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主日礼拝説教
  「平和のための訓練」

日本基督教団藤沢教会 2010年8月1日

 10:12イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、13わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。14見よ、天とその天の天も、地と地にあるすべてのものも、あなたの神、主のものである。15主はあなたの先祖に心引かれて彼らを愛し、子孫であるあなたたちをすべての民の中から選んで、今日のようにしてくださった。16心の包皮を切り捨てよ。二度とかたくなになってはならない。17あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、18孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。19あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。20あなたの神、主を畏れ、主に仕え、主につき従ってその御名によって誓いなさい。21この方こそ、あなたの賛美、あなたの神であり、あなたの目撃したこれらの大いなる恐るべきことをあなたのために行われた方である。22あなたの先祖は七十人でエジプトに下ったが、今や、あなたの神、主はあなたを天の星のように数多くされた。
11:1あなたは、あなたの神、主を愛し、その命令、掟、法および戒めを常に守りなさい。    (申命記 10章12節〜11章1節)



1こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、2信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。3あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。
4あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。5また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。
「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。
主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。
6なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」
7あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。8もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。9更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。10肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。11およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。
12だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。13また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。
           (ヘブライ人への手紙 12章1〜13節)



《平和聖日》

 8月を迎えて、今年も、平和への思いを新たにする季節となりました。日本基督教団の定める《平和聖日》の今日だけでなく、わたしたちの教会では、この月を通して《平和月間》として共に歩みたいと願っています。もちろん、5週間にわたっていろいろな行事を行う、というわけではありません。静かに、できるだけ礼拝に集中して、一人ひとりの平和の祈りを深めていきたいのです。そうしていただけるようにとの願いから、礼拝順序も、少し工夫しております。

 今年も、礼拝の初めのほうで「平和の祈り」をご一緒に祈ることといたしました。「アッシジのフランシスコ」の名前が付けられた祈りです。カトリック教会の中で生み出された祈りですが、今や、超教派で共に用いられる祈りの代表のようなものです。

 礼拝の後半では、「平和の挨拶」もいたします。慣れない方もあるかもしれませんが、これもまた、今日、教派を越えて非常に大切なものとして考えられるようになっている礼拝の一部ですから、ぜひ、積極的に親しんでいただきたい。初代教会時代は「平和の接吻」と呼ばれたのですが、教会の外の社会であれば決して互いに挨拶をすることのない身分や民族の違う者同士が、ただキリストによって一つに結び合わされていることを確かめた、大切な礼拝行為でした。

 礼拝の最後では、今年も、派遣の讃美92「主よ、わたしたちの主よ」を歌います。主キリストが、わたしたち礼拝に集った者を、新しい喜びと感謝で満たしてくださって、平和の道へと送り出してくださる、と歌う讃美です。

 ぜひ、礼拝全体を通して、平和への祈りを深めていただきたい。失われていた平和を回復していただきたい。新しい思いで、平和を造り上げていく道へと、もう一度歩み出していっていただきたい。

 もっとも、考えてみれば、こういうことは、何も《平和聖日》だからとか、《平和月間》だからということと関係なく、いつの礼拝でも、わたしたちが導かれていることです。

 主イエスは、ご復活なさったとき、弟子たちの集まりの中で、「あなたがたに平和があるように」(ヨハ20:19など)とおっしゃってくださった。弟子たちは、ただお喋りのために集まっていたわけではないでしょう。弟子たちは、どういうわけか集められてきて、一つになっていたら、そこで、ご復活の主イエスとお会いすることになったのです。それは、わたしたちの礼拝と同じです。わたしたちも、一人ひとりは、自分の意志でここに来たつもりでいるかも知れないけれども、本当は、神の御手に導かれて、聖霊に後押しされて、ここに集められてきた。集められてきて、ここで、主イエス・キリストとお会いしている。「主イエスは、どこにいるの?」などとおっしゃらないでくださいね。ここにいらっしゃる。おいでくださっているしるしとして、キリストを証しする御言葉が朗読されましたし、今日は特に、キリストの御体と御血をいただく聖餐の食卓も用意されている。キリストがおいでくださっているから、わたしたちは、礼拝にあずかっているのです。そして、主イエスは、ここでも、弟子たちにお語りくださったように、お語りくださっている、「あなたがたに、平和があるように」と。

 わたしたちが日曜日ごとに招かれてあずかる礼拝は、ですから、主イエスが、わたしたちに「平和があるように」と宣言してくださるときです。「平和があるように」と宣言していただいて、わたしたち礼拝にあずかっている者が、平和を回復して、平和に生きる者として新しくされて、そして、聖霊の後押しをいただいて平和の使者として出かけていく。そういう意味では、わたしたちは、礼拝を通して「平和のための訓練」を受けているということでしょう。主イエスが「平和があるように」とおっしゃられたのは、どうしたって、わたしたちが「《平和温泉》にのんびり浸かっていたらよい」、という意味ではないでしょう。「平和を実現する人々は幸いである」(マタ5:9)とおっしゃられた主イエスは、わたしたちが「平和のための使者」として立っていくことができるための訓練を与えてくださっている。「礼拝が訓練だなんて…」と思われるかも知れないけれども、それが、主イエスのわたしたちに望んでくださっていることではないでしょうか。


主の鍛錬

 今日の新約聖書、ヘブライ人への手紙12章の御言葉には、「鍛錬」という言葉が何度も出てきました。以前の口語訳聖書では「訓練」と訳されていた言葉です。でも、もしかすると、「しつけ」と訳しても良いかもしれません。

 「主の鍛錬」、「主の訓練」、「主のしつけ」。

 皆さんだったら、どれを受けたいですか。どれも、もとは同じことですから、「どれを」と言ってもあまり意味はないのですけれども、わたしたちは、必ずそれを受けなければいけません。子どもが親から受けるように、わたしたちは、生涯をかけて、神から鍛錬を、訓練を、しつけを、受けなければいけません。本当の意味で人間として成長するためです。神がお造りくださった本来の人間のあるべき姿にまで、成熟させていただくためです。

 世の中には、成長を望まない人もいます。成熟することを願わない人もいます。ある時期までは、それでも良いかもしれません。けれども、わたしたち人間は、本来、成長し、成熟するように神にお造りいただいているのです。子どもの成長、成熟を願わない親はいません。わたしたち人間が、自分の成長も成熟も求めないのでは、親を悲しませるばかりか、神を悲しませることになってしまう。

 とは言っても、わたしたちが神から鍛錬を受け、訓練を受ける必要があるのは、本当は、そもそもわたしたちの現実の中に、神を悲しませることがあるからなのかもしれません。

 聖書の御言葉を学ぶことをしていながら、わたしたちは、神に逆らうような行動から、なかなか自由になれない。主イエスの教えを聴かせていただいていながら、反抗したり、無視したりする振る舞いを、いつまでも続けている。だから、わたしたちは、十字架の死を耐え忍ばれた主イエスのお姿を見つめ直さないといけない。わたしたち人間の逆らい、反抗や無視が、一人の人を死に追いやった。いや、神の御子を、死に追いやった。自分の振るまいが、親兄弟を死に追いやったとしたら、わたしたちは、平気な顔をしていられるでしょうか。わたしたちは皆、大切な一人の人、主イエスを死に追いやるような人間の一人なのです。

 主イエスが、そういうわたしたちの過ちを責められたら、わたしたちは、心を頑なにしてしまったかも知れません。けれども、主イエスは、わたしたちの過ちを責められません。淡々と、わたしたちの過ちを、忍耐して受けとめてくださる。だからこそ、わたしたちは、もう、平気な顔をしてはいられないのではないでしょうか。淡々と忍耐してくださっている方がいることに気づいたら、わたしたちは、今までのままでいるわけにはいかないのではないでしょうか。

 わたしたちの中の、大切な一人の人を死に追いやってしまうような本性、罪の姿を、造りかえていただきましょう。神の鍛錬を受けて、訓練を受けて、しつけられて、そのような本性を少しずつでも変えていただきましょう。

平和に満ちた実を結ぼう!

 こういうことは、やはり、わたしたちは、教会に集められて、共に礼拝にあずかるときにこそ、本当に導かれることだと思います。

 教会の外の生活でも、教会の営みでも、わたしたちは、主イエスの教えに反することをして、誰かとの間に、争いや、分裂や、暴力的な断絶を、引き起こしてしまいます。教会の外でも内でも、そのようなことが起これば、わたしたちにとっては深刻なことです。ただ、わたしたちは、教会の外では、そういう現実が当たり前すぎるので、そういう争いや分裂や暴力的な断絶が起こっても、深刻に受けとめようとしないところがある。

 ところが、教会の中では、そうはいかないでしょう。なぜなら、教会の中で出会うお互いは、キリストの体の一部なのです。キリストそのものと言ってもよい。そうだとすれば、わたしたちが教会の中で争ったり、分裂したり、しまいには暴力的に断絶したりすることがあるとすれば、それは、主イエスに対して、そうしているのです。わたしたち一人ひとりの過ちを、もうすでに十字架の死によって、忍耐して受けとめてくださった主イエスその方に対して、またもや十字架に追いやるようなことがあって、よいでしょうか。

 本当は、わたしたちは、もう、自分の罪と戦って血を流すまで抵抗すべきなのかもしれません。自分の罪を、自分の血を流すことで償うほどのことをしなければ、わたしたちは、本当には、自分の罪の深刻さを分からないのかもしれません。

 けれども、神は、そこまで、わたしたちにお求めではないのです。キリストの教会にお集めくださって、ここで訓練を受けよと、おっしゃってくださっている。平和の祈りを新たにし、もう一度互いに心からの平和の挨拶を交わし合うようになって、今度は、もっと豊かな平和を互いに造り上げていく歩みを始める。そのような訓練のときを、教会の営みの中にお与えくださっているのです。


祈り
主よ。御子の十字架の忍耐をお示しいただきました。もう分裂はたくさんです。争いも暴力もたくさんです。ただ主の平和のうちを歩ませてください。アーメン