる主イエスにつながっていただいていることを確かめるために、わたしたちは、今日も、ここに集まってきました。わたしたちが枝としてつながっているべき「ぶどうの木」である主イエス・キリスト。その方をお迎えする喜びの歌を歌って、この礼拝を始めました。「ぶどうの木」である主イエスの御言葉を、わたしたちの実りを実らせるために必要不可欠な命の糧として、すでに注いでいただきました。そして、「ぶどうの木」の命そのものとして、この後、その御体と御血をいただく聖餐の祝いにも招かれています。 今、わたしたちは、ここで主イエスにつながっていることを、本当によく確かめたいと思います。間違いなく主イエス・キリストという「ぶどうの木」につながっているでしょうか。他の「ぶどうの木」につながってしまっていませんか。 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」(1節)と、主イエスは、このたとえを語りはじめられました。主イエスは、もしかすると、弟子たちと共にぶどう園の傍らを通って歩いていたのかも知れません。主イエスは、ただ口でそう言っただけでなく、腕を伸ばして、体全体でぶどうの木の形を真似て見せたのかも知れません。そして、弟子たちも、「いいえ、イエスさま、先生のお父上は、大工でした」などと間抜けなことは言わなかったでしょう。ぶどう園を造り、ぶどうの木を育てる農夫。それは、天の父、神のことを指していると、弟子たちも皆、すぐに理解したでしょう。けれども、主イエスが、ただ「ぶどうの木」とおっしゃられずに、「まことのぶどうの木」とおっしゃられたことは、弟子たちにとって、どこか特別な響きをもって聴かれたのかも知れません。ただの「ぶどうの木」ではない。どこにでもある「ぶどうの木」ではない。「まことのぶどうの木」です。 ぶどう園の農夫は、ブドウが実れば何でも良い、というわけではないでしょう。本当に良い実が実るぶどうの木をこそ、大切にする。「農夫が愛したぶどうの木」と言ったら大げさでしょうか。でも、要するに、「まことのぶどうの木」とは、そういうぶどうの木です。神が、ご自身のぶどう園で、つまりこの世界で、期待している実りを実らせることのできるぶどうの木。その意味で、神の御心、その喜びをあらわすことのできるぶどうの木。それが、「まことのぶどうの木」です。 豊かに実を結ぶための手入れ 「まことのぶどうの木」である主イエス・キリストに、つながっている。つながっていていただく。わたしたちは、そのようにして、本当に神が期待していらっしゃる豊かな実りを、実らせるものとしていただきます。 それは、どのような実りでしょうか。主イエス・キリストのなさった御業、お語りになられた御言葉、それが、私たちの行いとして、私たちの言葉として、あらわされるようになることでありましょう。 そう、わたしたちは、そういう実りを、自分ではなかなか自信をもって自覚できません。でも、信仰の先達、あるいは、今共に歩んでいる信仰の仲間、もしかしたら、後から信仰に入った信仰の友、そういう人たちの中に、いくらでも見てきたのではないでしょうか。 先日、地上の生涯を終えられた姉妹を、天のみ許にお送りしましたが、わたしたち教会の家族に向けて見せてくれたあの姉妹の笑顔、あの喜びを語る声を、わたしはいつも、主イエスと出会わせていただくような思いで拝見し、また聴いていたことを思い出します。なかなか皆さんが使いたがらない階段昇降機に、喜々として乗っていらした姉妹は、何にでも喜びを見つける秘訣を、主イエスからいただいていたのではないかと思ったりします。そう、今日の御言葉の中で、主イエスが、「わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるため」(11節)とおっしゃった、そのとおり、主イエスの喜びを自分の内に満たしていただいている人。それは、もちろん、あの姉妹だけでなく、わたしたちの信仰の家族の中に、あの方、この方と、思い起こすことができます。 ただ、もちろん、そういう方たちが、はじめから、主イエスの喜びをご自分の内に満たしていらした、というわけではないでしょう。生まれつき、主イエスの御業や御言葉を、自分のものにしていらしたというわけでは、決してないでしょう。キリストを映し出す器としていただくために、その方たちは、主イエスに、本当に自分のことを委ねることをなさったのです。農夫である神に委ねて、本当に必要な手入れをしていただくことを、祈り願われたのに違いない。 ぶどうが豊かに実りを実らせるために、ぶどうの枝は、ぎりぎりまで刈り込まれる必要があるのだそうです。主イエスも、このたとえで、そのようにおっしゃられる。しかも、主イエスは、こうもおっしゃられる。「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」(2節)。 わたしたちは、いろいろな形で主イエスにつながります。礼拝に集い、讃美を歌い、聖書の御言葉を聴き、聖餐にあずかります。あるいは、「自分は、主イエスにつながっている者として、このことを実践している」ということを、証ししてくださる方もあるでしょう。けれども、主イエスは、そういう、もしかすると主イエスにつながっているためにおこなってきた「キリスト者らしいふるまい」をさえ、「それは、あなたにとって実を結ばない枝だ」と御父がご判断なさって、それを取り除かれようとされることがある、とおっしゃられるのです。 これには、わたしたちは抵抗があると思います。自分が、キリスト者として大切にしていること、こだわっていること、譲れないと思っていること。だれにでもあります。けれども、それが、神の目から見て、じつは実を結ばない枝かもしれないのです。神は、それを剪定しようとなさる。わたしたちは抵抗する。抵抗して、「取り除こうとしているのは、神ではなく、悪魔の仕業だ」と考えたりする。そういうこともあるかもしれません。けれども、主イエスは、「それをなさるのは、神だ」とおっしゃられるのです。わたしたちが、本当にキリストとつながっている者として、豊かな実を結ぶために、神は、わたしたちの「キリストとつながっていようとしているところ」をさえ刈り込んで、取り除かれる。そこに、わたしたちの、実は悪いものが隠れているからです。実りを実らせるのを邪魔しているものが、隠れているからです。 それは、痛みを伴うものかもしれません。それでも、わたしたちは、勇気をもって、神に手入れをしていただきたいと思います。そのようにして、キリストの喜びを、そのお顔から、そのお声から、あふれさせていらした先輩の信仰者たち、今いる信仰の仲間たちが、現にいらっしゃる。わたしたちも、その歩みを、追いかけたい、共に歩ませていただきたい。主イエスが確かにおいでくださるところで、教会の群れの交わりの中で、わたしたちは皆、一人ひとり、ますますキリストに似た者としていただくのです。 祈り まことのぶどうの木の一枝としてください。主につながる私どもの余計な知恵も力も刈り込んでください。本当に豊かな実りだけをお与えください。アーメン |