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主日礼拝説教 日本基督教団藤沢教会 2010年7月25日 24モーセは出て行って、主の言葉を民に告げた。彼は民の長老の中から七十人を集め、幕屋の周りに立たせた。25主は雲のうちにあって降り、モーセに語られ、モーセに授けられている霊の一部を取って、七十人の長老にも授けられた。霊が彼らの上にとどまると、彼らは預言状態になったが、続くことはなかった。 会堂1階の保育室から園庭に出たテラスに、新しいウッドデッキができました。これまで置いてあった青色のプラスチック製スノコの代わりとなるものです。「スノコ」として造りましたが、「ウッドデッキ」と呼んでもよいように思います。先週の祝日に、朝から晩まで丸一日かけて、幼稚園保護者有志の皆さんと、幾人かの教会員有志の方が、協力作業して、造ってくださったものです。業者に頼めば、簡単なことだったかも知れません。素人であっても、慣れた幾人かだけで進めた方が、効率よく終えられたかも知れません。けれども、作業に慣れている人も、そうでない人も、皆さんが一緒になって、それぞれにできるところを担当して、造ってくださった。もっとも、わたしは、残念ながら、当日朝から先約があって、一緒に作業できなかったのです。夜、日が暮れてから教会に戻ると、ほとんど完成間際でした。すでに先に帰られていた方もありましたが、最後まで残って作業してくださった皆さんが、とてもよい顔をして、最後の作業をしてくださっていました。一つのものを完成させたという達成感。いや、それだけではなく、報酬とか利害といったことを抜きにして、ただ一緒になって一つのことに取り組んだ、そのことによって得られた「一体感」のようなものを共有している。それゆえの「よい顔」であったように思いました。 わたしたちの社会は、何でも、早いこと、効率がよいこと、完成度が高いこと、を求めがちです。しかも、個人主義的な考え方から、「一人でできることは、一人でしてしまう」ほうが簡単なように、わたしたちは考えがちです。 けれども、わたしたちの「キリスト教会」というところは、そのような社会の傾向とは、違うところを向いて歩むところです。早いことよりも、効率よく行うことよりも、完成度が高いことよりも、もっと大切なことがある。「一人でしてしまう」よりも、もっと大切なことがある。それは、一つになること。歩調を合わせて共に進むこと。どんな一人をも互いに受け入れ、尊重し合うこと。「教会」の下にあるすべての営みで、わたしたちは、このようなことをこそ、何よりも大切に考え、取り組むようにと、教えられてきました。 今日の新約使徒書の朗読で、使徒パウロは、こう書いています。 体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。 (Tコリ12:14) 多くの部分があっても、一つの体なのです。 (同12:20) 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの 部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。 (同12:26) 教会に集まっているということは、わたしたちは皆、「一つの体」に招かれているということ。「一つの体」のそれぞれの部分として、一つになって、歩調を合わせて、互いを受け入れ、尊重し合って、歩んでいくのが教会というところ。 もっとも、言うは易し、行うは難し。実際には、わたしたち、教会の営みの中で、そういうことが大切だと理屈では分かっていても、なかなかどうして良いのか分からないことが多いかもしれません。 弱く見える部分が必要! そうは言っても、わたしたちは、すでにそういうことを大切にする歩みを始めてもいるわけです。事実、今、わたしたちがここに一緒に集まって礼拝を守っているというのは、教会のもっとも教会らしい姿でしょう。多くの皆さんは、毎日の忙しい生活の中から時間を工面して、日曜日の教会の礼拝にお集まりになられました。もしも、皆さんが、手っ取り早く、効率的に、集中して礼拝をささげたいと思えば、もっと別の礼拝の仕方を考えることもできたかも知れません。たとえば、インターネットで流されている礼拝のビデオ放送を、書斎やリビングルームで、都合の良いときに見たら、どうでしょうか。あるいは、自分で決めた礼拝作法で、自分の好きなときに、好きな場所で礼拝する、というのは、どうでしょうか。そのような礼拝生活を良しとしている人たちも、世の中には、いるのです。 けれども、わたしたちは、ここに、定められた時間に集まって、一緒に礼拝を守っています。しかも、気の合う者同士だけで約束して、集まって来たのではない。もしかすると、生活のリズムやペースがまったく違う人、自分とはいろいろなことで意見が合わない人、それどころか、一緒に礼拝をしているとどうにも気に障る人、そういった人が、この中には、いるかもしれない。そういうところに、わたしたちは皆、一緒に集まってきて、礼拝を守っているのです。 考えてみると、これは、すごいことではないでしょうか。一つところに集まって、礼拝を一緒に守る。もちろん、牧師や伝道師、役員方や奉仕者の皆さんが、この礼拝のリーダーシップをとります。でも、わたしたちが礼拝のリーダーシップをとるのは、ここに一緒に集まられた大勢のいろいろな皆さんが、どうにかして歩調を合わせて、共に神の御前に進み出て、讃美と祈りを合わせて、御言葉に耳を傾けるために心を一つにしていただくためなのです。この中には、何十年と日曜日の礼拝を欠かさずに守ってこられた方があるでしょう。この教会とは異なる礼拝習慣の教会で長年過ごしてきたという方もあるでしょう。最近、礼拝に加わるようになられた方もあるでしょう。もしかすると、今日が初めて、二回目、三回目、という方もあるかも知れません。早足で礼拝を進めても何ら問題ない方もあれば、礼拝の進行に慣れていない方もある。そのような、いろいろな方の歩調を、一つに合わせて、一緒に礼拝に参与していただけるようにするには、どうしたらよいのか。牧師や司式の奉仕をしてくださる役員方が、いつも頭を悩ませていることです。ただマニュアル化して済ませられるわけではない。けれども、ある程度、共通の理解をもって取り組まなければいけないことでもある。 大切な人や気持ちの通じ合える人のことであれば、いろいろと配慮しなければならないことがあっても、わたしたちは、さほど苦痛には感じません。むしろ、お世話させていただくことを喜びとするでしょう。けれども、相手がさほど親しくない人や、どうにも気持ちが通じ合えない人であったら、どうでしょうか。 弱く見える部分、恰好が悪いと思われる部分、見苦しい部分、見劣りのする部分。そういう部分が、「一つの体」の中にあって、わたしたちは、どうにも気になるのです。それでも、教会ですから、善意をもって、できるだけの配慮をして、お世話をしたり、手助けをしたりということを、考えます。それを、余計な手間だというようにおっしゃる方は、ここにはいらっしゃらないでしょう。でも、そういうことを一所懸命に取り組んでくださったことのある方ならお分かりいただけると思いますが、そういう配慮や、お世話や、手助けは、必ずしも相手に喜んで受け取ってもらえるとは限りません。心砕いたつもりのことを、いとも簡単に拒まれることがある。差し伸べた手を、払いのけられることがある。そういう相手の態度に、カチンとくることもあれば、逆に、自分の至らなさに、心へこんでしまうこともある。かえって、自分の心の弱さに、恰好の悪さに、見苦しさに、劣ったところに、目を向けないわけにはいかなくなってしまう。一体、どちらが弱いのか、恰好悪いのか、見苦しいのか、見劣りがするのか、分からなくなってしまう。そういう経験を、皆さんは、なさったことがないでしょうか。 わたしたちは、この世の生活の中では、どちらかというと、そういう自分の弱さとか、恰好悪い部分、見苦しい部分、見劣りのする部分を、一所懸命に隠して、自分でも見ないようにしているところがあると思います。ところが、教会に来ると、わたしたちは、そういう弱くて、恰好悪く、見苦しくて、見劣りがする自分にも、どうしても向き合うようにされていく。ほかの人の弱さや、恰好悪さ、見苦しさ、見劣りするところを見ていたつもりが、いつのまにか、自分の弱さ、恰好悪さ、見苦しさ、見劣りする姿を、隠しておけなくなるのです。 けれども、それは、わたしたちにとっては、どうしても必要なことなのかも知れません。強くて、恰好が良くて、見栄えがし、引き立つ姿の自分と、弱くて、恰好悪くて、見苦しくて、見劣りする姿の自分と、その両面のある自分が、二つに分裂した状態ではなくて、両方の面を持った「一つの自分」として統合される。「一つの自分」に統合された人間として生きるようになる。それは、主イエスが、わたしたちのために示してくださった人間のあるべき姿、本当に真の人間として生きる姿、なのではないでしょうか。 「一つ」になるために、あなたが必要 神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。(12:24〜25) 教会は、キリストの「一つの体」です。わたしたちは、その「一つの体」に招かれて、共に集っています。神は、この教会の営みによって、すべての者を「一つ」になさろうという、壮大なご計画を、この世にお示しくださっているのです。 だから、わたしたちは皆、ここで、自分自身が「一つの自分」にされるのです。「一つの自分」にされたわたしたちは、キリストの教会を「一つの体」として造り上げるために必要とされています。そして、わたしたちが用いられて造り上げられる教会は、世界が「一つ」とされるために必要とされているのです。 祈り 主よ。十字架で死なれた御子を必要となさったように、私ども弱く小さな者をも必要としてくださるのですか。どうぞ、この私をお用いください。アーメン |