説教・祈祷の音声は左のスタートボタンを押してください。 音量も調整できます。 |
![]() ↑スタートボタン |
印刷用PDF |
---|
復活節第7主日礼拝説教 日本基督教団藤沢教会 2010年5月16日 1 主が油を注がれた人キュロスについて、主はこう言われる。 主イエスのご復活を祝うイースターから四十日目は、主の昇天の記念日。今日の御言葉は、主キリストが地上でのすべてのお働きを完成されて、天の天にいます万物の父なる神の御許にいらっしゃることを告げ教えています。 その中で、福音書の御言葉が伝えるのは、主イエスの祈りです。十字架に架けられる日の前夜、最後の晩餐の後に、弟子たちの見守る中で天の御父に向かって、主は祈られました。このとき、主イエスは、いよいよ天の御父のもとにお帰りになるときが来たことを悟られていたのです。そこで、ご自身の地上での働きが確かに完成されるように、つまり、弟子たちのために、弟子たちに続く者たちのために、また全人類のために、祈られたのです。 弟子たちは、どのような気持ちで、この祈られる主イエスのお姿を見ていたのでしょうか。その祈りの言葉を耳にして、どのような思いを与えられていたのでしょうか。主は、自分たちのために祈ってくださっている。弟子たちは、何よりもそのことを、深く心に刻んでいたのではないでしょうか。 自分のために祈ってくれる人がいる。祈り続けてくれている人がいる。そのことに気がつくことは、本当に大きなことです。わたしの取るに足りない人生の中でも、あの人、この人が、自分のために祈ってくれているということに気づくことができたことは、今ある自分にとって大きなことでした。今ここに牧師として立つことができるのも、この教会の信仰の家族の皆さんが祈りのうちに覚えてくださっているからこそです。信仰の家族の皆さんが牧師のために祈ってくださっている。そのことを知らずに牧師として立ち続けることは難しい。ほとんど不可能です。それは、皆さんも同じだと思います。信仰の家族のあの人、この人が、自分のことを祈りに覚えてくれている。そのことを知らずには、わたしたちは、教会に留まり続けることも、信仰に立ち続けることも、本当に難しい。 弟子たちは、主イエスの祈りの言葉を聴いて、そこで自分たちのために祈ってくださっている主に気づきました。いや、今までも、主イエスは、弟子たちのために祈ってくださっていたでしょう。けれども、この最後の晩の祈りは、特別であったのです。主が十字架で死なれて、三日目に復活して現れてくださって、弟子たちの新しい歩みが始まったときに、恐らく、彼らは、互いに語り合ったのです。「主は、最後の晩に、わたしたちの目の前で、わたしたちのために、こんな言葉で祈ってくださった」。そう語り合いながら、弟子たちのうちには、喜びがあふれたのに違いありません。「主は、復活されて、天の御父のもとに昇られて、今は、見えるお姿ではいらっしゃらなくなった。でも、主は、あの晩にわたしたちのために祈ってくださった主は、わたしたちの中に、今も確かにおいでくださっている。主は、わたしたちの中で、生きてお働きくださっている」。 主イエスの栄光は、わたしたちによって! わたしは、ときどき、自分の祈りの貧しさに落胆させられます。祈りの中で、本当に神と向き合っているだろうか。神との交わりをいただくことができているだろうか。神に深いところで触れていただくことができているだろうか。むしろ、無駄なお喋りや美辞麗句、決まり文句を口先で祈っているばかりなのではないか。 そう思わされるのは、信仰の家族の交わりの中で、本当に深い祈りに触れさせていただくことがあるからです。ああ、この人は、本当に神の御顔を確かめながら、深いところでその御手に触れていただきながら、祈っていらっしゃる。そういう人がいらっしゃるのです。ご自分で、そういう自覚があるか分かりません。はっきりと自覚されていらっしゃる方もあるでしょう。自覚がなくても、祈りの中で、本当に神と一つになられていることも、あるのだと思います。いずれにしても、そういう方の祈りに触れさせていただくことがある。すると、それは、後から自分の祈りの貧しさに落胆させられることにもなるのですけれども、それ以上に、そういう祈りの事実、一人の人が神と深く交わり、触れていただき、一つとなられている事実に、圧倒される。そういう経験を、しばしばいたします。 主イエスの祈りは、そのとき、弟子たちを圧倒したのだと思います。そのときには、弟子たちは、その圧倒されたことの意味を良く分からなかったかも知れない。けれども、弟子たちは、後から振り返って、その祈りの中で主イエスが神と一つになられていたこと、深い交わりのうちにあられたことを、思い起こさないではいられなかった。もちろん、主が天の御父と一つであることは、その御教えの中ですでに聴いていたはずです。けれども、弟子たちは、何よりも主が祈られたときに、その祈りによって、主が天の御父と一つでいらっしゃることを、本当にそうだと、知るようになったのではないでしょうか。 その祈りの中で、主イエスは、弟子たちのために祈られたのです。弟子たちを、天の御父との深い交わりの中に、お招きくださった。天の御父と一つであることの喜びを、弟子たちの中にも満ちあふれさせようとしてくださったのでした。 このとき、主イエスが祈られたときには、弟子たちは、主が祈りによってお招きくださったところに、すぐに進み行くことはできませんでした。主がお与えくださるという喜びを、すぐに自分たちのものとすることはできませんでした。むしろ、弟子たちの中にあった思いは、主と結ばれることへの期待ではなく、主と別れなければならない悲しみでした。主のおっしゃられる喜びで心満たされるどころか、いよいよ悲しみが深まっていく、そのような中にあったのです。その悲しみは、この祈りが祈り終えられたときから、いよいよ現実のもとしてピークに達することになったのです。 弟子たちの悲しみ。別れの悲しみです。しかも、それは、裏切り、見捨てることによって引き起こされた別れの悲しみです。後悔、自己嫌悪、落胆、嘆き、絶望。どんな言葉で言い表したらよいか分からない悲しみの現実であったでしょう。 弟子たちは、そのような現実に目を向けることを恐れました。避けて通ろうとしました。むしろ、主イエスこそ、その悲しみの現実を、直視していらした。「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れる。…あなたがたは悲しむ…」(16:20)とおっしゃられたのは、主イエスでいらした。にもかかわらず、主は、祈りの中で言われたのです。「彼らは、御言葉を守りました。わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。…わたしは、彼らによって栄光を受けました」(6~10節)。 主イエスは、祈られて、神と一つになられて、確かな約束を宣言してくださったのです。弟子たちが、ひどい悲しみの現実の中に陥ることになる弟子たちが、それでも、必ず、そこから引き上げられて、主と出会い、神と一つとされる喜びに満たされるときを迎えることになる、と。だれも、悲しみの現実の中に陥ったままでいることはない。必ず、神と一つとされる喜びに満たされるときを迎えることができる、と。いや、むしろ、その現実の悲しみをとことん味わった者にこそ、主は、その悲しむ心の内に、空洞になった心の内に、豊かに満ちあふれるほどの喜びを注ぎ込んでくださる、と。 祈りの中で神と一つになられていた主のその宣言を、弟子たちが悲しみの現実の中でなお心に留めておくことができたのは、何と幸いなことだったでしょうか。 わたしたちも天を仰いで祈ろう! 天を仰いで、主は祈られました。うなだれて、地に顔を向けて、祈られたのではありません。天の御父のいらっしゃるところに顔をお向けになられて、御父と顔と顔とを向き合わせて、御父の御心を確かめるようにして、主イエスは祈られました。弟子たちのために、わたしたちのために、すべての人のために。 わたしたちは、今、ここで、この祈られる主イエスの傍らに置いていただいています。この祈りの言葉を聴かせていただくために。そればかりか、この祈りの言葉を、わたしたちも大胆に祈らせていただくために。この祈りによって、弟子たちの内に喜びを満ちあふれさせてくださった主は、弟子たちに、わたしたちに、この祈りを託してくださったのです。すべての人が、この主イエスの祈りの傍らに身を寄せる機会を与えられるためです。わたしたちの家族も、友人も、すべての隣人が、この現実の深い悲しみの中から引き上げられて、主の喜び、神と一つとされる喜びに満たされるようになるためです。わたしたちすべての者が、一つの喜びに満たされて、互いに一つとされるようになるためです。 祈り 主よ。あなたの祈りの傍らに置いてください。もう悲しみの中に留まろうとは思いません。あなたが共にいてくださるからです。あなたの喜びで満たしてください。あなたの御顔を仰ぎ見て、大胆に、父よ、と祈らせてください。アーメン |