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子どもの日・花の日 合同礼拝説教
  「イエスさまの霊をいただこう!」

日本基督教団藤沢教会 2010年6月13日

【招きの言葉・詩編交読】
詩編32編
 1 ダビデの詩。マスキール。
 いかに幸いなことでしょう
 背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。
2 いかに幸いなことでしょう
 主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。
3 わたしは黙し続けて
 絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。
4 御手は昼も夜もわたしの上に重く
 わたしの力は
   夏の日照りにあって衰え果てました。  〔セラ
5 わたしは罪をあなたに示し
 咎を隠しませんでした。
 わたしは言いました
 「主にわたしの背きを告白しよう」と。
 そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを
   赦してくださいました。        〔セラ
6 あなたの慈しみに生きる人は皆
 あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。
 大水が溢れ流れるときにも
 その人に及ぶことは決してありません。
7 あなたはわたしの隠れが。
 苦難から守ってくださる方。
 救いの喜びをもって
   わたしを囲んでくださる方。      〔セラ
8 わたしはあなたを目覚めさせ
 行くべき道を教えよう。
 あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。
9 分別のない馬やらばのようにふるまうな。
 それはくつわと手綱で動きを抑えねばならない。
 そのようなものをあなたに近づけるな。
10 神に逆らう者は悩みが多く
 主に信頼する者は慈しみに囲まれる。
11 神に従う人よ、主によって喜び躍れ。
 すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ。



【聖書朗読】
使徒言行録 16章16~24節
16わたしたちは、祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った。この女は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた。17彼女は、パウロやわたしたちの後ろについて来てこう叫ぶのであった。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」18彼女がこんなことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて振り向き、その霊に言った。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」すると即座に、霊が彼女から出て行った。19ところが、この女の主人たちは、金もうけの望みがなくなってしまったことを知り、パウロとシラスを捕らえ、役人に引き渡すために広場へ引き立てて行った。20そして、二人を高官たちに引き渡してこう言った。「この者たちはユダヤ人で、わたしたちの町を混乱させております。21ローマ帝国の市民であるわたしたちが受け入れることも、実行することも許されない風習を宣伝しております。」22群衆も一緒になって二人を責め立てたので、高官たちは二人の衣服をはぎ取り、「鞭で打て」と命じた。23そして、何度も鞭で打ってから二人を牢に投げ込み、看守に厳重に見張るように命じた。24この命令を受けた看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめておいた。



《子どもの日・花の日》

 今日6月第二日曜日は、教会では《子どもの日・花の日》と呼ぶ日曜日です。教会の大人の人たちは、《花の日》という呼び方のほうが馴染みがあるかもしれませんが、もともとは、アメリカの教会で《子どもの日》と呼ばれていた日曜日が始まりです。150年ほど前、アメリカのメソジスト教会で、子どもたちのための礼拝をするようになりました。子どもたちが、イエスさまを大好きになって、神さまに感謝する心を持ち、大人の人たちと一緒に讃美と祈りの礼拝を献げることができるようにと願って始めたそうです。そのときに、子どもたちが喜ぶようにと、美しい、良い香りの花を飾るようになったので、《花の日》とも呼ばれるようになりました。

 今日は、この礼拝に、いつもはCS合同礼拝に出席している子どもたちをお招きしました。子どもたちだけでなく、子どもと一緒にCS合同礼拝に出席してくださっている大人の人たちにも、親子でおいでくださいと、お招きしました。こういう礼拝を、《合同礼拝》と呼んで、わたしたちの教会では、年に4回、おこなっています。何人ぐらい来てくださるか心配でしたが、たとえこの礼拝に出る子どもの人数が少なくても、わたしたちが子どもたちを招く気持ちは変わりません。ここに来ている子どもたちのことはもちろん、CS合同礼拝に来ている子どもたちのことも、わたしたちは心に憶えて、この教会の大きな輪の中にお迎えしたいと思います。わたしたちの心の中にも迎えたいと思います。子どもの皆さんも、今日は、大勢の大人の人たちに囲まれて、「お行儀よくしなきゃ」と緊張しているかも知れませんが、少しぐらいお行儀が悪くても良いのです。ここにいる大勢の大人の人たちが皆さんのことを心から歓迎しています。この教会の大きな輪の中に「ようこそ」と招かれています。

 神さまが、今日、このように、わたしたちに礼拝を守らせてくださいました。皆さんは知っていると思いますが、この礼拝の中心には、イエスさまがおいでくださっています。目には見えなくても、イエスさまがここにおいでくださっています。わたしたち皆を一つにしようと、イエスさまがおいでくださって、ここで一人ひとりの心を開いてくださって、神さまの聖霊を注いでくださっています。それで、わたしたちは、今日、一緒に一つの礼拝を守ることができました。

 神さまに感謝しましょう。「神さま、子どもたちをありがとう」、「神さま、大人の人たちをありがとう」、「神さま、教会をありがとう」、そして、「神さま、イエスさまをありがとう」。わたしたちを一つにしてくださるイエスさまの御心が、わたしたち一人ひとりの心の中に宿りますように。


「イエス・キリストの名によって命じる」

 皆さんは、「命令ゲーム」をしたことがあり
ますか。ゲーム・リーダーが「王様の命令です。右手を挙げてください」と言ったら、みんなは右手を挙げます。リーダーがただ「右手を挙げてください」と言っただけだったら、みんなは右手を挙げてはいけません。教会では、「王様の命令です」の代わりに、「イエスさまの命令です」と言って、「命令ゲーム」をすることがあります。

 皆さんの知っているイエスさまの弟子たちは、ゲームではなくて、本当に、「イエスさまの命令です」と言って、誰かに命令を言うことがありました。少し難しい言い方で言うと、「イエス・キリストの名によって命じる」(使16:18)と言って、だれかに「こうしなさい」ということを命令したのです。

 そのような弟子の一人は、パウロです。パウロは、初めはイエスさまのことが大嫌いな人で、イエスさまのことを信じて従う弟子たちを迫害していました。捕まえて、できれば死刑にしてもらうように、役人のところに連れて行っていたのです。けれども、あるとき、イエスさまの弟子たちを捕まえるために出かけていった途中の道で、神さまの光を見て、イエスさまの声を聴いて、そして、パウロは、今までふさがっていた心の蓋が開いて、心の目からうろこが落ちて、イエスさまを信じるようになりました。イエスさまの教えに従って、世界中の人たちにイエスさまのことを伝える人、宣教師になりました。

 そのパウロが、仲間と一緒に、フィリピという町に行ったときのことです。フィリピの町には、まだ、イエスさまを信じている人はいませんでした。それで、パウロがイエスさまのことを町の人に伝えると、何人かの人たちがイエスさまを信じるようになって、イエスさまの弟子の仲間になりました。

 そのフィリピの町には、占いをする女の人がいました。どんな占いか分かりませんが、その女の人は、占いをして、「神さまは、これこれこうなさいます」とか、「あなたは、これこれこうなるでしょう」と、言うことができたのです。その女の人は、ある人の奴隷でした。そこで、その人は、この占いをする女の人に占いをさせて、金儲けをしていました。今でも、お金をもらって占いをする人がたくさんいます。そういう商売をしてお金を儲ける人が、昔からいたのです。

 わたしは、世の中で流行っている占いというのは、どこかデタラメなんじゃないかと思うので、信じていません。聖書にも、占いをしてはいけません、と書いてありますから、しないほうがよいと思っています。ところが、フィリピの町のその占いをする女の人の占いというのは、まったくデタラメということではなかったのかもしれません。パウロたちと出会うと、この女の人は、ついて来て、叫んで言ったそうです。

 「この人たちは、本当の神さまにお仕えする人たちです。皆さんに、救いの道、本当の命をいただく道を伝えているのです」(16:17)

 不思議ですね。この女の人は、占いの霊と呼ばれる悪い霊に取りつかれて、占いをしていたのだそうですけれども、その占いの霊に取りつかれている人が、パウロたちの教えている神さまのことを知っていたのです。パウロたちが、どんな神さまを信じていて、どんなことを今、教えているのか、パウロたちにかわって、町の人たちに宣伝して歩いたのです。

 でも、この女の人がそういうことをするのは、占いの霊に取りつかれているからでした。本当の神さまのことが分かって、本当の命をいただく道を歩むようになるためには、占いの霊ではなくて、神さまの霊をいただかなければいけません。パウロは、そこで、この女の人に向かって、とうとう、こう言ったのです。

 「イエス・キリストの名によって命じる。この女の中から出て行け」(16:18)

 この女の人の中から、占いの霊が出て行きました。占いをすることは、できなくなってしまいました。占いをして金儲けをすることもできなくなってしまいました。けれども、この女の人の中には、占いの霊のかわりに、大切なものが入ってきました。イエスさまです。イエスさまの命令です。命令されるイエスさまの言葉です。神さまの霊を心に迎えるための、イエスさまの言葉です。それは、ですから、イエスさまの霊、と言っても良いかもしれません。


イエスさまをお迎えしよう!

 わたしたちは、人に命令されるのは、うれしくありません。誰かに命令されて、素直に気持ちよく、「はい、そうします」と言えることは、あまりないと思います。子どもは、お父さんお母さんの命令を聞きなさい、と言われることがあるかもしれませんが、それでも、たとえお父さんやお母さんからの命令でも、喜んで、「はい、そうします」とは、なかなか言えないのではないでしょうか。そう、それは、人間の命令は、間違えることがあるからです。間違いだらけかも知れません。だから、人間の命令には、わたしたちは皆、素直になれないのです。喜んで、「はい、そうします」という気持ちには、なれないのです。

 けれども、皆さん。イエスさまの命令は、違います。イエスさまの言葉は、違います。イエスさまの命令の言葉は、間違いなく本物なのです。間違いのない命令の言葉なのです。なぜ、そんなことが言えるのでしょうか。イエスさまの命令の言葉を聴くとき、ただその言葉だけでなく、イエスさまが、わたしたちの心の中に入ってきてくださるからです。イエスさまが、命令の言葉を聴くわたしたちの心の中に入ってきてくださって、わたしたちの心の中でお働きくださって、わたしたちの心を新しくしてくださるのです。

 それは、イエスさまに従って、信じて、弟子として生きるようになった人ならばだれでも、知っていることです。パウロも、他の弟子たちも、この占いをしていた女の人も、そして、このパウロたちを牢屋に入れて見張っていた看守も、イエスさまの命令の言葉を聴いて、イエスさまが心の中に入ってきてくださることを知るようになりました。もちろん、今、教会に来ているイエスさまの弟子の人たちも、きっと、そのことを知っています。イエスさまの命令の言葉を聴くわたしたちの中に、イエスさまがおいでくださること、イエスさまの霊がお働きくださることを、信じています。信じて、それがもっとはっきり分かるようにと、毎日、毎日曜日、一緒に祈っているのです。

 イエスさまの命令です、心の中の悪い霊、悪い心よ、出て行きなさい。イエスさまの御言葉を聴くわたしたちの心が、イエスさまの霊で満たされますように。

祈り

イエスさまの御言葉を聴かせてください。命じてください。心の中を聖くしてください。イエスさまの霊によって命の道を歩むことができますように。アーメン