説教・祈祷の音声は左のスタートボタンを押してください。
音量も調整できます。           

  ↑スタートボタン

印刷用PDF

〔平和月間〕主日礼拝説教
  「平和のために〜家族と向き合おう」

日本基督教団藤沢教会 2010年8月8日

1 喜び歌え、不妊の女、子を産まなかった女よ。
 歓声をあげ、喜び歌え、産みの苦しみをしたことのない女よ。
 夫に捨てられた女の子供らは、夫ある女の子供らよりも数多く
 なると、主は言われる。
2 あなたの天幕に場所を広く取り、あなたの住まいの幕を広げ、
 惜しまず綱を伸ばし、杭を堅く打て。
3 あなたは右に左に増え広がり、あなたの子孫は諸国の民の土地
 を継ぎ
 荒れ果てた町々には再び人が住む。
4 恐れるな、もはや恥を受けることはないから。
 うろたえるな、もはや辱められることはないから。
 若いときの恥を忘れよ。やもめのときの屈辱を再び思い出すな。
5 あなたの造り主があなたの夫となられる。その御名は万軍の主。
 あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神、全地の神と呼ばれる
 方。
6 捨てられて、苦悩する妻を呼ぶように、主はあなたを呼ばれる。
 若いときの妻を見放せようかと、あなたの神は言われる。
7 わずかの間、わたしはあなたを捨てたが、
 深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。
8 ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが、
 とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと、あなたを贖う主
 は言われる。         (イザヤ書 54章1節〜8節)



 5:21キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。22妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。23キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。24また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。25夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。26キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、27しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。28そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。29わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。30わたしたちは、キリストの体の一部なのです。31「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」32この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。33いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。
 6:1子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。2「父と母を敬いなさい。」これは約束を伴う最初の掟です。3「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です。4父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。
       (エフェソの信徒への手紙 5章21節〜6章4節)



《家庭の平和》

 今日は、礼拝においでになられて、いつになく会堂が静かに感じられた方があったかも知れません。昨日から明日にかけて、教会学校の小中学生が夏期学校で御殿場・東山荘に出かけているのです。もちろん、幼稚科の親子や夏期学校に参加しなかった小中学生は、いつもどおりに9時からのCS合同礼拝に集まりましたが、賑やかにも大騒ぎしているいつもの子どもたちは、今日は、この会堂にはいない。何か寂しい感じもしますが、皆さんは、もしかするとどこかで、「今日は平穏だなあ」と思われているところが、ないでしょうか。わたしは、正直に申し上げれば、牧師ですから、日曜日はいつも我が子らのことでハラハラしているところがある。礼拝中に三階で大声を上げて兄弟喧嘩をする我が子らがいないと思うだけで、実は、穏やかな気持ちで礼拝に臨めるようなところがある。

 昨日の朝、夏期学校に子どもたちを送り出したご父母方の中にも、「平和な二晩を過ごします」とか、「鬼の居ぬ間の洗濯をしてきます」と言って帰って行かれた方がありました。我が家も例外ではありません。今年は、初めて三人の子らが揃って、夏期学校に参加しました。土日曜日は「夫婦水入らずで」などという余裕がありませんが、それでも、大人だけの家庭がこんなに静かなものだったかと、あらためて思わされています。絶え間なく起こる子どもたちの喧嘩もない。何かと子どもたちを急き立てる父母の声もない。淡々と過ぎていく時間が、そこには広がっているのです。

 そういう時間は、貴重なのです。わたしどもも含めて、子育て真最中の親たちにとって、そのような静穏な時間は、ときには必要です。子どもたちを育てる責任があるのは当然ですが、親たちもまた、ときに、一人になり、心鎮めて、祈ることが必要です。祈りのために、一人になること、静まることが、どうしても必要です。世の中で繰り返される我が子に対する虐待事件の報道を聞かされるたびに、本当に、そう思います。子育てや日々の生活に忙殺されている親たちにこそ、わたしたち教会は、一人になる時間、心鎮める場所、神に心開いて祈るときを、提供する責任がある。もちろん、親たちに対してだけではないでしょう。働き盛りの人や、若い青年たちも、同様かも知れません。わたしたちは、一人になり、心鎮め、神に心開いて祈る。そのようなときを持たなくては、心がどこかでパンクしてしまうのです。わたしたちの人格が、どこかで、バラバラになってしまうのです。そのような危機にさらされている人たち、逼迫した状況にある人たちが、わたしたちの周囲に大勢いる。中でも、幼稚園を営んでいるわたしたち教会の目の前にいる若い親たちのために、教会が本当に真剣に、祈りをもって取り組むべきことが、もっとある。わたしは、いつも、そう思っているのです。

 誰にとっても必要な「静穏なとき」。それは、神と向き合うチャンスです。神に向かって心開いて、本当に心の深いところで神と出会うチャンスです。わたしたちのあずかっている礼拝は、何よりも、そのようなときです。神と触れる道を拓いてくださったキリストに導かれて、神と共にあること、わたしたちの平和の土台、真の平和の基礎を、ここで学ばせていただきたいのです。


《平和》のために《仕え合う》者となる

 もちろん、そのように申し上げても、わたしたちの《平和》は、一人になって、心鎮めて過ごすところだけにあるものでは、ないでしょう。「だれかがいないことによって実現する平和」ではない。もちろん、「騒がしい子どもたちがいないことによって実現する平和」でもない。大騒ぎする子どもたちがいても、苦手な人がいても、意見の合わない人がいても、それでも実現する平和。「皆が共にいて実現する平和」。主イエスがお教えくださったのは、そのような平和でしょう。

 今日の新約聖書・エフェソの信徒への手紙でパウロは、キリストが実現してくださる真の《平和》を力強く宣言しています。たとえば、こうです。

 「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」(2:14〜16)。

 そのパウロが、この手紙の最後の部分で何を勧めたか。今日朗読を聞いた、「家庭訓」と呼ばれる教えです。新共同訳聖書では、「妻と夫」、「親と子」という見出しがつけられている。これに続く部分は「奴隷と主人」という見出しがつけられていて、そこまでが一息で語られています。キリストによって平和を実現していただいて、新しい一人の人に造り上げていただいた者は、では現実の生活の中で、どのように生きるのか。どのように《平和の人》として生きるのか。パウロは、その実践の場として《家庭》を選んで、教えました。

 皆さんがよく知っているのは、最初の「妻と夫」についての教えでしょう。結婚式で読まれてきた御言葉です。ただ、最近はあまり用いられなくなっています。この御言葉の教えに、素直に聞けない、という人が多くなってきたからです。

 妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。(22節)

 女性の皆さんは、この教えを、どのように受けとめられるでしょうか。中には、「こういう教えを守るように言われるのは屈辱だ」と思われる方もあるかもしれませんが、一方で、特別違和感もなく、「はい、そのとおりです」という方もいらっしゃると思います。パウロが手紙を書いた時代の女性たちも、恐らく、この教えに何の違和感もなかったのだと思います。少なくとも、キリスト信者になる前、この世の社会習慣の中で暮らしていたときは、当たり前に「妻は夫に仕えるもの」と考えていたでしょう。夫ばかりか、夫の家族、そして新しく生まれた子どもたちにも、妻は仕えるように生きて、当たり前。パウロの時代の女性たちは、皆、そう思って生きていました。ですから、パウロは、恐らく、ここで、女性たちに対して深い尊敬の念をもって、「自分の夫に仕えなさい」と勧めたのだと思います。女性たちは、すでに「人に仕える生き方」を実践している。主イエスがお教えになった「人に仕える生き方」を、既に実践している女性たちに、深い敬意を払って、パウロは、「あなたがたの実践してきた人に仕える生き方は、キリストに仕えていることなのですよ」と言わんとしている。

 現代の社会でも、事情はそれほど変わっていない。男性よりも女性のほうが、この社会の中で、家庭の中で、「人に仕える」ように強いられている。ときには、ひどい暴力や虐待を受けながら、「人に仕える」ことを強いられている。もちろん、ひどい仕打ちを受けている女性や、虐げの中に置かれている女性を、どうにかして助け出さなければいけません。それはそうとして、しかし、そういう現実の中で、どう見ても、男性よりも女性のほうが、主イエスのお教えになった「人に仕えて生きる」ことに、ずっと近いところにいる。「人に仕える生き方」を、すでに実践している。一般的に言えば、そういうことが言えるのだと思うのです。

 もちろん、男性は男性で「人に仕えて」生きてこられたでしょう。会社に勤め、人に使われ、また取引をされる中で、「人に仕えて」生きてこられた方は、少なくないと思います。けれども、平均して見れば、女性ほどには、「人に仕える」ことを強いられてはこなかったのではないでしょうか。

 キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。(21節)

 主イエスのお教えくださった「仕える生き方」を実践していく上で、男性として女性から見習うべきことがたくさんあるのだと思います。パウロも、そう考えたのでしょう。だから、「互いに仕え合う」ことを教えるために、まず女性への勧めを記した。女性が人に仕える姿を見て、「いや、誰あろうキリストが、このわたしにも仕えてくださっている」ということを畏れをもって思い起こす。ならば、わたしたちは、本当に畏れをもって、互いに仕え合うことを、学ばないでいられるでしょうか。主に倣って互いに愛し合い、仕え合う、という実践をせずにいる言い訳を口にするのは、恥ずかしいことではないでしょうか。

あらためて《神の家族》の中で…

 子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい(6:1)。…父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい(6:4)。

 パウロが教えるように、家庭の中でこそ、主に倣って、主に従い、互いを愛し、仕え合い、尊重し合うことを、学び取っていきたいと思います。失敗することもあるでしょう。うまくできずに自己嫌悪に陥ることもあるでしょう。それでも、そのようなわたしたちが日々新たにされるように、主イエスは、必ずわたしたちを導いてくださり、成長させてくださるはずです。《家庭》もまた、《神の家族》の一部、《教会》の一部だからです。夫婦の関係は、キリストと教会の関係です。《家庭》をお造りくださるのは、《教会》をお造りくださるキリストです。《家庭》を祝福してくださるのは、《教会》を祝福してくださる神です。《家庭》でも、《教会》でも、わたしたちは、《神の家族》として一人ひとりが、キリストに似た者とされるまで、訓練を受け、成長させていただくのです。キリストに似た者へと造り上げられながら、キリストの平和を実現する器として用いていただくのです。


祈り
主よ。家庭の家族と教会の家族をお与えいただきました。主に倣って、互いに愛し仕え合う者とならせてください。平和の使者としてお用いください。アーメン