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主日礼拝説教
  「あなたが用いられるとき」

日本基督教団藤沢教会 2010年6月27日

10エステルはまたモルデカイへの返事をハタクにゆだねた。11「この国の役人と国民のだれもがよく知っているとおり、王宮の内庭におられる王に、召し出されずに近づく者は、男であれ女であれ死刑に処せられる、と法律の一条に定められております。ただ、王が金の笏を差し伸べられる場合にのみ、その者は死を免れます。三十日このかた私にはお召しがなく、王のもとには参っておりません。」12エステルの返事がモルデカイに伝えられると、13モルデカイは再びエステルに言い送った。「他のユダヤ人はどうであれ、自分は王宮にいて無事だと考えてはいけない。14この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。」15エステルはモルデカイに返事を送った。16「早速、スサにいるすべてのユダヤ人を集め、私のために三日三晩断食し、飲食を一切断ってください。私も女官たちと共に、同じように断食いたします。このようにしてから、定めに反することではありますが、私は王のもとに参ります。このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。」17そこでモルデカイは立ち去り、すべてエステルに頼まれたとおりにした。            (エステル記 4章10〜17節)



13パウロとその一行は、パフォスから船出してパンフィリア州のペルゲに来たが、ヨハネは一行と別れてエルサレムに帰ってしまった。14パウロとバルナバはペルゲから進んで、ピシディア州のアンティオキアに到着した。そして、安息日に会堂に入って席に着いた。15律法と預言者の書が朗読された後、会堂長たちが人をよこして、「兄弟たち、何か会衆のために励ましのお言葉があれば、話してください」と言わせた。16そこで、パウロは立ち上がり、手で人々を制して言った。
「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々、聞いてください。17この民イスラエルの神は、わたしたちの先祖を選び出し、民がエジプトの地に住んでいる間に、これを強大なものとし、高く上げた御腕をもってそこから導き出してくださいました。18神はおよそ四十年の間、荒れ野で彼らの行いを耐え忍び、19カナンの地では七つの民族を滅ぼし、その土地を彼らに相続させてくださったのです。20これは、約四百五十年にわたることでした。その後、神は預言者サムエルの時代まで、裁く者たちを任命なさいました。21後に人々が王を求めたので、神は四十年の間、ベニヤミン族の者で、キシュの子サウルをお与えになり、22それからまた、サウルを退けてダビデを王の位につけ、彼について次のように宣言なさいました。『わたしは、エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを見いだした。彼はわたしの思うところをすべて行う。』23神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです。24ヨハネは、イエスがおいでになる前に、イスラエルの民全体に悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。25その生涯を終えようとするとき、ヨハネはこう言いました。『わたしを何者だと思っているのか。わたしは、あなたたちが期待しているような者ではない。その方はわたしの後から来られるが、わたしはその足の履物をお脱がせする値打ちもない。』          (使徒言行録 13章13〜25節)



用いられる喜び

 昨日おこなわれた神奈川教区総会は、わたしたちの教会にとって大きな喜びの与えられる教区総会でした。わたしたちの教会出身のK兄が准允式に臨まれ、教団の補教師に任じられたのです。新しい教職者、伝道者の誕生です。もっとも、K兄は、この春、神学校を卒業されて、4月からはすでに、与えられた任地教会での働きに仕え始めていらっしゃったことは、皆さんご存じのとおりです。けれども、厳密なことを言うと、昨日まではまだ、藤沢教会の信徒の立場でいらしたのです。准允を受けられて、K兄は、教師(教職)として新たに生まれたのです。

 神の召し。召命。この言葉を、わたしたちは、一人の信徒が教師(教職)として新たに生まれるときに思い起こします。皆さんも、教師である者のことを「神に召された人」と、敬意を込めてお呼びくださることがあります。そのように呼ばれると、教師の一人として、身の引き締まる思いを与えられます。

 もっとも、皆さん一人ひとりも、「神に召された人」です。わたしたちすべての者を召し集めようとしてくださる神の呼び声を聴いて、それに応えて、わたしたちは皆、今日、ここに集ってきました。神の呼び声を、はっきりと自覚して聴き取られて、応えてこられたかは、分かりません。それでも、すでに洗礼を受けた信者の方も、まだ洗礼を受けていらっしゃらない方も、どこかで、神の呼び声を聴いてこられたのでしょう。神の召し集めようとなさる呼び声に、皆さん一人ひとりは応えられたからこそ、今、ここに集って、共に礼拝にあずかっていらっしゃる。そのようにして礼拝にお出でになられるようになった皆さんは、洗礼を受けられたとき、「わたしは神に召された者です」と告白なさったのです。洗礼を受けた信徒になり、教会員になるとき、わたしたちは、「神に召された者」として公にされて生きていくようにされました。信徒として教会の名簿に登録され、会員名簿に掲載されるようになれば、ある意味で、わたしたちは皆、覚悟が必要になります。「逃げも隠れもしない。わたしは、神に召された者です」と、少なくとも教会に集うお互い同士の間では、公言することになるからです。

 このことに抵抗を感じ、これを嫌って、洗礼を受けることを躊躇される方があります。お気持ちは分からなくはありません。けれども、日曜日に教会においでになられ、礼拝にあずかっていらっしゃるのに、「わたしは神に召された者です」と公言なさらないというのは、本当にもったいないことです。なぜなら、洗礼を受けて、「神に召された者」として公に信徒・教会員として生きていくということは、大きな喜びを与えられることだからです。神に呼び出されて教会に召し集められた者として、わたしたちは皆、この教会で神に用いていただく、神のお働きのために用いていただく、その喜びをいただくことが許されているのです。

 「神に用いられたい」。わたしたちはだれでも、本当はそう願う者なのではないでしょうか。心の奥底に、そのような願いを持っている。その願いに神は、教会に召し集めてくださることによって、お応えくださっているのです。神が教会に召し集めてくださる、その教会で、その教会から、わたしたち一人ひとりは、神に用いていただく道を、拓いていただくのです。


神のご計画の中でこそ…

 教師(教職)として立てられる者と、そうではない信徒との違い。それは、神が召し出してくださる《場》の違い、あるいはその《大きさ》の違い、と言っても良いかもしれません。

 洗礼を受けて信徒として生まれるとき、わたしたちは、それぞれの《教会》で洗礼を受けます。それぞれの《教会》という場を与えられるのです。それぞれの《教会》で生まれ、その《教会》の中で、あるいはその《教会》を拠点にして、神に用いていただく道を与えられていきます

 教師(教職)として立てられるとき、その人は、それぞれの《教会》だけによってではなく、その《教会》の集まりである《全体教会》で任職されます。わたしたちの教団の場合であれば、K兄を教師として立てるということを、藤沢教会がおこなったのではありません。教団という千七百の教会の共同体全体の責任で、教師に任職したのです。それはつまり、その人は、教師として任職されるときに、教団という《全体教会》、千七百の教会共同体全体という場に召し出された、ということです。それぞれの教会という場に召し出されていた信徒が、もっと大きな教団、《全体教会》、教会共同体全体という場に召し出されて、その全体の中で、あるいはその全体を自分の依って立つところとして、神に用いていただく道を与えられるようになる。それが、教師として立てられるということです。

 教会の組織論をお話ししたいのではありません。皆さんに、想像していただきたいのです。まだ洗礼を受けていらっしゃらない方には、洗礼を受けることによって自分一人、あるいは自分の家族という場を越えて、信仰共同体である《教会》という場を与えられて生きるということを。すでに洗礼を受けていらっしゃる方には、教師として立てられて、大きな教会共同体全体という場を与えられて生きるということを。そして、すでに教師として立てられている者には、もっと大きな、神の創造された世界全体という場を与えられて生きるということを。

 朗読を聴いた使徒言行録には、使徒パウロが最初の宣教旅行をした際に立ち寄った町、ピシディア洲のアンティオキアにあるユダヤ人の会堂で語った説教、奨励の言葉が、伝えられていました。その前半部分までを朗読で聴きましたが、まだパウロの説教・奨励は続きます。節でいうと41節まで続く。そして、その後には、このパウロの説教・奨励を聴いた会堂のユダヤ人たちは、次の安息日にも同じことを話してくれるようにと、パウロたちに頼んだのだそうです。

 さぞかし、感動的な、心に響く説教・奨励だったのかと思います。とは言っても、パウロが語ったことは、わたしたちが旧約聖書を開いて読むことのできる、イスラエルの歴史の要約にすぎません。パウロの時代から見ても、すでに千年以上前、イスラエルの人々がエジプトに住んでいたときから初めて、そのエジプトから出て来たイスラエルの人々が、どのような歴史を歩んできたか。しかし、パウロは、このイスラエルの歴史を、むしろ神のご計画の歴史として、語りました。神の壮大な歴史のご計画があって、その中にイスラエルの歴史が置かれていて、そして、その神の歴史、イスラエルの歴史の先に、イエス・キリストを通して、自分たち一人ひとりの今がある。パウロは、そのように語りました。

 わたしたちが、神に召されるということを通して、教会という場に目を開かれ、教団=教会共同体全体という場に目を開かれ、そして世界に目を開かれていく。そのとき、わたしたちは、ちょうどパウロが語ったのとは逆の順序で、神の壮大なご計画の中に自分が置かれていることを、よりはっきりと知るようになります。もちろん、ただ頭の中で考えることもできるかもしれません。教会とか、教会共同体全体というものを飛び越えて、いきなり、この世界全体についての神の壮大なご計画ということと、一人自分の人生の歩みということを、結びつけていくこともできるかも知れません。けれども、主イエスは、わたしたちに、まず、主と結びつく場、教会を備えてくださいました。諸教会を結びつけて、大きな《キリストの体》、《神の民》としての教会共同体全体を、与えてくださいました。この教会と、教会共同体全体を通して、わたしたち一人ひとりの人生を、生活を、神の世界全体に対する壮大なご計画と、結びつけてくださったのです。教会と教会共同体全体を通して、わたしたちが、神に召された者として、浮き足立つことなく、確かに地に足をつけて、神に用いられる喜びを共に分かち合うことができるように、してくださったのです。


「今」が用いられるとき

 ドイツに伝わる三人の石切工の話があります。ある人が、石切り作業をしている三人の男に、何をしているのかと尋ねました。第一の男は、「これで暮らしを立てているのさ」と答えました。第二の男は、槌で打つ手を休めずに「国中で最高の石切りの仕事をしているのさ」と答えました。第三の男は、その目を輝かせ夢見心地で空を見あげながら「大聖堂をつくっているのさ」と答えたのです。

 わたしたちは、神の壮大なご計画の中に置いていただいています。世界大のご計画を遂行なさっている神が、わたしたち一人ひとりを、召し集めてくださっているのです。一人ひとりを用いてくださるのです。ご計画の一端を、わたしたちは皆、託していただいているのです。

 それは、多くの人に注目されるような大きな働きの場かもしれませんし、誰にも知られない小さな働きの場かもしれません。けれども、わたしたちが、神に召された者として、神の大きなご計画の一端を担わせていただいているのだとすれば、それがどんな働きの場であるかは、重要なことではないでしょう。家庭で、地域で、教会で、社会で、教会共同体全体で、世界中で、さまざまな形で、大小の働きが、神のご計画のために用いられているのです。今、わたしたち一人ひとりが、神に用いていただけるのです。

 神の召しに応えましょう。神のご計画に目を開かれましょう。今、神に用いていただけるよう、大いに用いていただく道が拓かれるよう、祈り求めましょう。


祈り

主よ。あなたの召しに応えさせてください。ご計画の中に置いていただきました。今、あなたに用いていただく道が拓かれますように。アーメン