藤沢教会|[平和月間] 聖霊降臨節主日礼拝 立証

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 2010年8月15日 聖霊降臨節主日 (平和月間)
平和のための立証
「歴史の傍観者として」 中村 美代子 姉
 
 ← 立証の音声はこちらでお聴き下さい 16:22
 
『和解のために奉仕する任務を
    わたしたちにお授けになりました。』
       コリントの信徒への手紙二 5章18節


立証者紹介(村上牧師)

1)はじめに
シャローム!主の平和! おはようございます。
 今日はおりしも終戦記念日。その日に平和の立証として、私に証の機会が与えられたことを神様に感謝します。
 戦争を知らなくとも、日ごろ平和運動に参加したり、紛争の地に赴いて活動するわけでもない私がなぜ? 私より適任の方がたくさんおられるはず…「神様なぜわたしなのでしょう?」と祈りの内に問うた時、姉妹の口を通して依頼のあった「世界を少しは歩いた目で」「紛争の舞台イスラエルを訪ねた目で」見たことが私の中で次第に形を取り始めました。 ただし一傍観者としてでしかない…しかしながら聞こえてきます。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイによる福音書9:13)この主イエスの言葉に救いを得、懺悔をもって歴史の傍観者として証しします。
2)イスラエルを訪ねて(傍観者の懺悔)
 この写真は昨年12月イスラエルのテル・アヴィヴに新たにできる支社から招かれ出張した主人に同行した時撮りました。たった2泊の滞在なので支社でヘリコプターをチャーターして下さり、訪れたイエスの足跡、エルサレム上空を過ぎ、ヨルダン川を右手に見て北に上がり、輝くガリラヤ湖のほとりでヘリコプターを降り、ゆかりの土地や教会を訪ね、深々と祈りを捧げたり、ガリラヤ湖に足を浸したりしている敬虔なナイジェリアからの巡礼団に感服し・・・その後、今度はノンクリスチャンの主人の希望に従い、ゴラン高原のワイナリーを訪ね、試飲を兼ねた昼食をとった時の写真です。
 ゴラン高原…シリアとの戦いで血が流れ、イスラエルが領土として奪還した土地で、昼間からワインで土地のチーズやワイナリーのおかみさんの手料理に舌鼓を打っていたななんて! 神様、のんきな我々の罪をイエス・キリストの十字架のもとに御赦し下さい。
3)戦後に生まれて
 私は1951年、第二次世界大戦の連合国と日本との平和条約、サンフランシスコ講和条約が締結された年に生まれました。当時は、傷痍軍人の方、日本兵の帽子を被り、下は白い着物で手や足を失った方が街頭で募金を募っている時代、まだ戦後の物不足は続いていて、バナナやチョコレートはぜいたくでめったに口に入らなかった時代・・・軍人だった父を持つ母から、日本が負けてアメリカが駐屯して初めて、婦女子は暴行されるかもしれないと…疎開した話を寝物語に育ち「アメリカ人はおっかない」と思いながらも、白黒のテレビが我が家に来れば、見るのは決まってアメリカのホームドラマ、パパは何でも知っているや名犬ラッシー・・・悪者はヒットラー率いるドイツ軍で、決して日本軍と戦う巻は放映されないコンバット、アメリカ製のテレビ番組ばかり見ていた小学校時代。中学に入って聴いた音楽もいわゆる洋楽、ビートルズ全盛時代にいち早くアメリカのビルボードチャートの順位を放送するのはFEN…極東米軍放送…に雑音のするトランジスタラジオを夢中で合わせた高校時代、・・・歌うのは当時泥沼化していたベトナム戦争の反戦歌、PPMにジョーン・バエズ・・・母の娘時代に敵国であった米国は私の中では憧れの国でした。PPMの歌うJesus met the woman at the well.(イエスが井戸端で女に会った)が聖書のサマリヤの女の箇所であること、ジョーン・バエズの歌うWe shall overcome!が讃美歌になっていることは、キリスト教系の大学に入り、聖書や讃美歌に触れてからでした。友達の中には「ベトナムに平和を!市民連合」通称「ベ平連」に入って活動している人もいたのにここでも傍観者の私でした。神様、傍観者の私を御赦し下さい。
第一次オイルショックのころに大学を卒業し商社に就職、まさに中東の油田に使われる鉄のパイプを売る部署に配属されましたが、戦場の舞台としても登場する中東は書類の向こうの遠い国でした。
4)アメリカに住んで(戦争を振り返る)
 やがて結婚、数年後の1980年主人が会社から留学することとなり、初めて私は「憧れの国」アメリカで一年過ごしました。主人も私も傍観者でしかないのですが、いきなり町で見知らぬアメリカ市民に、日本人とわかると「あんたは日本人か?中国で大量に人を殺したな!」と言われました。「そんなこと言われたって」…「日本で平和ボケしていた私たち」を振り返る良い機会が与えられていたのに、こちらから、知り合いでもない人に「すみません」と謝ることはなくやはり傍観者でした。後年訪れた文化大革命後開放政策がまだ始まったばかりの中国で、英語と中国語の通訳をする中国人女性の言ったanti-Japanese war、「抗日戦線」という言葉に戸惑いつつ、「私はまだ生まれていなかったから、あなたたちとは友達だ」とのんきに言ってしまった私は、後で「母の時代の日本人だけでなく、戦争を知らない時代の我々も日本人として謝罪」しなかった私の罪を懺悔しました。
 アメリカでは、反対に「I’m sorry. あなたのお国に原爆を落としてしまった。」あるいは「I’m sorry. ドイツ軍はユダヤ人を収容所に閉じ込めたけれど、我々も貴方がたの友人をManzanar concentration campに閉じ込めてしまった」と市民から謝罪も受けました。そのマンザナ強制収容所に送られた遠い親せき、母方の曽祖父母がロスに移住、ひと旗あげて帰国した後も残ってロスに住んでいた親せきを、私のところに来た母と訪ねました。「マンザナ暮らしは大変だったけれど、子供たちは二世部隊に入り、立派に米兵として戦った」ことを、「鬼畜米英」で育った母も、そうでない私も複雑な面持ちで聞きました。 
 17年後の1997年再び主人がロス駐在となり、藤沢教会の戸田年子姉から紹介され訪ねた故藤田牧師の御宅でその倉田夫妻の写真を再び見ました。夫妻は偶然藤田牧師の牧会される合同メソジスト教会、UMCセンテナリーチャーチ日本語部の会員で、音信普通になっていた夫妻が数年前天に召された話も伺いました。その藤田牧師も召天され先ごろ追悼集が刊行され、藤田牧師が戦争中日本軍から拷問を受けられたことをついこの間知りました。「義のために迫害される人々は幸いである」(マタイ5:10)という聖句通りのつらいご経験があったとは、いつも笑顔を絶やさない明るい表情からは全く想像できません。
 2回目の米国滞在では、藤田牧師から紹介された日本語教会「UMCのぞみミッション」に顔を出していましたが、そこのドウナン牧師が一時不在の折に代務者であった若いアメリカ人牧師が言いました。「僕は先の湾岸戦争では、イラクが悪で米国が善だと基督教徒として信じていたが、今は多くのイラク市民や子供がdirty bomb、放射性廃棄物による爆弾で死傷したことを知り神の御前に懺悔している」と。
5)ヨーロッパでは(和解の歴史を観る)
 湾岸戦争時ヨーロッパ在住だった私は思い出しました。大学のフランス語のクラスで、私もやっとディスカッションができる程度になった1990年、定期購読していたアメリカの雑誌TIMEを持っていったら、教室にいるアメリカ人以外のおよそすべての、ヨーロッパ諸国やアラブ諸国から来ていた受講生から大ブーイングを受けたことを。ベルギーやフランスのテレビ局より長い放映時間を湾岸戦争報道に割いていたアメリカ系のCNNを見てTIMEを購読していた私は、アメリカナイズされた人…それに対して欧州では、アメリカに同調する風潮ではなかったのです。
片側からだけで見てはいけないのが戦争だ…と知らされました。これも懺悔します。
 1989年から93年まで、こんな具合にベルギーのブリュッセルに駐在員家族として住んでいた時代には、湾岸戦争はもちろん、東西ドイツの統一あり、ベルリンの壁崩壊に始まり、東欧諸国の自由化から、ソ連崩壊迄…歴史の教科書に残り、地図帳が書き変わるのを目の当たりにし、まさに「歴史の傍観者」となっていました。piece movementに深くかかわるスイス人の親友がソ連崩壊に立ち会うためサンクトペテルスブルグにでかけていったのを、すごい!と思いながらもやはり、私は傍観していただけでした。
 その時代の流れの中で、1989年秋に発足した「ブリュッセル日本語プロテスタント集会」、現在岡田牧師が牧会される日本語教会の前身は、ドイツのボンに教団から派遣されていた故佐々木悟史牧師を招いていましたが、ベルリンの壁崩壊から東西ドイツ統一に至るまで、ドイツのプロテスタント牧師達が和解のため、地下で働かれていたことを佐々木先生より統一前から伺っていたこと、もう一つ通っていたフランス語の教会Eglise de Champs de Mars、故東田兄の娘さんの一人が今は通われているその教会では、1990年秋に祈りの展覧会を行い、基督教の祈りの他に、イスラム教の祈りも紹介され、キリスト教とイスラム教の和解を目指していたこと、は記憶に残るところです。
 帰国後だいぶたってから、藤沢教会のCSでその教会の日曜学校(藤沢教会CSの小学科にあたります)と数年間交流を続けましたが、その間9.11テロ事件が起こり、その後第二次湾岸戦争に突入…傍観者の私もその時には、ベルギーの子供たちと日本の子供たちとで非力ながら平和が考えられたら…と子供たちの手を型どり、色を塗って送れば、反対にあちらからも、今度は子供たちの手形を切りぬいた色がみが、フランス語の「戦争反対!」というかわいい文字と共に送られてきて、皆で世界平和を考えるきっかけになったようでした。そして、別の教会に行っている姉妹と共に初めて反戦デモに参加しました。超教派のデモで、私達基督教団からの一団の後には、鐘をならず仏教徒の一団が続き、みなで「戦争反対!」というと「チンチン」と鐘が鳴りました。和解のために少し動いた時でした。
6)イスラエルを訪ねて(和解へ一歩踏み出せたら)
 こうして、戦争に対しては、自分が関わらなくても謝罪が必要であること、片側からだけ見るのではなく偏らない見方をしなくてはならないこと、正義のために和解が必要であるということを学んだ私は、昨年イスラエルを訪れました。そして、受洗以来夢見ていた「イエスの足跡」を訪ねたものの、生誕の地であるベツレヘムも、徴税人ザアカイの家のあるエリコもすべて境界線の金網の向こうのパレスチナ自治区内、ユダヤ人社員と私達日本人の乗るヘリは上空を飛べず、あのテレビのニュースによく出る「ヨルダン川西岸地区」となっていました。それも、ユダヤ人入植地には緑あふれる人工の森、すぐ隣の分離壁で隔てられたパレスチナ人自治区では石が転がり貧しい家の建つのが上空からハッキリ見てとれ複雑な思いでした。
 帰国後、ケーブルテレビで「人間の戦場」というテレビ番組を見ました。あますところなく、ユダヤ人側からとパレスチナ人側からと両方からみたイスラエルの今を映していました。旧約の時代から流浪していたユダヤ人の正義が、イスラエルという国を造ったために、原住だったパレスチナ人を追い込み、パレスチナ人はそれに対して反発する戦い…は今も、この瞬間も続いています。 「では、おまえは何をしているのか?」やはり、傍観者でしかありません。それでも、私は主イエスから呼びかけられている気がします。ユダヤ教徒のユダヤ人の側に立つのでもなく、イスラム教徒のパレスチナ人の側に立つのでもない位置が、私達基督教徒には与えられているのだ…と。
 そしてもう一つは、明るい和解へ向けたニュースが、遠いイスラエルから電子メールに添付されて届きました。ヘブライ大学に勤めるユダヤ人のご主人を持つ日本人の通訳ガイド、「日本人クリスチャンのツアーの御世話もするので」と私の希望を聞いて下さり、聖書片手に説明をして下さった中島ヤスミン順子さんから送られてきた会報には、ユダヤ・アラブ平等教育推進ハガール協会の建てる「ベルシェバ・ハンド・イン・ハンド・ハガール小学校」、イスラム教徒の子供達と、ユダヤ教徒の子供達が仲良く同じ校舎で学ぶ小学校が紹介されていました。余談ながら、会報はこれまでに教会の先生方や兄弟姉妹に少しずつお配りし、メールで反響や感想を述べたら、ついこの間出た号の最後のページに紹介されていました。基督教徒としてどちらにも立たない位置よりさらに踏み込んで和解の活動に少しでも関われたら、少しでも彼らの活動を知らせ、応援できたらと願います。
 中島さんから聞きました。イスラエルでは、ヘブライ語でもアラビア語でも、会う時も別れる時も、「戦争をするから、絶えず平和を!と言っていなくてはならない」ので「平和を!」というそうです。そのヘブライ語のシャロームもアラビア語のサラームも、もとは同じルーツ、その共通語が「戦争をするから」ではなく、本当に手を取り合い共通のものを求めるようになる日が一日も早く来るよう祈ります。

 「和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」
                (コリントの信徒への手紙2、5章18節)
祈り
祈りを捧げます。
 神様、私は歴史の一部分を世界の各地で目にしてきました。悲しい第二次世界大戦の歴史を後から傍観し、戦後起こった民族紛争の地のそばに住み、また今も紛争の続く聖書の舞台へただの観光で訪ね、傍観して参りましたことを懺悔致します。
 私のように先の第二次大戦を知らない者も、生まれていなかった、関係ないと思うことに懺悔し、謝罪することが必要だとあなたは教えて下さいました。国内での批判はともかく、折から菅総理も談話を発表、日本による植民地化から100年経った韓国に公式に謝罪しました。 聖書の舞台イスラエルを含め、世界の各地で起こっている民族や宗教紛争が、お互いに赦し合い、それぞれの立場を認めたような考え方を許す方向に向かいますように。
 そして私達クリスチャンもクリスチャンの中だけに留まらず、和解のために奉仕する者として私達を用いて下さい。
 主イエス・キリストの御名を通して御前に捧げます。アーメン。

礼拝の証しではご紹介頂けなかった、イスラエルを訪問された時の写真を投稿して頂きました。
大変興味深い写真ですので、この場にアップロードさせて頂きます。
また、証しの中では、新たな和解への取り組み「イスラム教徒の子供達と、ユダヤ教徒の子供達が仲良く学ぶ“ベルシェバ・ハンド・イン・ハンド・ハガール小学校”」のことに触れられていましたが、その運動を紹介した、ユダヤ・アラブ青少年共学共存推進日イ支援会が発行している会報『ケレン・ハオール(KEREN HAOR)』の第5号、第6号、第7号も、ご参考までにアップロードしておきます。

HP管理委員会
2009年12月イスラエル訪問時の写真

写真01
後列 パイロット、AVIさん、通訳・中島さん
前列 部長さん、主人、美代子

写真02
エルサレム 小さく金の岩のドーム(モスク)

写真03
死 海

写真04
砂 漠

写真05
砂 漠

写真06
輝くガリラヤ湖

写真07
イエスの教えたシナゴーグのあとと今のシナゴーグ

写真08
パンと魚の教会

写真09
マタイ14:13-21 イエスは5千人にパンと魚を

写真10
ペテロの召命教会

写真11
ペテロの召命教会の中

写真12
ペテロの召命教会の前

写真13
ガリラヤ湖からゴラン高原へ

写真14
ゴラン高原へ

写真15
ゴラン高原へ

写真16
ワイナリー

写真17
ぶどう畑

写真18
ワインのたる

写真19 A
ユダヤ人のバナナ畑

写真20 B
ユダヤ人のゆたかな畑

写真21
ユダヤ人の森のむこうのパレスチナ人地区
 
1980~1997年
想い出の写真

写真22 Ⅰ 1981年
ロスに移住した遠い親戚 左端:筆者の母

写真23 Ⅱ 1997年
藤田牧師夫妻と

写真24 Ⅲ 1997年(藤田牧師宅)
額の写真:1970年

藤田牧師夫妻と遠い親戚を含むセンテナリ-教会員


 平和の証内で紹介させて頂いている「ベルシェバ・ハンド・イン・ハンド・ハガール小学校」、イスラム教徒の子供達と、ユダヤ教徒の子供達が仲良く同じ校舎で学ぶ小学校のことが載っている会報、ケレン・ハオールはヘブライ語で暗闇の中へ差し込む「一すじの光」、希望を意味していますが、NPO, ユダヤ・アラブ青尐年共学共存推進日イ支援会の機関誌です。
 会はイスラエルにおけるユダヤ人とアラブ人青少年の共同教育推進のために、内外に向けて献金依頼活動を行う他、イスラエル国内における二民族の青少年共学共存を推進する団体・組織や施設の共学共存教育活動を支援し、ユダヤ人とアラブ人の和解を目指しています。
 支援金の送り先などは、各号の巻末に示されています。皆さまのご理解とご支援、ご協力をお願い致します。
中村 美代子

ユダヤ・アラブ青少年共学共存推進日イ支援会
会報 『ケレン・ハオール』 PDF
第5号
2010.1.10発行
第6号
2010.4.10発行
第7号
2010.6.25発行

第6号からの抜粋
日本からの読者の声
すごい!大変貴重で、有意義な活動 (N.M 神奈川)
 「ケレン・ハオール 3号」を読み、感服しました。そしてたくさんのことを学ばせていただきました。どうしてこのように「手をつなぐ」試みがもっとなされないのでしょうか……とも思ってしまいます。
 とても感じるところが多かったので、早速幾人かの教会の友人に話しましたら、興味を示しましたのでコピーを差し上げました。
 ひとりは牧師の娘さんで、長い間私と同じように教会学校の教師をしているSさん。彼女のお兄さんもカナダで牧師をしているのですが、国際的な活動もしておられます。中東和平に関しては会議に参加されたり、実際にパレスチナ人の中に入って和平に向けて働かれたこともあるそうです。もちろん、エキュメニカル(超宗教)な視点でです。もう1人は現在、私の所属する教会で伝道師をしているU先生(女性)です。もうひとりは、藤沢市内キリスト教連絡会代表をしているSさん。彼はもともとルーテル教団出身なので、そちらにも広めてくださるかもしれません。3人とも、大変印象深く、ユダヤ・パレスチナ和平問題をより身近に感じたそうで、更に関心を示されました。
 パレスチナとユダヤの人たちが手を取り合う方向は、藤沢教会のメンバー、あるいはキリスト教を離れて私の友人たちの共感、支持を得ていくと思いますので、これから少しずつ中島さんたちの活動をご紹介できれば、と思っています。
 支援していますので、頑張ってください!ユダヤ・アラブ平等教育推進ハガール協会のために、そして、ベルシェバ・ハンド・イン・ハンド・ハガール小学校のために、祈ります。
日本から


更新:2010.9.11