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聖霊降臨節第5主日礼拝説教
  「主のまっすぐな道を」

日本基督教団藤沢教会 2010年6月20日

10 ベテルの祭司アマツヤは、イスラエルの王ヤロブアムに人を遣わして言った。「イスラエルの家の真ん中で、アモスがあなたに背きました。この国は彼のすべての言葉に耐えられません。11 アモスはこう言っています。『ヤロブアムは剣で殺される。イスラエルは、必ず捕らえられて その土地から連れ去られる。』」12 アマツヤはアモスに言った。「先見者よ、行け。ユダの国へ逃れ、そこで糧を得よ。そこで預言するがよい。13 だが、ベテルでは二度と預言するな。ここは王の聖所、王国の神殿だから。」14 アモスは答えてアマツヤに言った。「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ。15 主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と言われた。
                  アモス書 7章10〜15節

1 アンティオキアでは、そこの教会にバルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、サウロなど、預言する者や教師たちがいた。2 彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」3 そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。4 聖霊によって送り出されたバルナバとサウロは、セレウキアに下り、そこからキプロス島に向け船出し、5 サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた。二人は、ヨハネを助手として連れていた。6 島全体を巡ってパフォスまで行くと、ユダヤ人の魔術師で、バルイエスという一人の偽預言者に出会った。7 この男は、地方総督セルギウス・パウルスという賢明な人物と交際していた。総督はバルナバとサウロを招いて、神の言葉を聞こうとした。8 魔術師エリマ――彼の名前は魔術師という意味である――は二人に対抗して、地方総督をこの信仰から遠ざけようとした。9 パウロとも呼ばれていたサウロは、聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけて、10 言った。「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。11 今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。」するとたちまち、魔術師は目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探した。12 総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入った。  使徒言行録 13章1〜12節



 本日は、私が藤沢教会に伝道師として着任して初めて、主任牧師が不在の主日です。村上先生は、礼拝奉仕のために横浜の清水が丘教会へ赴かれました。先週の役員会の時から、村上先生は「わたしがいなくても大丈夫」と何度も繰り返されたのですけれど、私は、皆さんに祝福をお祈りする大切な務めを果たすために意気込んでまいりました。いつも村上先生がしてくださる祝祷を、本日は私がいたします。皆さんは、過去に他の教会の礼拝に出席されたことがおありでしょうか。他の教会の礼拝に出席するということでなくても、私たちの教会は、他の教会の先生をお招きして特別な礼拝を持つことがありますし、教会の歩みの中では歴代の先生方が、私たちの教会のために祝福を祈り続けてくださいました。色々な歩みの中で、教会のための祝福は不断に注がれました。絶え間ない祝福の中に私たちは置かれておるのですが、祝福を祈る牧師の所作は、必ずしも同じではありません。モーセのように両手を高く挙げて祈る先生、片手を挙げて祈る先生、手は挙げない先生、色々です。皆さん目を閉じられていらっしゃるかもしれませんが、村上先生は、あまり手を高く挙げずに大きく広げて祈られます。それは、私たちが神に抱かれ、神の祝福に包み込まれている状態を示します。神の愛が私たちを包む、その祝福を取り次ぐことが何よりも大切な牧師の務めです。伝道師である私もまた、御言葉の役者として、また神の祝福を告げる者としてここに立たされているのですが、牧師になるまでは、聖礼典(洗礼・聖餐)を行うことはできません。特別な任職が必要なのです。今週の土曜日には、私たちの教会から遣わされた川上先生が、いよいよ伝道師としての准允を受けられる、教区総会が予定されています。また、伝道師の働きを経られて、按手礼を受けられ牧師として立てられる先生もいらっしゃいます。すでに牧師として立てられている教職の先生方の無数の手が、その方の上に置かれ、任職が行われます。


 本日、朗読を聞きました使徒言行録の物語もまた、主の選ばれた2人が按手による任職を経て伝道に出発していく、一つの大きな節目を迎えている場面です。後の西洋の教会の土台となる大伝道旅行へと出発するパウロとバルナバの物語です。元々はキリスト教会の熱心な迫害者であったパウロ(サウロ)が、劇的な回心を経験して(使徒9章)、バルナバを伴って最初の伝道旅行に出かけて行く物語が始まります。この旅行は、パウロやバルナバの計画ではなく、「バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい」という聖霊の声によって、出発の時を得ました。「選び出す」という言葉は、「聖別する」というニュアンスを持っているのですが、主の特別の働きのために選び分かつための任職を、弟子たちの間で一致して行うようにと、主はお命じになります。


 使徒言行録の物語は、エルサレムのユダヤ人に伝道を進めていたペトロの物語から、パウロの異邦人伝道の物語に進んでいきます。パウロは、復活の主が告げられた使命に立ちました。「異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために私が選んだ器である」(使徒9:15)主イエス・キリストの使徒として、非ユダヤ人である異邦人のための伝道へと出かけて行きます。ギリシャの都市シリア州のアンティオキアは、キリスト信仰とヘレニズムが正面から出会った最初の場所となります。弟子たちは、ヘレニズムのユダヤ教徒と区別されるために、このアンティオキアで初めて「クリスティアノイ―キリスト教徒」と呼ばれるようになったと伝えられています(使徒11:26)。


 キプロス島に進んだパウロとバルナバは、その地で力強く神の言葉を告げ知らせたとあります。そして島をめぐる中で出会うのが、魔術師の存在です。私たちにとって、異質な存在が突然登場してくるように思えるのですが、当時、人々の間にはたしかに魔術師がおりました。使徒言行録の他の箇所(11章; 19章)にも、魔術師と言われる人たちが記されています。魔術師と呼ばれる彼らは、目には見えない悪霊の力に呪縛をかけることで、金銭を得ていました。


 新約聖書の時代背景を少し考えてみたいのですが、このころギリシャの諸都市と経済は大いに発達していました。特にこのアンティオキアは、ローマやアレクサンドリアと並ぶ大商業都市です。多くの建物が並び、たくさんの人が住んでいました。人口が多く、色々な人があります。藤沢の町のようであったかもしれません。このギリシャの華やかに発達していく都市の中に、一方で、生の不確かさや不条理な運命といった、人間の内面の問題が浮き彫りにされていきました。この時代は、「不安の時代」とも呼ばれる影の側面を持っています。自分たちを取り巻く不安定な状況を、何とか合理的に説明しようとする。このことは、いつも私たちがしていることと同じです。私たちは、この心の中のモヤモヤとした不安を、近代科学の成果によって、科学的な言葉によって説明しようとするのです。聖書の時代の人々も、同じような悩みを抱える中で、その解決としてしばしば魔術の力に頼みました。現代の私たちの社会でも、占いやおまじない等はありますし、そう変わらないのかもしれません。この不安をどう解決するのか? その問いに色々な言葉で答えようとするのですが、しかしながら、答えは、ペンディングなのです。


 私は、しばしば、教会に来るようになったきかっけを聞かれます。家族がクリスチャンでない、ミッションスクールでもない、あるいは誰か知り合いがいるわけでもない、そういった中で、突然教会に通い始めるということは、やはりそこに飛躍があるからでしょう。なぜ、教会に行き始めたのですか? 教会に行かねばならないような問題があったのですか? 一人で教会に来たって、いったいあなたには何があったのですか? そこまでは問われませんが、教会にいらっしゃる皆さんも、少なからずこのように尋ねられた経験がおありなのではないかと思います。教会というところは、何か悩みがあったり、何か宿題があったり、誰か家族や友人がいたり、あるいは冠婚葬祭等の、そういったきっかけがないと、まず用がない場所だと思われているようなところがあります。もちろん、多くの方にとってそれがキリストに出会うきっかけになってきたということは言えると思います。


 しかしながら、個々人の事情は様々ですが、実に多様な理由を持ちながら、今、私たちは、この一つの礼拝堂へと招かれています。今日、どうして、あなたはここにいるのですか? そのように問われたら、私たちは何と答えるでしょうか。


 やはり、不安な状態にあるからかもしれません。私たちが、誰にも話せないような深い傷を一人で負っているとしても、あるいは、私にはそのような深い悩みはないと思えるときにも、たとえ、満たされた生活を送っていると思えるときにも、私たちは神なしでは満たされない、そのことを知っているからこそ、この場所に集められるのです。否、私たちの内なる必要をご存じの神が、ここにお招きくださっているのです。今、私たちには平安があります。


 しかしながら、私たちの社会に存在する不安は無視できません。占いやおまじないといった神に由来しない力は、真実をねじ曲げて偽りの平安を売ります。人間の満たされない心、安定しない心を惹きつける力があります。私たちは、どんなに強く意志しても、どんな努力しても、まっすぐに進むことができません。どうしても私たちの道には紆余曲折があり、まっすぐな道は歪められてしまうのです。パウロは、まっすぐな道をゆがめようとする、この魔術の力と正面から対決しました。パウロがと言うよりは、パウロを通して、聖霊が、働かれます。「今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。」(11節)このようにパウロが宣言するなり、魔術師の目は見えなくなってしまいます。厳しい物語です。パウロがしていることは、少し過激すぎるのではないか、そういう印象を受けます。しかし、パウロ自身もまた、回心の時には、このような体験を余儀なくされました。卒倒して目が覆われ、見えるようになる<時>を待たねばなりませんでした。魔術師もまた、「時が来るまで」目が閉ざされるのです。この<時>(カイロス)とは、ただ時計が刻んで行く一定の時間(クロノス)ではなく、神の決定的な救いの時を表わします。この後、エリマと呼ばれる魔術師のバルイエスが、どのように歩んだかは、聖書では触れられておりません。しかし、バルイエスは、苦い経験ながらも聖霊に出会い、<時>を得て回心し、目が見えるようになったのではないかと思うのです。私たちのよく知っている魔術師たちを思い出してください。主イエスがこの地上に来られたクリスマスに、東方からやってきた占星術の学者たちです。彼らは、主イエスを最初に礼拝した異邦人改宗者の初子とされます。混沌とした諸力が行き交うこの地上に、その力を圧倒する主が、来られたのです。


 私たちはこの社会にあって疲れやすいものです。しかし、私たちが、自らの置かれているこの社会を、どんなに非聖書的な世界に感じていても、どんなに大きなマイナスの力を感じながら生きているとしても、神さまの大いなる(括弧)の外には、大きな+(プラス)があるのです。神が、御自らこの世界をおつくりになられたからです。神の大いなるプラス、それは、目に見える出来事として私たちに示されました。それは、あのステンドグラスの中央にある記号、十字架です。あのプラスに、私たちは共に与っています。ある信仰者の間では、手や指で十字架を書く身振りが大切にされています。私たちの教会では、そのような身振りはいたしませんが、市内の超教派の教役者の会に出かけてまいりますと、カトリックの司祭は祈るときに十字を切られます。私たちにはない習慣ですので、非常に興味深いと思って伺うのですが、ある教派の先生は、その日の聖書の朗読を始める時に、まず聖書を開き、朗読の最初の文字に触れて、ご自分で小さく十字を切る(十字架を描く)のだと教えてくださいました。聖書の朗読が、今、神の聖なる言葉として語られますようにという祈りです。それは決まりではないそうですが、カトリックの司祭は、額と唇に触れて十字を切る、すなわち、思いが聖められるようにと、語る言葉が聖められるように、という祈りをされるそうです。私たちには、十字を切る習慣はありませんが、同じ信仰によって同じように祈ります。日常生活の中で、十字を切ることをしないまでも、十字架を思い出すこと、それほど頻繁にでなくても、朝晩、決められたときにある人々が十字を切るように、私たちもまた、いつも主の十字架を思い起こすようにと招かれています。それは神の大いなる括弧につけられたプラスのしるしです。私たちを御覧になり、極めてよい!と言われる(創1:31)方の、私たちを無条件に愛してくださる方の大きな肯定が、御子キリストの十字架に目に見える形で示されたからです。


 優れた霊的指導者として多くの人に愛されているヘンリ・ナウエンというオランダ人の司祭があります。彼は、神学と心理学を学び、アメリカの有名な大学で教鞭をとっていた神学者でもありました。しかし、ナウエンが霊的指導者として慕われる所以は、その博識ではなく、彼の心の優しさ、自らの心の葛藤や苦悩、あるいは喜びを包み隠さずに述べることができる言葉の明晰さにあります。彼自身が、癒されがたい深い苦しみと孤独を経験したのです。親しい友情が壊れたことから心に深い傷を受けて、完全に弱り果てていた時、ナウエンは、心理療法を受けるたけに働きの場を去らねばなりませんでした。そこを去って、何時間も抱きしめられるという治療を受けねばなりませんでした。この療法によって、ナウエンは、次第に自分の中に癒しの場を見出して行きます。


 私たちもまた、心が定まらず、なかなかまっすぐに歩めない者です。その弱さゆえに、慢性的な、潜在的な不安の中にあります。しかしながら、神は、人間の魔術ではなく、神に委ねる信仰によって平安を得るようにと、私たちをお招きくださっています。無条件に私たちを迎え、抱きしめて、その祝福を満してくださる神から、私たちはまっすぐに進む力をいただきます。私たちは、その祝福を、私たちに与えられた大切な人に手渡していく一巡りの旅路へと、ご一緒に遣わされて参りましょう。