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三位一体主日礼拝説教
  「あなたも神の子です」

日本基督教団藤沢教会 2010年5月30日

4聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。5あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
6今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、7子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。8更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、9あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。
                  (申命記 6章4〜9節)



12それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。13肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。14神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。15あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。16この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。17もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。
         (ローマの信徒への手紙 8章12〜17節)



269そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。10水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。11すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
           (マルコによる福音書 1章9〜11節)



「アッバ、父よ」と呼ぶ霊によって


 今日は、教会暦では「三位一体主日」。聖書朗読台の典礼布は、「白」に戻されました。けれども、この「白」の典礼布は、来週以降当分、主日に皆さんの目に触れることはないでしょう。伝統的な習慣に従うならば、来週からおよそ半年間は「緑」の典礼布が掛けられ、その後四週にわたって「紫」の典礼布が掛けられた後に、つまりクリスマスの祝いのときに、再び「白」の典礼布が掛けられます。ですから、今日は、ぜひ皆さんに、この「白」の典礼布を目に焼き付けていっていただきたいのです。もちろん、この典礼布そのものは、会堂内のしかるべきところにしまっておくものですから、ご覧になりたければ、いつでもお見せすることはできます。しかし、そういうことではなく、この「白」の典礼布が指し示すことを、今日は、皆さんの心に、しかと刻みつけていっていただきたいのです。

 典礼色の「白」は、ひと言で言えば神のご栄光を表しています。わたしたち人間には決して手の届かない天上の神のご栄光です。天使たち聖徒らが天上の礼拝を繰り広げているところの、神のご栄光です。その神のご栄光が、地上にはっきりと映し出されたとき、つまり、御子のご降誕を祝うクリスマスのとき、そして、キリストのご復活を祝うイースターのとき、そのときに、教会は、「白」の典礼布を掛けます。神のご栄光に心向けるために、神のご栄光が地上に映し出されていることをはっきりと目に焼き付けるために、「白」の典礼布を掛けるのです。

 その「白」の典礼布が、先週のペンテコステの「赤」を挟んで、再び、今日、わたしたちの前に掛けられました。天上の父なる神のご栄光が、御子キリストによって、キリストを通して地上に映し出され、そして、神の聖霊によって主イエスに従う教会にまで映し出されている。それどころか、聖霊の風によって集められてきたわたしたち一人一人にまで、神のご栄光が映し出されている。三位一体主日の今日、わたしたちは、この「白」の典礼布に導かれて、そのことを目に焼き付け、心に刻みつけます。来週からは「緑」の典礼布に換えられます。地上の自然、草木の萌え出る地上を指し示す「緑」の典礼布に導かれて、今度は、神のご栄光の映し出された地上の教会の、わたしたち一人一人の、この地上での歩み、営みそのものに、大いに目を向け、心を用いていくことになるでしょう。けれども、今日は、なお、神のご栄光の現れに目を向けるのです。ここ地上の教会に映し出されている神のご栄光。聖霊の風を受けて、大いに目を開かせていただき、心を膨らませていただいている、わたしたち一人ひとりの中に映し出されている神のご栄光。そのご栄光を、はっきりと目に焼き付け、心に刻みつけるのです。
多くのすでに洗礼を受けられた皆さんも、そうでない皆さんも、今日ここにお集まりの皆さんには、すでに、神のご栄光が映し出されています。神のご栄光を映し出して、光り輝き始めている。すでに、神の聖霊の風を受けていらっしゃるからです。神の聖霊を、その目に、耳に、口に、心に、魂に、皆さんは、受けていらっしゃるからです。神の聖霊を受けた「神の子」、神のご栄光を映し出す「神の子」の一人として、ここに集められていらっしゃるからです。

 ローマの信徒への手紙で、使徒パウロは、こう記しています。

 「あなたがたは…神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」(15節)。

 わたしたちは、この礼拝に招かれてきて、皆で共に、「アッバ、父よ」と神に向かって呼ばわりました。神に向かって、「父よ」「天の父よ」と、ご一緒に呼ばわりました。少なくとも一回、「主の祈り」をご一緒に「天にまします我らの父よ」と唱えていただいた、そのときに、わたしたちは皆、神に向かって「アッバ、父よ」と呼びかけました。

 どうぞ、まだ信仰を告白していらっしゃらない方がここにおいでならば、「自分は、周りが唱えるから、不本意だけれども仕方なく一緒に唱えただけだ」などとお考えにならないでいただきたいのです。教会の外に目を向けてみてください。世の中には、神に向かって「父よ」と呼びかけたことなど無い人々が、どれだけいることでしょうか。あるいは、かつてどこかで(教会や学校で)「父よ」と呼びかけたことがあっても、今はもう、そのような神への呼びかけをすることがなくなってしまっている人々が、どれだけいることでしょうか。そのような世界の中から、今日、皆さんは、出ておいでになった。自発的に喜んでか、強いられてか、単なる習慣によってか、たまたまの思いつきによってか、いずれにしても、主の祈りが唱えられるところ、教会の営みの行われているところに、皆さんは一人残らず、出ておいでになったのです。それは、当たり前のことでしょうか。神のなしてくださったこと、聖霊のお働きによることと言うべきではないでしょうか。神の聖霊のお働きによるのでなければ、わたしたちは誰も、今日、ご一緒に主の祈りを唱えることなどなかったのではないでしょうか。「父よ」と神に呼びかける言葉を口にすることなど、なかったのではないでしょうか。

 皆さんお一人おひとりが、すでに神の聖霊を受けていらっしゃる。そのことを自覚していらっしゃるかどうかは分かりません。その意識があるかどうかは分かりません。それでも、皆さんは、確かに、聖霊をすでに受けていらっしゃる。聖霊を受けて、その聖霊のお働きを、すでに皆さんの体の中で、事実体験していらっしゃる。そのことに、ぜひ気づいていただきたいのです。認めていただきたいのです。ご自分のこととして認めることが難しければ、皆さんの隣の人、前の席の人の中に、神を「父よ」と呼ばわらせる聖霊のお働きが始まっていることを、確かめていただきたいのです。その人が、神のご栄光を映し出して、この世のものとは違う光を輝かせている、その、もしかすると、ほのかにしか見えない光を、確かに見出していただきたいのです。


神の霊を吹き入れていただこう

 いや、しかし、今日は、三位一体主日です。神のご栄光のほのかな輝きをしか見ることができないようなときではありません。「白」の典礼布が掛けられた、天上の栄光が地上に満ち溢れることを憶えて、たたえる礼拝のときです。天上の礼拝で光り輝く栄光が、この地上で行われる教会の礼拝の中でも輝き放たれることを、はっきりと確かめるときです。

 ですから、皆さん、今日は、いつにも増して、わたしたちは、神の霊を大いに受けとめたいのです。心を開いて、神の霊を受けとめるスペースを空けて、心の底から「父よ」と呼びかけましょう。もちろん、わたしたちのこの世の煩い、思い悩み、苦しみや悲しみ、嘆きや怒り、そういうものは、尽きないでしょう。それを、今、心の中から簡単に掃きだしてしまえるわけではないでしょう。それでも、神に向かって「父よ」と呼びかけるとき、わたしたちは、心の入口を、もう少し開くことができるのではないでしょうか。心の中の空きスペースを、もう少し広げて、神の霊のために明け渡すことが、できるのではないでしょうか。そして、自分の体の強張りを少し緩めて、肩の力を抜いて、心の頑なさを少し捨てることができるならば、わたしたちは、心のスペースに受け入れた神の霊が、自分の心全体を揺り動かそうとしてくること、体全体を新しい振る舞いへと突き動かそうとしてくることを、知ることができるのではないでしょうか。

 それは何も、神の聖霊を受けて「霊的恍惚」を経験しようというのではありません。霊的な神秘体験をしようというのではありません。パウロは勧めています。

 肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。(13節)

 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。(15節)

 神の霊を心に深く受け入れて、神の霊に心揺り動かされること、突き動かされるように目や耳や口や手や足の新しい用い方へと導かれること。それは、わたしたちが、本当に生きるようになるためです。本当に、神に造られた者、神の子としてふさわしい、御心に適った真の人間として生きるようになるためです。

 わたしたちは、いつまでも死んだ生き方を続けていてはいけません。わたしたちは、これまで、神の霊ではなく、自分の思いに揺り動かされて、突き動かされて、人生の多くの時間を、生きてきたかも知れない。自分の思いを根拠にして、そこを出発点にして、それが心のすべてを左右するようにして、生きてみたことがない者はいないでしょう。けれども、そのとき、それが最高の生き方だと思われた方が、皆さんの中にあるでしょうか。今日と明日とでは全く逆転しているかも知れないような自分の思いを、人生の導き手として信頼しようというのは、あまりに無邪気で、危険きわまりないことです。そんな生き方を、わたしたちは、もう選んではいけません。本当に、わたしたちを真の人間として生きさせようとしてくださる、わたしたちの造り主、神の霊に、わたしたちの人生をゆだね、導いていただくべきです。人間として本当にあるべき姿、あの主イエス・キリストのような人間として、本当に生きる、本当の人生を歩む、本当の命を生き抜く、本当に神の永遠の命のうちにとらえていただく。生きているときも、死んだ後も、本当に神の子として神のご栄光を映し出す者、光り輝く者とならせていただく。

 だから、わたしたちは、神を「父よ」とお呼びする。何も祈る言葉を口にできなくても、「父よ」と神をお呼びして、神の霊を、わたしたちの内に、深いところにまで、吹き込んでいただく。今までの体の仕業をともかく休ませて、神の霊によって、心を揺り動かしていただき、新しい体の仕業、神の霊に突き動かされた神の子としての責任を果たす器へと、日々新たに造りかえていただくのです。


伝えよう、「あなたも神の愛する子です!」と。

 神の子としての光り輝きをいただく。この約束を、確かに心に刻みましょう。わたしたちは、洗礼の恵みにあずかったときに、この約束を心と体に刻みつけていただきました。「あなたも神の愛する子です」。この約束の言葉を、聖霊の風を受けていらっしゃるすべての人が、洗礼のしるしと共に、心と体に刻むことができますように。来る「緑」の期節に、何よりもこの約束の言葉を、家族に、友人に、隣人に、語り伝えることができますように。


祈り

主よ。御子に招かれてあなたを「父よ」とお呼びする神の子としていただきました。聖霊によって心と体を日々新たに造りかえていただけますように。アーメン