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主日礼拝説教
  「恵みの強さを知っていますか?」

日本基督教団藤沢教会 2010年7月18日

32ダビデはサウルに言った。「あの男のことで、だれも気を落としてはなりません。僕が行って、あのペリシテ人と戦いましょう。」33サウルはダビデに答えた。「お前が出てあのペリシテ人と戦うことなどできはしまい。お前は少年だし、向こうは少年のときから戦士だ。」34しかし、ダビデは言った。「僕は、父の羊を飼う者です。獅子や熊が出て来て群れの中から羊を奪い取ることがあります。35そのときには、追いかけて打ちかかり、その口から羊を取り戻します。向かって来れば、たてがみをつかみ、打ち殺してしまいます。36わたしは獅子も熊も倒してきたのですから、あの無割礼のペリシテ人もそれらの獣の一匹のようにしてみせましょう。彼は生ける神の戦列に挑戦したのですから。」37ダビデは更に言った。「獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、わたしを守ってくださるにちがいありません。」サウルはダビデに言った。「行くがよい。主がお前と共におられるように。」38サウルは、ダビデに自分の装束を着せた。彼の頭に青銅の兜をのせ、身には鎧を着けさせた。39ダビデは、その装束の上にサウルの剣を帯びて歩いてみた。だが、彼はこれらのものに慣れていなかった。ダビデはサウルに言った。「こんなものを着たのでは、歩くこともできません。慣れていませんから。」ダビデはそれらを脱ぎ去り、40自分の杖を手に取ると、川岸から滑らかな石を五つ選び、身に着けていた羊飼いの投石袋に入れ、石投げ紐を手にして、あのペリシテ人に向かって行った。
 41ペリシテ人は、盾持ちを先に立て、ダビデに近づいて来た。42彼は見渡し、ダビデを認め、ダビデが血色の良い、姿の美しい少年だったので、侮った。43このペリシテ人はダビデに言った。「わたしは犬か。杖を持って向かって来るのか。」そして、自分の神々によってダビデを呪い、44更にダビデにこう言った。「さあ、来い。お前の肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。」45だが、ダビデもこのペリシテ人に言った。「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。46今日、主はお前をわたしの手に引き渡される。わたしは、お前を討ち、お前の首をはね、今日、ペリシテ軍のしかばねを空の鳥と地の獣に与えよう。全地はイスラエルに神がいますことを認めるだろう。47主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される。」
 48ペリシテ人は身構え、ダビデに近づいて来た。ダビデも急ぎ、ペリシテ人に立ち向かうため戦いの場に走った。49ダビデは袋に手を入れて小石を取り出すと、石投げ紐を使って飛ばし、ペリシテ人の額を撃った。石はペリシテ人の額に食い込み、彼はうつ伏せに倒れた。50ダビデは石投げ紐と石一つでこのペリシテ人に勝ち、彼を撃ち殺した。ダビデの手には剣もなかった。
              (サムエル記上 17章32〜50節)



 1わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。2なぜなら、
 「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。
 救いの日に、わたしはあなたを助けた」
と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。3わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、4あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、5鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、6純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、7真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、8栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、9人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、10悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。
         (コリントの信徒への手紙二 6章1〜10節)



「神の協力者」

 今日は、この礼拝の中で、二人の兄姉の転入会式を執り行います。また、未陪餐転入される兄弟を一人、ご紹介いたします。どなたも、すでに何十年も前に、時を与えられて洗礼〔バプテスマ〕の恵みにあずかられた方々です。その歩みは、随分違うようです。けれども、本質的なところでは、この三人の皆さんは、何ら変わるところがありません。あるとき、教会に招かれ、礼拝に加わる機会を与えられ、そこでキリストと結ばれる洗礼の恵みにあずかられた。つまり、キリスト者という名を与えられた皆さんです。

 そのような皆さんを、わたしたちの教会の群れにお迎えできることを、共に喜びたいと思います。わたしたちのこの教会で神がご計画くださっている御業のために招かれて用いられる人が、ここに加えられるのです。神が、ご計画のうちに、ここで御業をお進めくださるために必要な者として、あえて、ほかの教会の群れから、この教会の群れに移し、加えてくださったのです。神が、新たな働き人を必要とするご計画を、今、この教会の営みの中で進めてくださろうとしている。
 三人の兄姉方を加えられることによって、今、神がここで進めてくださろうとしている新しいご計画があるということが、示されました。そのことを、今日は特に心に刻み、神の新しいご計画のキックオフを、共に喜びたいと思います。

 今日の使徒書の御言葉で、使徒パウロは、こう記していました。

 わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます
                        (Uコリ6:1)

 パウロは、しばしば、自分自身のことを、また洗礼を受けたキリスト者たちのことを、神の協力者とか神のために力を合わせて働く者(Tコリ3:9)と呼びます。訳し方はいろいろですが、同じことです。神の協力者。とても大胆な言い方です。わたしたちは、自分のことをそのように呼ぶのは、はばかられる。躊躇します。けれども、パウロは、大胆にそう言うのです。「わたしたちは、神の協力者だ」、「あなたがたも、神のために力を合わせて働く者だ」。大胆すぎてうっかり聞き流してしまいそうですが、パウロは、わたしたちのことを言っているのです。

 どうして、わたしたちは、教会に導かれて来たのでしょうか。どうして、教会の礼拝に加えられ、時を与えられて洗礼を受けることになったのでしょうか。

 「自分の意志で来た」と言うのも、一つの答えでしょう。けれども、わたしたちは、いろいろなことを踏まえて考えると、やはり、こう言わざるを得ない。「神が、どういうわけか選ばれて、ここに来るようにしてくださった」。「神が、キリストと出会わせてくださり、洗礼を受けるようにしてくださった」。

 教会に来なくても、聖書を読み、一人祈り、神を信じることはできるようにも思えます。洗礼を受けなくても、キリストに倣って生きることはできるようにさえ思えます。世の中には、そのような生き方をなさっている方がたくさんいらっしゃるのでしょう。それも、神がお許しくださっている生き方なのだとも思います。けれども、わたしたちが信じる神は、主イエス・キリストによって、教会という群れを起こしてくださった。キリストと結ばれる洗礼のしるしを、お定めくださった。教会に、この世の中から人を選び出して、集めるためです。選び出した人に、神のしるし、キリストのしるしを、刻印なさるためです。そのようにして教会へと選び出した者を、また洗礼によってキリストのしるしを与えられた者を、神は、どうなさるのか。ご計画のための協力者としてお用いくださるのです。

 神の協力者。特別な人のことではありません。牧師や伝道師だけのことではありません。教会に招かれて、洗礼のしるしを与えられた一人ひとり、皆さんが、神の協力者です。「洗礼を受けていない自分は、まだ関係ない」。そうでしょうか。まだ洗礼を受けていらっしゃらなくても、神は、その方をご自分の協力者として立てられるお考えをお持ちなのだと思います。だからこそ、教会に、礼拝に、導かれて来られているのです。そのような方は、いわば神の協力者の候補者です。神のご計画のうちに、すでに選ばれている。ですから、ぜひ、神にお応えいただきたい。ここでキリストと出会って、ぜひ、キリストの助けをいただいて、神にお応えいただきたい。神の協力者の一人として任職される洗礼を受けることを、ぜひ願っていただきたい。それが、わたしたちの祈りでもあるのです。


この戦いは主のもの!

 神のご計画の協力者として生きる。何か、とても畏れ多いことのようです。そんな資格が、自分にあるのだろうかとも思います。

 ただ、わたしたちは、自分に神の協力者として生きる資格があるのだろうか、などと考える必要はないのかもしれません。むしろ、そのような資格を得ようなどと、考えない方がよい。資格など何もないのに、神が、このわたしをご自分のご計画のための協力者として、選び、招いてくださっている。そう考えるのです。

 ここに誤解や迷いがあると、わたしたちの歩みはふらついてしまうのです。

 旧約聖書のダビデとゴリアトの物語。ダビデは、まだ戦士として戦ったことのない少年。王から与えられた鎧兜さえ着けずに、戦場について行きました。対するゴリアトは、百戦百勝の巨漢の勇士。彼が戦線に立つだけで、対する敵側は、怖じ気づいてしまうのです。そのゴリアトに、少年ダビデは、羊の番をするときに用いる石投げ紐だけを持って、立ち向かいました。そして、石投げ紐で投じた石ころ一つで、巨漢ゴリアトを撃ち倒してしまった。そういう物語です。

 もっとも、これを一人の少年の素朴な物語とは思えない方も、あるかもしれません。ダビデは、「この戦いは主のものだ」と宣言しています。戦いという血なまぐさい話に、神が持ち出されている。そういうことを、わたしたちは、あまり歓迎しないのです。どの時代の、どの国でも、そういう点で過ちを犯してきました。人間同士の争いに過ぎないものを、「神の戦い」に仕立て上げようとしてしまう。もちろん、そういうことは、あってはなりません。

 しかし、大事なことは、この物語の少年ダビデが、人間が頼りにする経験も経歴も、能力も道具も、それらしいものをほとんど持つことなく、ただ、すでに与えられていた小さな道具一つだけを持って、この人生の重大局面に進み出ていった、ということです。物の分かった大人たちに言わせてみれば、子供だましのオモチャのようにしか見られなかった石投げ紐です。けれども、それこそ、神がダビデにすでに与えていたものでした。ダビデが神から授けられていた恵みのしるしでした。神がお働きくださるしるしでした。だからこそ、ダビデは、「この戦いは、主なる神のものだ」と言うしかなかったのでしょう。「この戦いは、我がものだ」などとは、決して言えなかったのでしょう。

神からいただいた恵みを無駄にしない

 パウロは、「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」と勧めます。

 このパウロには、教養もあり、能力もありました。生活力もあり、社会的地位もありました。その気になれば、自分の持っているものを存分に利用して、自分の人生を造り上げることができる人でした。実際、伝道活動の中で、それらを大いに活かしたと思います。それもまた、神からいただいた恵みですから。

 けれども、パウロにとって本当に無駄にしてはいけない恵みというのは、そういうものとは少し違ったのではないかと思います。パウロは、この手紙で、本当に困難な時期を過ごしてきたことを、幾度も綴りました。普通ならば、絶望してしまったり、逃げ出してしまいたくなるような状況の中に、パウロは、幾度も立たされながら、なお、そこに留まったというのです。それは、そういう困難な中でこそ、むしろ大いに働く神の恵みを、パウロは知っていたからです。

 あらゆる場面に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によってそうしています。(6:4〜7)

 ダビデもパウロも、逆説的な神の恵みの現実、その力強さを、知っているのです。わたしたちが弱いとき、何も持っていないと思われるときにこそ、本当に力強くわたしたちのただ中でお働きくださる神の恵みの御業。わたしたちが、自分でどうにかしようと思っている限りは、本当には知ることのできない、神の恵みの御業の本当の力強さ。わたしたちは、自分に自信があっても、なくても、「自分でどうにかしよう」と考えがちなのです。それで、神のくださる恵みの本当の力を、十分に知らないまま、無駄にしてしまっているのかもしれない。

 わたしは、期待したいと思います。わたしたちが、本当に神の恵みの力をよく理解して、無駄にしてしまうようなことをしなければ、わたしたちの中で、教会でも、日々の生活の中でも、必ず驚くべき神の御業が起こるということを。

 神が、驚くべき御業を今も起こしてくださるために、わたしたちは、招き集められました。神の協力者と呼ばれて、教会という一つの群れに加えられました。今、わたしたちは、本当に、神の恵みの御業を期待したいと思います。期待して待つことを、学びたいと思います。静かに、恵みの一つも無駄になることなくお働きいただく器として、整えられ、聖められ、備えられたいのです。


祈り
主よ。このように小さく貧しい器を、力ある御業のためにお用いくださるのですか。あなたの恵みを無駄にすることのない器とならせてください。アーメン