聖霊降臨節第8主日礼拝説教
「この鮮やかな家に住もう!」 日本基督教団藤沢教会 2010年7月11日
1 シェバの女王は主の御名によるソロモンの名声を聞き、難問をもって彼を試そうとしてやって来た。2 彼女は極めて大勢の随員を伴い、香料、非常に多くの金、宝石をらくだに積んでエルサレムに来た。ソロモンのところに来ると、彼女はあらかじめ考えておいたすべての質問を浴びせたが、3
ソロモンはそのすべてに解答を与えた。王に分からない事、答えられない事は何一つなかった。4 シェバの女王は、ソロモンの知恵と彼の建てた宮殿を目の当たりにし、5
また食卓の料理、居並ぶ彼の家臣、丁重にもてなす給仕たちとその装い、献酌官、それに王が主の神殿でささげる焼き尽くす献げ物を見て、息も止まるような思いであった。6
女王は王に言った。「わたしが国で、あなたの御事績とあなたのお知恵について聞いていたことは、本当のことでした。7 わたしは、ここに来て、自分の目で見るまでは、そのことを信じてはいませんでした。しかし、わたしに知らされていたことはその半分にも及ばず、お知恵と富はうわさに聞いていたことをはるかに超えています。8
あなたの臣民はなんと幸せなことでしょう。いつもあなたの前に立ってあなたのお知恵に接している家臣たちはなんと幸せなことでしょう。9 あなたをイスラエルの王位につけることをお望みになったあなたの神、主はたたえられますように。主はとこしえにイスラエルを愛し、あなたを王とし、公正と正義を行わせられるからです。」10
彼女は金百二十キカル、非常に多くの香料、宝石を王に贈ったが、このシェバの女王がソロモン王に贈ったほど多くの香料は二度と入って来なかった。11
また、オフィルから金を積んで来たヒラムの船団は、オフィルから極めて大量の白檀や宝石も運んで来た。12 王はその白檀で主の神殿と王宮の欄干や、詠唱者のための竪琴や琴を作った。このように白檀がもたらされたことはなく、今日までだれもそのようなことを見た者はなかった。13
ソロモン王は、シェバの女王に対し、豊かに富んだ王にふさわしい贈り物をしたほかに、女王が願うものは何でも望みのままに与えた。こうして女王とその一行は故国に向かって帰って行った。
(列王記上 10章1〜13節)
14 わたしは、間もなくあなたのところへ行きたいと思いながら、この手紙を書いています。15 行くのが遅れる場合、神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。16 信心の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、キリストは肉において現れ、“霊”において義とされ、天使たちに見られ、異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。
(テモテへの手紙一 3章14〜16節)
私たちは本日の主日課である使徒書、テモテへの手紙の途中にある、短い御言葉を聞きました。「わたしは、間もなくあなたのところへ行きたいと思いながら、この手紙を書いています。」(3:14)こう語るのは、手紙の書き手とされている使徒パウロです。パウロが、「信仰によるまことの子」と呼ぶ、信頼する若い同労者のテモテに書き送った手紙の一節です。パウロはこう言っています。「行くのが遅れる場合、神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。」今すぐにでも会いに行きたいけれども、実際には、それが難しい状況です。会える日を待ち望みながら、しかし、ただその日を遠くに待っているというのではなく、神の家での生活について、どのようにすべきかを知ってもらいたい。私が会いに行く前に、ぜひ、その生活を始めていてもらいたい、というパウロの願いです。第一に、教会とは神の家であるということです。第二に、教会に真理の柱、土台としてのキリストを据えることです。
そして、最後に書かれている詩文は、初期の教会が歌い継いだといわれる「キリスト讃歌」の一つです。この「キリスト讃歌」は、信仰告白であり、同時に伝道的な力も持っていたと言われています。本日は、礼拝の中で聖歌隊が特別に讃美を奉仕してくださる主日でもありますけれども、信仰の事柄が、讃美歌として歌われることで、よくわかる、共感する、まことに、心から「アーメン!」と言える、といった経験のある方は少なくないと思います。この経験は、歌を歌って、人間の感情が高ぶるということとは別のことです。私たちの肉の体は、この空間を過ごす中で目を凝らして、時間を過ごす中で耳を澄ませて、あらゆる感覚を駆使して、神を知ろうとするのです。
「神よ、あなたはわたしたちを、ご自身に向けてお造りになりました。ですからわたしたちは、あなたの内に憩うまで、安らぎを得ることができません。」中世の信仰者(アウグスティヌス)が語った、このことは、神を求めて私たちの霊魂がそこら辺をさまよい歩いている、というものではありません。それは、私たちの内面の切なる求めであると同時に、身体を伴う内面の求めです。私たちの全身が、文字通り「全身全霊」が、その憩いをあこがれているのです。私たちは、何においても、中身や精神が肝心だと思っています。外面的な形がどんなにすてきでも、中身が伴わないならば、がっかりしてしまいます。しかしながら、私たちの持つ印象というものは、大きな力を持っています。中身を知らないけれども、まず見て、どう感じたか、という印象です。これは後で、大きく覆されることはあるのですが、印象が変えられたとしても、第一印象はよく覚えているということは少なくありません。
先の主日の午後には、教会懇談会が行われました。懇談会の主な内容の一つは、会堂改修の話題でした。教会建物のことですから、皆さんは、普段から目に見える部分で、何が必要で、何が不必要なのか、よく考えてくださっていると思います。礼拝堂や玄関、受付などが、私たちの教会の印象となるのであれば、なおのこと大切な話だと思います。私たちは、ただ自分たちの思いを話すだけでなく、教会建築ご専門の兄弟やコンサルタントの方にお話を伺うプロセスを踏みました。その中で鍵になっている言葉の一つに、「物理的なバリアーフリー」、「心理的バリアーフリー」という言葉を挙げることができると思います。建物だけでなく、その建物を教会として立てていくための心の部分を、教会の土台として据えていくのです。家族や友人を、この地域の皆さんを教会にお迎えするには、どのような配慮を尽くすことができるでしょうか。いわば、教会の信仰の応用問題です。
私は、神学校時代に、実際に開拓伝道を展開されている教授の日本伝道論という授業を受講したことがあります。教会に初めて来た人が疑問に思うところ、あるいはバリアーを感じるところについて、クラスで考えた経験があります。私がその時に思ったことは、どんなに伝道の情熱に溢れていても、新来者や求道者の方の目線で考えるということは、案外、難しいものだということでした。
例えば、多くの教会では、礼拝に訪れる人が最初にすることは、受付です。私たちの教会では、受付で名前を書いたり、週報などを受け取ったりします。私は、実は、受付で名前を書くという教会は初めてです。今まで教会生活をした教会では、受付に並べられた名簿に丸をつけるようになっていました。新しく来られた方には、その名簿の空欄にお名前を書いていただくという形です。あるいは、一切名前も書かないし、丸もつけないという教会も経験しました。その教会は、月に一度、聖餐のパンと杯に与る時に、洗礼を受けている人がサインをして聖餐に与るという習慣がありました。私たちの教会は、たくさんの方が礼拝に来られますので、私は当初、なぜ一人一人名前を書くのだろうかと疑問に思いました。皆さんは、このような疑問を持たれたことがおありでしょうか。先日、私はある機関誌を読んでいて、そのような教会の素朴な疑問をおもしろく取り上げている連載記事に出合いました。「なぜ、受付で自分の名前を書かねばならないのですか?」何か管理されているような感じを受ける、あるいは名前を知られることでしつこく勧誘されるのではないか、勇気を出して初めて教会に来られたという方がそのような疑問を持たれたとします。皆さんが受付の奉仕者であったとしたら、どのようにお答えになるでしょうか。「だれが礼拝に来ているのかを知るためです。」一つには、こういう答え方があると思います。私たちの教会の週報にも、毎主日、前の礼拝の統計をお載せしています。この統計の数字は、機械的に数えられているわけではなく、ご奉仕で、最後に見直してくださる方があって、教会学校や聖歌隊等、奉仕の関係の方が、礼拝の前後に名前を書くことがおできにならなかったという場合にも、見逃さずにチェックして名前を加えてくださいます。これは、教会の言葉で言うと「牧会」という奉仕です。あいさつを交わすことのできる限られた数名の方ではなく、一人一人の方の礼拝生活の安否を尋ねるという意味での牧会です。誰かが、記された一人一人の名前を丁寧に見ているとすると、いつものサインよりもいくらかきれいな字で記名したいと思われるかもしれません。機関誌の連載の最後には、しかしそれ以上のことが書かれていました。「記名の意味は、教会側が出席者を把握することだけではないはずです。出席者の側からすれば、神を礼拝するにあたって『わたしはここにいます』という思いで、自分がこの日の礼拝に来たしるしを刻むことでもあります。大切な式典に際して記帳するように。催ものの際にゲストブックに書き込むように…」(小泉健先生)
記名に際してある人々が感じるバリアーは、記名を止めるという方法で解決されることがあるかもしれません。しかし、この例にあるように、私たちはそのバリアーを、信仰の言葉を持って礼拝の姿勢を伝えることで取り除くことができるかもしれません。教会は、建物や組織、制度といった形となって表面に現れ出るものだけではなく、それを根底で支えている、いわば土台となる信仰の言葉が問われているのです。
私たちの教会は、主日毎の礼拝で代々の教会と共なる<使徒信条>を告白します。使徒信条は、「全能の父なる神を信ず」、 「イエス・キリストを信ず」、「聖霊を信ず」と、三位一体の信仰を告白します。そして、聖霊を信じるゆえに、聖なる公同の教会を信じると告白いたします。教会は信じるものです。教会が信仰の事柄であるということはまた、私たちが信仰によってしか教会を真に認識できないということでもあります。聖書は、教会を「神の家」であると言います。私たちは、この家の大黒柱として、土台として、揺るぎのないキリストの信仰を据えるのです。聖書が教会を「神の家」や「神の神殿」といった建物による比喩を用いるときに、言われているのは教会の建物についてではありません。私たち一人一人について言っているのです。私たちが教会であり、神のお住まいになる「家」であるのです。それは私たちにとって、身に覚えのないことです。神が住んでくださるはずはない、と思ってしまいます。しかし、このように聖書は告げています。「信心の秘められた真理は確かに偉大です。」(3:16)
「秘められた真理」といわれている言葉(ミュステーリオン)は、「秘儀」、「奥義」を意味する言葉です。神が私たちの間に住んでくださる、「秘儀」とは、私たちの日常生活にはあまり使うことのない言葉ですが、私たちの理性によって論理的に説明するということができないことがらです。言葉で説明することのできない「秘儀」が、私たちの間に起こっている、そのことの讃美を歌っています。「キリストは肉において現れ、“霊”において義とされ、天使たちに見られ、異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」
キリストが肉において現れた(ヨハネ1:14)、すなわち、これはクリスマスの奇跡です。キリストは、この地上に、一人の男の子として生まれ、人々の間でお育ちになられました。肉体を持つゆえに、空腹を覚えられ、誘惑を受けられました。一人の体として現れたキリストは、その身に十字架の苦難と死を引き受けられました。私たちは、罪と戦って血を流すまで抵抗したことはありません(ヘブライ12:4)。しかし、キリストは、私たちの罪のためにその御体に血を流されました。キリストは、まことの体を持った、驚くべき仕方で、私たちにご自分を現わされたのです。
そして、復活のキリストが天に昇られた今、私たちには聖霊が与えられています。キリストが肉となって、人々の間に現れたように、聖霊なる神は、私たちの間に宿られます。聖霊は、キリストとは異なる、目には見えない仕方で、ご自分を現わされます。私たちの内側に働きかけ、心の深いところから私たちを新しくするという仕方で、ご自分をお示しになられます。私たちにとっては、必ずしもわかりやすいことではありません。聖霊は、私たちの理性によってはかることのできない力です。私たちの心の深いところに浸透し、静かに変容させる力です。聖霊は、決して信じないと思っていた人に信仰を与えます。神などわからないと思っていたところに、「アーメン」(真実です)という告白を引き出します。不安の中から、平静さを生まれさせ、全くの失望の中から、よろこびを生まれさせます。古代の信仰者は、内側に沸き起こるこのような新しい力に動かされて、讃美を歌いました。私たちの深いところに「アーメン」が湧き起こるのです。私たちの理性を超えたところで聖霊がはたらかれるのです。この「秘儀」は、私たちの内に、目には見えない秘かな形で起こりますが、やがて、私たちの体を通して、その生きた働きが現わされます。聖霊が与えられた私たち一人一人が、その内なる力を土台として、神の家を形作ります。内なる輝きは、内側に閉じ込められず、外に向かって光を放ちます。
旧約聖書の中では、ダビデ王やソロモン王の栄えた時代(歴代上28〜29章)、神殿の建築には様々な宝石が散りばめられました。サファイヤや赤めのう、エメラルドなどの美しい石がささげられました。時代が下り、国家が衰退して、エルサレムの神殿が破壊された後、なお人々は、美しい宝石の輝きを放つ神殿の再建の幻を持ち続けました(イザヤ51:11〜13)。それは、この世の富を意味しません。それは、神の朽ちることのない富の象徴であり、その祝福を受け継ぐイスラエスの嗣業であるのです。この嗣業は、異邦人、世界中のすべての人々へと広げられていきます。「異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた」キリストのゆえに、生ける神の住まいとしての鮮やかな家は、私たちの間に立てられたのです。サファイヤやめのう、エメラルド、この色鮮やかな神の富は、私たち一人一人に光る賜物として分け与えられました。私たちは、実に多様な賜物を与えられた神の民として今、集められています。私たちは、この賜物で教会を飾りましょう。そして、この家が完成する日を待ちましょう。神の国が完全な形で実現する終わりの日、もはやその新しい都に教会はありません。そこには、サファイヤやめのう、エメラルドが土台石として輝き、教会の代わりに、主と私たちがそこに住まうのです(黙21:9〜27)。
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