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主日礼拝説教 日本基督教団藤沢教会 2010年7月4日 23わたしはただ近くにいる神なのか、と主は言われる。 早いもので2010年という年も半分を終え、後半に入りました。気の早い話ですが、クリスマスまで半年を切った、と言っても良いかもしれません。けれども、わたしども教職者の意識としては、決して気が早いわけではないのです。すでに、クリスマスに向けて洗礼を受ける準備を始めてくださっている方があります。あるいは、クリスマスという機会に必ずしも照準を合わせることにならないかもしれませんが、わたしたちの教会に転入会するための備えを始めてくださっている方々があります。クリスマスという祝いのときに向かう長丁場の期節ですが、だからこそ、わたしたちは、そのようなお一人おひとりの備えに伴わせていただく、また、あらたに名乗りを上げてくださる方を一人また一人と加えさせていただく、そのことにじっくりと腰を据えて、共に取り組んでまいりたいと思うのです。 この期節、「教会の半年」という言い方をいたします。教会の営みに目を向けていく期節、という意味です。たしかに、わたしたちは、この期節に、教会のさまざまな課題に取り組みます。今日の午後も、教会の課題を皆さんと共有するための懇談会のときを持ちます。けれども、そのような期節であるということは、決して、わたしたちが、この世に生きる人間としての発想で教会の営みに取り組む、ということではないでしょう。わたしたちは、この期節、教会の具体的な課題に取り組むときにこそ、わたしたちを教会に召し出してくださった方、神の御心を知ることに、本当に良く心を用いたいのです。 もちろん、そういうことは、教会の中だけのことではありません。わたしたち一人ひとりの生活のことでも、同じことです。 わたしたちは、日曜日には、このように、確かに教会に召し集められてきています。わたしたちは、ここに召し出されてきました。それぞれの生活の場から、この世界の中から、召し出されてここ教会という場に集っているのです。それは、すでに洗礼を受けている者も、まだ受けていない方も、同じことです。「教会には自分の意志で来ているのだ」とおっしゃる方もあると思いますが、そのようにお考えの方でさえ、実は、神が御手を伸べて召し出すということをしてくださったからこそ、わたしたち一人ひとりは、ここに今いるようにされたのです。疑わないで、本当に素直に心を開いてくだされば、そのことはきっとお分かりいただけることです。「教会に日曜日に来る」というのは、決して当たり前のことではない。その当たり前ではないことを、今、わたしたちがしているのは、ただ、わたしたちのこの世界を支配していらっしゃる神がわたしたちを召し集めてくださって、ここで共に神の御顔を仰ぐようにと導いてくださっているからなのです。 そのようにわたしたちを導いてくださって、日曜日には教会に召し集めてくださる神が、では、月曜日から土曜日までは、わたしたち一人ひとりを、ほったらかしになさっているのでしょうか。わたしたちの意識としては、そのように思うことのほうが多いかもしれません。日曜日は、神の御手に力強く引き寄せられて教会に集うことができているが、月曜日から土曜日までは、神の御手から離れて、信仰とは無関係な日々の生活、日々の営みを、重ねてしまっている。それも仕方ないかな、などと思いながら、週末を迎え、そして、「せめて日曜日は」と気持ちを取り直して、日曜日には、教会に集ってきている。そういうところが、わたしたちには皆、あるかもしれません。 確かに、教会外の生活、日々の営みは、わたしたちが信仰を前面に打ち出して歩んでいくには難しいところがある。教会の中とは全く違う価値観で動く世の中に出て行ったとき、わたしたちが教会の中の価値観と同じ価値観でふるまったならば、すぐにも行き詰まってしまう。そういう経験をなさってこられた方も少なくないと思います。どうしても、「教会用」の自分と、「普段用」の自分と、二つの自分を使い分けてしまう。そういう方も、いらっしゃるのではないでしょうか。 それも仕方ないことかも知れません。ただ、どうなのでしょうか。そういう皆さんは、本当に、そういう「二重生活」を、上手に使い分けることができているのでしょうか。本当は、ひどく疲れ果ててしまっているのではないでしょうか。「教会用」の自分か、「普段用」の自分か、どちらか一つにできたら、どんなに楽になるか。いいえ、「どちらか」などと呑気なことを言っている場合ではないのです。本当は、もう、わたしたちは皆、すでに神の呼び声に応えて「教会」に召し出されてきた者なのですから、ただ「教会用」の自分一つに生きることができるはずなのです。そうしなければ、わたしたちは、召し出される以前にも増して、ひどく分裂してしまうことになってしまう。 キリストに結ばれている 「教会用」と「普段用」。その違いは、どこにあるのでしょうか。「キリストに結ばれている」か、否か。その違いです。 わたしたちは、神に召し出されてきました。神に召し出されて、わたしたちは、日曜日ごとに教会に集います。神は、ここで、何よりも、わたしたちをキリストに結びつくようにと、導いてくださっている。神がわたしたちを教会という場へ召し出してくださるのは、わたしたちがキリストと結びつくようになるためです。だから、わたしたちは、教会に招き集められたとき、いつでも、キリストと結びつくようにと、招かれています。キリストと結びつくかどうか、決断を迫られています。いや、誤解を恐れずに言えば、信者でもそうでなくても、教会の営みの中に加わっているときには、だれでも、ある意味ではキリストと結びついている、と言ってもよい。だから、子どもたちには、洗礼を受けていなくても、当たり前のように、「君たちは神の子だよ、イエスさまの子どもだよ」と言うし、子どもたちは、そのことを素直に受けとめます。大人の皆さんに対しても、それは、同じことが言える。洗礼を受けていらっしゃらなくても、今、礼拝に共にあずかってくださっている皆さんには、「あなたも神の子です、イエスの子どもです」と、宣言させていただくことができる。その意味では、皆、「キリストに結ばれている」のです。けれども、礼拝が終わり、教会の営みから、普段の生活への戻っていったときに、なおそのことを、皆さんが保ち続けることができるかと言えば、そのためには、皆さんの決断が必要です。「そうです、わたしはキリストに結ばれます。キリストに結ばれて神の子としていただきます」という応答が必要です。 わたしたちの受けた洗礼は、この応答によってわたしたち自身のものになりました。だから、パウロは、こう教えたのです、「洗礼を受けてキリストに結ばれた」(ガラ3:27)。 「だから、信頼して待ち続けよう! 「教会用」の自分は、「キリストに結ばれた自分」です。キリストに結ばれて神の子とされた自分、キリストを着た自分、です。 それは、わたしたちが当たり前に身に着けていた「普段用」の自分とは、根本的に違う自分です。振り返ってみてください。「普段用」の自分は、いつでも出しゃばりで、自己顕示欲が強くて、自己中心的なのではないでしょうか。端から見て控え目の人でさえ、謙虚な振る舞いをしている人でさえ、本当は、放っておけば「自分」ばかりが異常に大きくなっている、それが、わたしたちの「普段用」の自分なのではないでしょうか。そして、それは結局、その異常に大きくなっている「自分」を、他の人の、やはり異常に大きくなっている「自分」と衝突させ、分裂させ、破壊してしまうに至る、そういう「自分」なのではないでしょうか。 「教会用」の自分、「キリストに結ばれた自分」は、あの異常に大きくなっていた自分を、どこまでも小さくしていただいている「自分」です。キリストが、自ら小さく低くなられて、その命さえ手放されたように、そのキリストに結ばれた自分は、キリストによって小さく、低くしていただく。自分の命さえ手放すことのできる者にされる。しかし、そこに、わたしたちが本当に「自分」の命を見出すことができる。他の人の「自分」と共に生きる命の場を見出すことができる。そのような命に至る道を、キリストが拓いてくださっているのです。 ああ、でも、わたしたちは、自分の姿を見るとき、情けなくなります。まだまだ、「キリストに結ばれた自分」の中に、あの「普段用」の異常に大きくなろうとする「自分」が、密かに忍び込んでくることを、どうしても防ぎきれないでいる。それでも、わたしたちはもう、あの「普段用」の異常に大きくなろうとする「自分」を、良しとすることは、一時であってもすることは断念したいのです。たとえまだ、「キリストに結ばれた者」として完全でなくても、「キリストに結ばれた自分」だけを望み求めたいのです。 そう、それは、虚しい望みではありません。はるかに希望を持つだけの価値のある、確かな望みです。もう、キリストが、結びついてくださっているからです。キリストが、この自分と結びついてくださって、確かに、キリストに似た者、神の子へと、造りかえてくださっているからです。 キリストを信頼して待ちましょう。キリストに結ばれた自分をも信頼して、待ちましょう。キリストに結ばれたすべての人を信頼して、待ち続けましょう。 祈り 主よ。あなたがわたしどもを召し集めてくださいます。御子と結びつくようにしてくださいます。あなたの子として造りかえてくださいますように。アーメン |