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ペンテコステ礼拝説教 日本基督教団藤沢教会 2010年5月23日 1主の僕モーセの死後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに言われた。2「わたしの僕モーセは死んだ。今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい。3モーセに告げたとおり、わたしはあなたたちの足の裏が踏む所をすべてあなたたちに与える。4荒れ野からレバノン山を越え、あの大河ユーフラテスまで、ヘト人の全地を含み、太陽の沈む大海に至るまでが、あなたたちの領土となる。5一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。6強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。7ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。8この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。9わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」 ペンテコステ。聖霊の風が吹いてくるときです。二千年前の最初の教会の人々が、天から吹いてくる激しい風の音を聴いたように、炎のような聖霊の舌の現れるのを見たように、今日、わたしたちは、聖霊の風の音を聴くために、聖霊の炎を見るために、ペンテコステの祝いの礼拝に導かれてきました。 「わたしたちのところにも、聖霊の風が吹いてくるかしら」と、先週のある集会で、一人のご婦人がおっしゃいました。すかさず、別の方がおっしゃいました、「もちろん、吹いてくるわよ!」。 そうです。聖霊の風は、吹くかも知れないし、吹かないかも知れない、そんな気まぐれなものではありません。聖霊の風は、吹いてくるのです。最初のペンテコステの日に吹いたのと同じ聖霊の風が、今も、わたしたちのただ中に、吹いてくるのです。いいえ、今このときにも、吹いているのです。そうです。わたしたちは、今、ここに吹いている聖霊の風に促されて、ペンテコステの祝いの礼拝に集まってきました。聖霊の風に心を開かれて、共に神の御前に祈りました。聖霊の風に息を吹き込まれて、神を賛美する歌声を響かせました。もしかすると、お気づきになられていない方がいらっしゃるかもしれない。けれども、今、わたしたちがペンテコステの祝いの中にいる、このことこそ、今ここに聖霊の風が吹いていることの、確かなしるしなのです。 聖霊の風は、どんな風なのでしょうか。どこから吹いてくるのでしょうか。強い風なのでしょうか、弱い風なのでしょうか。本当のことを言うと、わたしたちには、分かりません。「風は思いのままに吹く」(ヨハ3:8)からです。それでも、わたしたちは、風が吹いていることを、知ることはできます。どんなに微風でも、吹いてくる風を、五感を働かせて受けとめることはできます。 初夏の日差しの中、二階屋根ほどの高さに泳ぐ大きな鯉のぼりを、飽きもせず見上げていた幼い頃の鮮明な記憶があります。四月の下旬になると、父が庭に穴を掘って木のポールを立てて、鯉のぼりを揚げてくれていたのです。もうとっくに捨てられてしまった鯉のぼりですが、物置から出してきた四尾の鯉のぼりを縁側に広げて伸ばしたときの「何て大きいんだろう」という驚き、そして、その大きな鯉のぼりがポールの上に揚げられると、何とも軽々と泳ぎ始めるその不思議、その感動を、今でも心の中に思い出すことがあります。鯉のぼりのあの大きな口。幼かったわたしの全身を一飲みにしてしまうほどの大きな口。何度も何度も、そこを通って潜り込んでみた、鯉のぼりの口。あの口がなければ、鯉のぼりは、あんなに軽やかに、あんなに優雅に、天を泳ぐことはできないのだ、ということに気づいたのは、もうその鯉のぼりが捨てられてしまってからのことでした。 聖霊の風は、もうすでに、わたしたちの中に吹き込んでいます。大きな口を開けることができている者にも、まだほんの小さな隙間を開けてみただけの者にも、聖霊の風は、吹き込んできている。もしかすると、一所懸命身を固くして、吹き込んでくる聖霊の風が入り込んでくる少しの隙間も作るまいと、してこられた方があるのではないでしょうか。今も、せっかく聖霊のすきま風が吹き込んできてくれているのに、どうにかして目張りして、そして、窓の外に吹いている激しい聖霊の風を、「自分には関係ない」などとご覧になられている方が、あるのではないでしょうか。けれども、そんな方のことさえ、聖霊の風は、後ろから吹き寄せてきて、ここに向かわせてくれたのです。心の中に吹き込むことができなければ、聖霊の風は、わたしたちの外側にさえ吹きつけてきて、わたしたち一人一人を、動かそうとしてくださる。そして、聖霊の風を、どこよりもはっきりと受けとめられるところ、教会に、わたしたち皆の者を、吹き集めてくださるのです。 聖霊の風が吹いています。そう、ここに集まったあの人もこの人も、ちょうど《鯉のぼり》が天高く、軽やかに泳いでいるように、聖霊を受けて、天高く心をあげていらっしゃる。そう、だから、わたしも、そうすることができる。恐れずに、自分も、今までより少し大きく口を開いて、心を開いて、聖霊の風を、今までより少したくさん受けとめて、そして、今までより少し高く天に心をあげて、讃美を歌い、祈りをささげ、御言葉を聴くことができる。 わたしたち皆、ここに集められた一人残らず、聖霊の風を受けとめましょう。ぎこちなくても良いのです。ご一緒に、聖霊の風を大きく受けとめて、他の《鯉のぼり》たちに倣って、軽やかに、天高く、心をあげてみていただきたい。 神の御業を語ろう! 聖霊の風。主イエス・キリストがお約束くださった聖霊の風。もちろん、天地創造の初めから、この世界に吹き込まれてきた神の聖霊の風です。この聖霊の風に気がついた昔の人たちがいました。旧約の信仰者たちです。聖霊の風が、自分たちの行く道を開いてくれている、自分たちの歩みを後押ししてくれている、神の共にいてくださることをはっきりと示してくれている。モーセも、ヨシュアも、聖霊の風を受けとめて、心を天高くにあげて、神の御業の内を歩んだのです。 主イエス・キリストは、その聖霊の風を、ただ孤独にではなくて、皆が共に受けとめることができるところを、備えてくださったのです。教会です。キリストの十字架によってしるしづけられた教会です。 言ってみれば、キリストの十字架は、《鯉のぼり》が括り付けられるポールのようなものです。ポールに結ばれてはじめて、《鯉のぼり》は、確かに風を受けて、天高く泳ぎ続けることができます。わたしたちも、十字架に釘付けにされたキリストに結びついているならば、聖霊の風を確かに受けとめ続けることができる。聖霊の風を受けとめて、天高く心をあげ続けることができるのです。 わたしたちは、教会に集められて、キリストとお会いして、キリストの十字架の出来事を聴かせていただいて、そして十字架のキリストと結びつかせていただいて、聖霊の風を受けとめて天高く心をあげさせていただいている。今まで生きてきたこの世の地平に立ち続けるのではなくて、聖霊の風の吹く神の御業の高さの中に引き上げていただいている。今までのように自分で立ち上がるのではなくて、聖霊の風によって、神の御業によって、起き上がらせていただいている。 もちろん、まだ、上手にというわけにはいかないかもしれません。ときどき、いやしばしば、ポールから外れてしまった鯉のぼりのように、この世の地平に撃ち落ちてしまって、見るも無惨な格好を見せることだってあるでしょう。キリストとは違う別のポールにからまってしまって、何やらおかしな泳ぎ方をしてしまうことだってあるでしょう。それでも、聖霊の風は、わたしたちを、日曜日には必ず、キリストのもとへ、教会へ、集めようと、力強く吹きつけてくれる。そうです。わたしたちは皆、たとえ離れてしまって、遠くまで飛ばされてしまうことがあっても、必ず、何度も何度も吹きつけてくる聖霊の風によって、キリストのもとに、もう一度、吹き集められ、結び直していただいてきました。 ここに、キリストのもとに集められた群れがあります。しかも、聖霊の風を受けて、今までとは違う、この世の地平ではない、神の御業の高さの中に軽やかに泳ぐ、心高く上げる、キリスト者の群れがあるのです。このことを神の御業と言わずして、わたしたちは何を神の御業と言いうるでしょうか。 聖霊の風を受けとめて、軽やかに心高くあげていらっしゃる皆さんのことです。皆さんのことを、わたしは語りましょう。神の御業の中に、今、置かれている、皆さんのことを、わたしは証ししましょう。「いや、自分は、まだこの世の地平に足をつけたままで、心が高く上がっていない」とおっしゃられる方があるかもしれません。そうでしょう。でも、そんな方でも、ご自分で気づいていなくても、聖霊の風の中で、神の御業の中で、すでに心が引き上げられています。そう、ひな鳥が羽を広げて、羽ばたいて、少しずつ飛び立つ練習をするように、わたしたちは皆、毎週毎週、聖霊の風によって吹き集められたここで、ほかの《鯉のぼり》の姿を見ながら、少しずつ、聖霊の風によって心を高く上げていただくことを、憶えてきたのです。皆、そうです。だれでも、そうやって、憶えていくのです。鳥が皆飛べるようになるように、キリストに結ばれた人は皆、聖霊の風を受けて、心を高く神のところまであげていただくようになれるのです。 神の国は来ている! 聖霊の風の中に、身をゆだねましょう。ただキリストに結びついていることだけを確かめて、神の御業に身をゆだねましょう。神が、わたしたちの心を高く引き上げてくださって、御心に触れさせてくださるでしょう。御心を、わたしたちの心に植え付けてくださるでしょう。わたしたち一人一人を、神の国に生きる者としてくださるでしょう。 主イエスは、神の国が、一粒のからし種から大きく成長する木のようなものだと、たとえてお語りになられました。聖霊の風に身をゆだねることを始めたときから、その一歩はたとえ小さくとも、わたしたちは、神の国に生き始めているのです。聖霊の風に身をゆだねましょう。神の国の民として、共に、この地上にあって、なお地上のものとは違う、神の国の建設へと、歩み進めるのです。 祈り 主よ。聖霊の風を受けとめさせてください。心高くあげさせてください。御心に触れさせてください。地上にあって、神の国の民とならせてください。アーメン |