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聖霊降臨節第3主日主日礼拝説教
  「あなたも大胆になる」

日本基督教団藤沢教会 2010年6月6日

1オデドの子アザルヤに神の霊が臨んだ。2彼はアサの前に進み出て言った。「アサよ、すべてのユダとベニヤミンの人々よ、わたしに耳を傾けなさい。あなたたちが主と共にいるなら、主もあなたたちと共にいてくださる。もしあなたたちが主を求めるなら、主はあなたたちに御自分を示してくださる。しかし、もし主を捨てるなら、主もあなたたちを捨て去られる。3長い間、イスラエルにはまことの神もなく、教える祭司もなく、律法もなかった。4しかし彼らは、苦悩の中でイスラエルの神、主に立ち帰り、主を求めたので、主は彼らに御自分を示してくださった。5そのころこの地のすべての住民は甚だしい騒乱に巻き込まれ、安心して行き来することができなかった。6神があらゆる苦悩をもって混乱させられたので、国と国、町と町が互いに破壊し合ったのだ。7しかし、あなたたちは勇気を出しなさい。落胆してはならない。あなたたちの行いには、必ず報いがある。」
8アサはこの言葉と預言者オデドの預言を聞いて、勇気を得、ユダとベニヤミンの全土から、またエフライムの山地で攻め取った町々から、忌むべき偶像を除き去り、主の前廊の前にある主の祭壇を新しくした。        (歴代誌下 15章1~8節)



13議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。14しかし、足をいやしていただいた人がそばに立っているのを見ては、ひと言も言い返せなかった。15そこで、二人に議場を去るように命じてから、相談して、16言った。「あの者たちをどうしたらよいだろう。彼らが行った目覚ましいしるしは、エルサレムに住むすべての人に知れ渡っており、それを否定することはできない。17しかし、このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によってだれにも話すなと脅しておこう。」18そして、二人を呼び戻し、決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した。19しかし、ペトロとヨハネは答えた。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。20わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」21議員や他の者たちは、二人を更に脅してから釈放した。皆の者がこの出来事について神を賛美していたので、民衆を恐れて、どう処罰してよいか分からなかったからである。22このしるしによっていやしていただいた人は、四十歳を過ぎていた。
23さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した。24これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った。「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。25あなたの僕であり、また、わたしたちの父であるダビデの口を通し、あなたは聖霊によってこうお告げになりました。
『なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、諸国の民はむなしいことを企てるのか。
26地上の王たちはこぞって立ち上がり、指導者たちは団結して、主とそのメシアに逆らう。』
27事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。28そして、実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです。29主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。30どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」31祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。
              (使徒言行録 4章13~31節)



信仰の仲間のところへ行こう

 今日も、わたしたちは、ここ教会の営みのうちに、聖霊の風によって吹き集められて、集ってまいりました。今日初めて、ここにおいでになられた方もあるかもしれませんが、ほとんどの皆さんは、何度となく、ここにおいでくださっている皆さんです。毎週日曜日、欠かさずおいでの方。ときどきはお休みされる方。月に一度、あるいは一年に数度、おいでくださる方。それぞれでいらっしゃるけれども、ほとんどの皆さんが、ここにおいでくださったのは、今日が初めてではない。ですから、わたしは、いつも日曜日の礼拝にあずかる中で思うのです、「皆さん、よくぞ、今日もここにおいでくださった。よくぞ、戻って来てくださった」。

 先週の日曜日からの一週間の間、あるいは、前回礼拝にお出でくださってからの間、皆さんお一人おひとりは、どのように歩んでこられたのでしょうか。わたしは、礼拝中、聖壇の上から皆さんのお姿を拝見しながら、分からないながらも、皆さんが一週間の間にどんな出来事を経験なさってこられたのだろうと、想像していることがあります。いや、実は、週末に礼拝の準備を始めたときから、あの人この人の歩みを、勝手に想像し始めている、と言った方がよいかも知れません。

 日曜日に教会に集って、礼拝に共にあずかって、そこから送り出されて、一週間、あるいは数週間、皆さんは、ただ、のんべんだらりと過ごしてこられたわけではないと思います。きっと、礼拝で新たにされた信仰を携え持って、聖霊の風に後押しされながら、いわば信仰の戦いを、毎日の生活の中で戦ってこられたのではないでしょうか。

 「いやあ、自分は、教会の玄関を出た途端にスイッチが切り替わってしまって、信仰とは無関係な毎日を送ってきました」とおっしゃられる方が、あるかもしれません。それも、正直な気持ちかも知れません。そうしなければ、とても乗り切っていけないような毎日の生活が、わたしたちには、待ち受けています。家庭のことにしろ、仕事のことにしろ、信仰によってではなくて、この世の価値観にスイッチを切り替えないとやっていけない。そう考えざるを得ない現実の中に生きているというのも、そのとおりでしょう。けれども、たとえそうだとしても、そういう方でも、わたしは、毎日の生活の中で、信仰の戦いをなさっているのだと思うのです。圧倒的に不利な戦い。ほとんど勝ち目のない戦い。戦っているとは言えないほど、一方的に攻め込まれている戦いです。では、その、ほとんど完全に負け戦の戦いに、白旗を揚げて降参しているかというと、皆さんは、そうではない。降参しきれないからこそ、どうにかして、ここに帰ってこられた。信仰の基地、教会に帰ってこられた。そうでしょう。そうでなければ、毎日の生活で完全に負けを認めたのであれば、日曜日だからといって、ここに来る必要はなかったでしょう。日曜日が、教会ではなく、この世の現実の中に取り込まれていたって、一向に不思議ではない。けれども、皆さんは、ここに帰ってこられた。もしかしたら、命からがら、帰ってこられた。そうなのではないでしょうか。

 程度の違いはあっても、皆、同じだと思います。一週間の信仰の戦いを終えて、日曜日、わたしたちは、教会に、信仰の仲間のところに、帰ってきたのです。


祈る仲間の中で

 使徒言行録の物語。ペトロとヨハネ。弟子たちの中でも、抜きん出て重要な二人です。教会の仲間たちのもとから送り出されて、毎日を、宣教の最前線で過ごしていました。その結果、二人の宣教活動で、教会は、驚くほど多くの信じる者を獲得したのです。けれども、それはまた、この世の現実の中では、危険なことでもありました。当局にとらえられ、議会で取り調べを受け、宣教禁止の命令を受けたのです。それでも、二人は、脅しに屈することなく、恐れることなく堂々と信仰を通して、釈放を勝ち取ったのでした。

 ペトロとヨハネの大胆な態度。大胆に信仰を貫く態度。正直羨ましいなと思います。憧れます。この二人ほどでなくても、もう少し信仰者としての大胆さがあったら、もう少し働きの実りも多くなるのではないか、などと考えてしまいます。

 けれども、この二人も、この事件の後、信仰の仲間たちのところに帰ってきました。そして、自分たちの経験した信仰の戦いを、残らず、信仰の仲間たちに話したのです。どのように話したのでしょうか。自慢して話したのでしょうか。いいえ、むしろ、二人は、本当は心のどこかに怯え、恐れる思いがないわけではなかったのに、その怯えや恐れの思いを大きく覆い包んでしまうような力に支えられて、不思議と脅しに屈することなく、恐れずに堂々と語るべきことを語れたのだと、そういうことを、仲間たちに話したのではないでしょうか。

 だから、二人の話を聞いた仲間たちは共に祈ったのですが、「あなたの僕たちが大胆に語ることができて感謝します」とは祈らずに、こう祈ったのです。

 「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。」

 わたしたちが願わずとも、神が、わたしたちの身に御業を起こしてくださることがあります。わたしたちの言葉や振る舞いの中にさえ、神は、御業によって不思議なことを起こしてくださることがあります。わたしたちは、そういうことに段々鈍くなってくるところがありますが、本当に、そういうことはあるのです。

 牧師がしばしば一緒に経験させていただくのは、信仰を与えられたばかりの人の中で起こることです。洗礼準備会などを進める中で、たとえば、このようにおっしゃってくださる。「先生、わたし、今までそんな言い方したことないのに、『神さまがそうしてくださった』とか口にしているんですよ。何か、自分じゃないみたいです。」信仰の言葉を語ったことのない人が、あるとき、信仰の言葉を語るようになる。それは、本人が、知識として信仰の言葉を学んでできるようになることではないのでしょう。その人の中に働く聖霊の風が、その人の口を清めて、信仰の言葉を語らせるようにしてくださる。

 もしもそのとき、その人の周りに「そんな言葉を口にするのはおかしい」と言うような人しかいなかったらどうでしょう。せっかく聖霊の風によって開かれた信仰の言葉を語る口が、また閉ざされてしまうことになるのではないでしょうか。

 けれども、そのとき、その人の周りに、一人でも二人でも、「アーメン、本当に、神さまがそうしてくださった」と、同じように信仰の言葉を語る仲間がいたら、どうでしょう。あるいは、信仰の言葉をもっと豊かに語れるようにと共に祈ってくれる仲間がいたら、どうでしょう。きっと、その人は、初めは違和感のあった信仰の言葉を語る自分の口を、神さまから与えられた貴い器として、もっと豊かに用いていただけるようにと願うようになるのではないでしょうか。

 ペトロとヨハネの帰って行った信仰の仲間たちのいる教会。そこに、二人は、何よりも共に祈る仲間を得ていたのです。共に、神の御業が自分たちの身に起こることを祈り願う仲間が、そこにいたのです。聖霊の風を閉ざしてしまうのではなく、大いに吹き込んでいただこうと願う、信仰の仲間たちです。

 わたしたちも、そのような信仰の仲間として、ここに集められているのです。聖霊の風に吹き集められたわたしたちは、本当に、この聖霊の風を、この教会の隅々まで、また自分の身の隅々まで、吹き入れていただくことを、祈り願いたいと思います。神の御業は、本当に、教会の群れの中で起こるのです。神の御手の働きは、本当に、わたしたち一人ひとりの中で、わたしたちの言葉と振る舞いの中で、現実となるのです。


御業を証しして大胆に語ろう

 祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語り出した。

 礼拝の終わりに、牧師は、祝祷を告げます。神の祝福の言葉を告げます。その祝福の言葉と合わせて、牧師は、「出て行きなさい」と派遣の言葉を告げます。それは、新しくされた教会の、新しい営みの始まりのときです。新しくいのちをいただいたわたしたち一人ひとりの、新しい生活の始まりのときです。それは、新しい信仰の戦いの始まりのときです。

 けれども、わたしたちは、恐れる必要はありません。礼拝の終わりに神の祝福を聴くとき、わたしたちの群れの中を、聖霊の風が激しく吹き抜けているのです。教会全体が、揺り動かされているのです。聖霊を心に受けとめ、満たされて、語るべき言葉を、行うべき行動を、神から授けていただくのです。だから、わたしたち、その成長は本当に遅くて、見るに堪えないほどかもしれないけれども、先週よりも今週、わたしたちは必ず、今までよりも信仰の戦いを優位に戦うことができるのです。まだ、目に見える勝利は先かも知れません。まだ、この世の現実の中で、劣勢を跳ね返すほどの力を発揮できないかも知れません。それでも、敗北することはありません。先週よりも後退することはありません。

 なぜならば、わたしたちは知っているからです。神が、過ぎし歩みの中でも、確かに、このわたしの中でお働きくださったことを。わたしだけでなく、この仲間たちの一人ひとりの中でお働きくださったことを。そして、そのお働きを信じて祈るわたしたちに、神は必ず聖霊の風をもって力を授けてくださることを。

祈り

主よ。あなたはわたしの内に聖霊をもって御業をなしてくださいました。今、願います。もっと豊かに大胆に、あなたの御業の器とならせてください。アーメン