復活節第6主日礼拝説教
「わたしたちの願い、喜び」 日本基督教団藤沢教会 2010年5月9日
23 アブラハムは進み出て言った。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。24 あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。25
正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」26
主は言われた。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」27 アブラハムは答えた。「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。28
もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか。」主は言われた。「もし、四十五人いれば滅ぼさない。」29
アブラハムは重ねて言った。「もしかすると、四十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その四十人のためにわたしはそれをしない。」30 アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう少し言わせてください。もしかすると、そこには三十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「もし三十人いるならわたしはそれをしない。」31
アブラハムは言った。「あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、二十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その二十人のためにわたしは滅ぼさない。」32
アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」33
主はアブラハムと語り終えると、去って行かれた。アブラハムも自分の住まいに帰った。
創世記 18章23〜33節
12 言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。13 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。14 その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。15 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」16 「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」17 そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」18 また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」19 イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。20 はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。21 女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。22 ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。23 その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。24 今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」 ヨハネによる福音書 16章12〜24節
大きな連休が明けて、私たちの生活に再びいつものリズムが戻ってまいりました。少なからず疲れをおぼえながら、新しい週を迎えられた方もいらっしゃると思います。連休中に特別な過ごし方をされた方も、いつも通りに過ごされた方も、この一つの礼拝堂に集められました。この礼拝に招かれた皆さんが、神さまから新しい元気をいただいて、ここから出て行くことができるようにと願っております。連休中は、教会では特別なイベントを企画いたしました。3日に、高校生会の新入生歓迎会でバーベキューをしました。5日には、恒例の青年バーベキューをして、こちらは今年度、工夫してくださって「やきとりの会」になりました。子ども連れで参加してくださった子育て世代の家族や、久しぶりに顔を出してくれた高校生、青年方を迎えることができました。片付けの時間になったキッチンでは、出産を間近に控えた姉妹を囲んで、出産を経験された方々のそれぞれの出産エピソードで話が盛り上がりました。出産は本当に痛い、という話です。どれほど痛かったかというお話を、普段あまり聞かないような形容で表現してくださって、私は、それぞれの方のお話を伺いながら、本日朗読された福音書の御言葉を思い出しました。「女は子供を産むとき、苦しむものだ。」(ヨハ16:21)この御言葉です。また、続けてこのようにも言われています。「しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。」教会のキッチンでは、出産がいかに苦しかったか、どんなに痛かったか、というお話だったので、私は、少し立ち止まって考えました。出産は、実際の経験者にとっては、一生忘れることができないような、普段使っている言葉では表現できないほどの痛みなのだと言われます。主イエスは、ご自分で出産を経験されなかったから、「もはやその苦痛を思い出さない」とおっしゃったのでしょうか。
本日の朗読を聞きました福音書の御言葉は、主イエスの「告別説教」と呼ばれる箇所です。ヨハネ福音書の14〜16章、そして17章には、最後の晩餐の後、主イエスが弟子たちに語られた長いメッセージ、祈りの言葉が記されております。主イエスが、天の御父のもとに行かれるとき、すなわち十字架の死が切迫したとき、ご自分の弟子たちを愛され、「この上なく愛し抜かれた」(13:1)とある通りに、弟子たちをそばに寄せて、惜しみのない言葉で最期の教えを語られました。ヨハネ福音書には、その冒頭に、主が御自ら弟子たちの足を洗われた出来事が伝えられています。その最後の晩餐の時から、主の語られる御言葉が次第に理解しがたいものになっていきます。「心を騒がせるな。…わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」主は、これまでに何度も受難の予告をされました。けれども、そのようにおっしゃる主に対して、12弟子の一人であるトマスは、困惑を隠しきれません。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちにはわかりません。」(ヨハ14:5)
トマスだけではない、他の弟子たちもまた互いに顔を見合わせて、主がおっしゃることは一体どういう意味なのかと論じ合いました。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは何のことだろう。」「…何を話しておられるのかわからない。」(ヨハ16:17〜18)主イエスの言葉は、弟子たちにとって不可解なものでした。主イエスは、しかし目の前で理解しない弟子たちに忍耐強く励まされます。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れる、すなわち来るべきときに弟子たちが直面しなければならない苦難と迫害とをはっきりとお示しになり、しかしその悲しみは必ず喜びに変わるのだとお話になります。まるで子を産む女性のように、子が生まれれば「一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない」。女性が子を産む陣痛の比喩は、聖書の中でもいくつか数えることができます。私たち人間の基本的な営みを用いたたとえとして、「産みの苦しみ」という文句は、一般的にもよく使われます。子を産むということは、誰もが経験することではありません。しかしながら、私たちは皆、生まれる側の「出生」は経験しております。その痛みを伴いながら新しい生命を生み出す出産の力に共通の信頼感を持っていると言ってもよいと思います。主イエスもまた、例にもれず、一人の女性の胎からお生まれになりました。主イエスのお生まれのとき、母マリアはヨセフと共に旅中にあり、産院はおろか宿さえもありませんでした。十分な準備のない馬小屋での出産は、なんと大変だったことかと思います。主イエスがそのような過酷な出産を通って生まれてきたお方であることは、驚くべきことでもあります。ルカ福音書には、主イエスが12歳のときのエルサレム巡礼の記事がありますが、その帰り道に、両親は主イエスを見失ってしまいます。本気になって主イエスを捜し回らなければならなかった母マリアは、主を見つけるなり、声を荒げます。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」(ルカ2:48)子に対する親の心配が、時にヒヤっとしたり、時にカッカと怒り出してしまったりするほど、身を乗り出してわが子に手をかけようとする親の愛情がマリアの言葉に表れていると思います。本日は「母の日」でもあり、聖壇には母の日を記念したあたたかな献花がささげられています。衝撃的な痛みに始まる親の愛が、どれほど偉大で、その子どもの生涯を支えるか、ということは、今日、一概には言えないことであるかもしれません。しかしながら、私たちがどのような家庭にあっても、この地上に生まれ出た命そのものの内に、大変な愛が表されていることを思わないではおられません。私たちのこの命をこの上なく愛し、喜びとされる方に私たちは出会わされるのです。イザヤ書には、神が母親のイメージで語られる御言葉があります。「今、わたしは子を産む女のようにあえぎ、激しく息を吸い、また息を吐く。」(イザ42:14)今や、神御自らが、激しい呼吸をもって新しい命を生み出されるのだとおっしゃるのです。
主イエスが十字架に引き渡される夜、弟子たちに語られたこの「産みの苦しみ」の言葉もまた、一般論としての教訓ではありません。人の一生は山あり谷ありで、浮き沈みがあり、悲しんだと思えば次には喜びがくる等といった人生の法則として、これらのことをお語りになったのでないのです。「悲しみが喜びに変わる」というのは、単に私たちの感情が変化するということでもありません。出産の苦痛を思い出せないというのは、あたかも何もなかったかのようにその苦痛を忘却するのではなく、むしろその悲しみや苦しみが、どれほど喜びを待ち望んでいたか、ということを語る言葉とされるのです。私たちには痛みや苦しみがあります。しかしその悲嘆の中にありながらも、その苦痛が、喜びの種を内に宿したものであることを知っていること、これこそが本当の強さなのだとおっしゃるのです。「一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。」主は、十字架の死を前にして、身をもってこの言葉をお示しになりました。
新約聖書に記される最も古いと言われる教会の伝承の一つは、最後の晩餐の出来事を伝える言葉です。「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これがあなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。」(Tコリ11:23〜24)とあります。初代教会の人々は、この主の晩餐の制定を何よりも大切にしました。「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心」であったと伝えられている通りです(使徒2:42)興味深いことは、私たちの守るこの聖餐の食卓が、「パン裂き」と呼ばれていることです。こう申しますのは、教会のキッチンで、あるお母さんが出産を「骨盤が裂かれるような痛み」だったとお話されていたからです。「裂く」という言葉は、非常に強い、暴力的な響きをもった言葉です。言うまでもなく、「パンを裂く」とは、主イエスの最後の晩餐での所作ですが、主の御体が裂かれることを象徴しています。主の御体が裂かれたのは、私たちのためであり、私たちがその裂かれた御体に与るためです。釘打たれた手や槍で刺されたわき腹、主イエスの御体に暴力は降りかかります。主イエスの御からだを引き裂かせる暴力とは、それだけではない、この世の権力であり、この世の権力者としての私たちの姿ではないでしょうか。この世の力をこそ誇りたいと願い、それゆえに神に対してソッポを向いて歩もうとする私たちの姿です。御言葉など聞かずとも生きていけるのではないか。実際、多くの人がそうやって生きているではないかと疑う私たちに対して、また、この苦しみは誰にもわからないのだからと心の内に呟き、自分は一人で生きていこうとする私たちに対して、主は、御自分を差し出され、その御体を裂かれました。私たちがそれを分かち合うことができるようにです。「わたしは命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」さまざまな思いにとらわれて躊躇する私たちに、主が進み出てくださり「取って食べなさい」とその命のパンを裂かれたのです。それは、主がその御体の裂かれる痛みにもかかわらず、私たちが新しい命に生まれ、生きることを待ち望まれるからです。
礼拝堂には、聖餐卓が真ん中に置かれております。本日は、聖餐を祝うパンとぶどう汁の準備はありませんが、私たちの教会で、ほぼ毎月の第一主日に与る聖餐は、教会の伝統により、洗礼を受けた方だけが与ります。洗礼を受けるということは、私たちが、自力で、あるいは自分一人で生きていこうとする鎧を捨てて、主の深い憐れみに身を委ねることです。私たちの努力ではなく、主の恵みの確かさの中に身を委ねて生き始めることです。主は、私たちがこの恵みに生きるように、この恵みの糧によって生きるようにと、御体を差し出されます。私たちが進み出て、この御体に与るとき、主は私たちの内側にやってきてくださり、私たちの内にあふれる喜びとしてご臨在くださるのです。本日の福音書で主はお告げになります。「わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。」(ヨハ16:22)この再会の喜びとは、十字架で死なれた主イエスが、3日目にはよみがえられ、弟子たちの前に現れたという瞬間的な喜びではありません。復活の主に出会った弟子たちが本当にわかった喜びです。すなわち、主は、目には見えなくても、いつも共にいてくださる!復活の主といつも一体になって生きる喜びです。私たちの地上の喜びは、過ぎ去ります。しかし主と共にある喜びは、永遠に通じる喜びです。何者も、死のとげさえも、この喜びを奪い去ることはできません。私たちは、この喜びをこそ願い、この喜びを語る伝道へと共に進んでまいりましょう。
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